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駆逐艦長 吉川 潔コミュの大胆にして暖かな人柄

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吉川は明治三十三年十一月三日、広島市大畑町に生まれた。

 吉川は広陵中学校に進んだが、兄とともにずっと級長をつとめた。
 やがて兵学校を受験するが、身長が規定に達せず、不合格となった。
 負けず嫌いの彼は、身長を伸ばすために、連日、機械体操に励むとともに、陸軍の被服廠で働きはじめた。そこでの積荷作業が、身長、肺活量の増加に有効と聞いたからである。
 そして翌年、兵学校に合格し、五十期生として入校することができた。
 吉川は子供の頃から口数が少なく、「黙り屋の潔さん」と呼ばれていたほどだったが、兵学校に入っても変わらず、あまり目立つ存在ではなかった。
 クラスで一、二を争う小兵だったが、向こう気だけは人一倍強い頑張り屋だったという。
 少尉任官後も、たまたま帰宅すると、ほとんど終日、黙々と読書をし、また軍事に関するものは新聞でも雑誌でもすべて切り抜くという勉強家でもあった。
 昭和七年一月、第一次上海事変が起きたとき、吉川は第一水雷戦隊「長月」の水雷長であった。
                                  
 このとき、佐世保から出撃した戦隊が陸兵を乗せて、呉淞(ウースン)鉄道桟橋に敵前横付けした。
 一番艦「皐月」に乗っていた級友の右近六次(ありちかむつじ)が、ふと「長月」の艦橋を見ると、吉川が鉄かぶとの下で眼玉を光らせている。機銃弾は矢のように飛んできて防弾板にあたり、カチカチと鋭い音を立てている。そのとき、ふと顔が合うと、彼はまるで戦場にいることを忘れたように白い歯なみを見せてニコニコ笑った。さすが剛胆な右近も、吉川の胆のすわっているのに驚嘆した。
 なおも見ていると、吉川のいるところだけが一段と高くなっている。特製の踏み台の上に立っているのだ。背が低いからといって、何もそこまでしなくても見えるはずだが、これも吉川の敢闘精神の現われだと、右近は感心したという。右近は、のちにキスカ撤収作戦で先任参謀として木村昌福司令官を補(たす)けた人である。
 爾来、駆逐艦長になってからも踏み台は常に愛用した。そして吉川は終生、駆逐艦とともに過ごした。「春風」「弥生」「山風」「江風」「大潮」「夕立」と--------
 直情径行で勇猛果敢だから、たまに部下が目にあまることをしたりすると、身長百五十四センチの彼は飛び上がるようにしてなぐったりした。
 しかし、彼には私心がないから、部下の者はみな彼を慕い、心服した。
 タツ夫人は、のちに吉川を評して、
「几帳面のようでだらしなく、落ちついているようで慌て者、むつかし屋のようで柔らかく……」と言っている。
 ある年の海軍記念日に、旗艦で酒を飲み、帰りの内火艇の中で、右近にチリ紙をくれ、という。
「そんなもの持たん」と言うと、彼はしばらくポケットをまさぐっていたが、何やら紙片を出して鼻をかんだ。よく見ると、それは拾円紙幣であった。夏など防暑服の半ズボン姿になると、裾から長いズボン下がはみ出して風にひらひらしていた。
 開戦前日の十二月七日、「大潮」は、東方支援部隊としてルソン島海域を航行中、「榛名」から燃料を洋上補給することになった。
 両艦が航走しながら燃料補給をつづけている間、両艦橋間の文書交換索で、必要書類とともに重そうな箱が送り届けられて来た。それはかつての部下だった水兵たちから、「大潮」の先任将校水谷秀澄大尉(62期)への贈り物で、出陣祝としるした酒三本が入っていた。
 水谷は嬉しさのあまり手信号でお礼の気持ちを伝えた。
 これを見た駆逐隊司令は、
「開戦前だというのに馬鹿げたことをするな」と注意した。
 少々しょげていた水谷を見て吉川は、
「あれは上下の気持ちが通い合った立派な証拠であり、これこそが戦力の根源なのだから、大事にして大いに祝ってやれ」と慰めてくれ、水谷は感動した。
「この艦長のもとでなら、命を投げ出しても惜しくはない」と。

           
 
 吉川が最初に戦功をあげたのは、昭和十七年二月十九日のバリ島沖海戦である。このとき、吉川は 「大潮」艦長であった。
 バリ島攻略のための陸軍部隊をのせた船団を、「大潮」「朝潮」の二艦が護衛、上陸を成功させたあと、なおロンボック水道を哨戒中、巡洋艦二、駆逐艦三からなる連合軍部隊と遭遇した。戦力比からいって、本来なら交戦を避け、煙幕を展張して避退するのが普通である。が、吉川艦長はそんなことはしない。「朝潮」とともに、この優勢な敵艦隊に猛然と突っ込んでいった。
 激しい砲雷撃戦の末、オランダ駆逐艦ビートハインをまず血祭りにあげる。この猛攻に怖れをなした他の敵艦は、逆に煙幕を展張して遁走した。
 つづいて二時間後に別働隊の巡洋艦一、駆逐艦四が突入して来た。
 ふたたび激しい砲雷撃戦が展開、巡洋艦と駆逐艦一に命中弾をあたえた。このとき、「満潮」「荒潮」が応援にかけつけたため、敵艦は被弾しながら遁走した。
 このいくさで、「満潮」は機械室を破壊され航行不能となったので、「大潮」はこれを曳航し、途中、敵機の襲撃をうけながらも、無事基地に帰りつくことができた。
 このときの功により、連合艦隊司令長官から感状を授与され、それとともに吉川潔の名は全軍に知れ渡った。
 なお、これには余談がある。この海戦でビートハインを撃沈したとき、ボートで漂流中の敵兵十名を「大潮」が発見、これを救助して、のちにマカッサルの捕虜収容所に送り込んだ。
 ところが、一カ月ほどして、収容所長から食糧不足で困っているという話を聞くと、吉川は、すぐ煙草、菓子、食糧などを、持てるだけ持って収容所に赴き、これらをあたえた。捕虜の先任は若い少尉だったが、彼を見る吉川の目は、自分の息子を見るような温かいまなざしであった。捕虜たちは涙をうかべて感謝したという。
昭和十七年五月二十七日、吉川は柱島沖の「夕立」に新艦長として着任した。
 八月三十日、「夕立」は外南洋部隊に編入され、以後、十一月中旬までの二カ月半の間、ガダルカナル島への輸送作戦や飛行場攻撃に参加することじつに十七回にもおよんだ。
 この頃のことである。九月四日---------
 陸兵千名をガダルカナル島に揚陸したあと、「夕立」ほか「初雪」「叢雲」の三艦は帰路の途中、帰りがけの駄賃とばかり、ルンガ泊地に侵入、「これより敵飛行場を砲撃する」と、「夕立」艦長が指揮下の二艦に告げ、八千メートルまで近づくと、飛行場に対し猛烈な砲撃を加えた。
 しばらくすると、敵艦二隻がこちらに向かって来る。
 砲撃を打ち切った吉川は、猛然とこれら二艦に襲いかかる。近距離なので、砲身を水平にしてのつるべ射ちである。三十数分で二艦とも撃沈してしまった。しかも当方に被害なし------
 さすがのやかまし屋、宇垣纏連合艦隊参謀長も舌をまいて、『戦藻録』に次のように書いた。
「夕立艦長は中佐にして、かのバリ島沖海戦における大潮艦長として偉勲を奏せる士なるが、今回また見事なる成果を収む。やはり攻撃精神旺盛なるものはよく勝を収む-------」

           

 昭和十七年十一月十二日夜半、第三次ソロモソ海戦が戦われた。
 ガダルカナル島を何とか奪回しょうとして連合艦隊は、陸軍部隊と軍需物資輸送を成功させるため、「比叡」「霧島」および駆逐艦六をして敵飛行場を砲撃させることになった。それに第四水雷戦隊を基幹とする駆逐艦八隻が警戒隊としてつき従う。
 十二日の夜半、ガ島飛行場に接近して、いよいよ砲撃を開始しょうとしたとき、前路掃討に当たっていた「夕立」が、ル ンガ岬沖に「敵発見」を報じて来た。
 それは索敵機の報告でも、わが軍を待ち伏せしていた巡洋艦五、駆逐艦八からなる強力な敵艦隊であることがわかった。
 この海戦で、吉川が艦長をつとめる「夕立」は、敵の意表をつく行動に出た。「夕立」は先頭に立って僚艦「春雨」とともに全速で飛び出すや、敵の単縦陣型の真ん前でいきなり取舵をとり、敵の前面をおさえるような形で横切った。そのため敵艦隊は大混乱におち入った。あわてて各艦がまちまちに取舵をとったり、面舵をとったり。
 こうなると、砲雷撃よりも、なんとか味方同士の衝突を避けようとするのに懸命である。
 一方、「夕立」はしばらく進むと、今度は百八十度の反転をし、混乱中の敵艦隊の真っ只中に砲雷撃をくり返しながら突っ込んでいった。
 はじめは 「夕立」につられてついて来た「春雨」は、あまりに激しい 「夕立」の動きについて行くことができず、「夕立」は単艦となる。
 このとき「比叡」が照射を開始し、アトランタに三式弾をぶち込み、指揮官スコット少将以下ほとんどの幕僚を倒してしまった。
「夕立」はなおも前進して敵巡洋艦に千五百メートルの距離まで突入し、魚雷をつぎつぎに発射する。たちまち巡洋艦二隻に、魚雷数本ずつを命中させた。
 本来なら、ここで「夕立」は戦場をはなれ、魚雷を次発装填してからふたたび突入するべきだが、
吉川はそんなまだるっこいことはしない。
「砲術長、どんどん撃てっ」
 どんどん撃て、という号令は砲術の教本にはない。
 しかし、椛島千蔵砲術長(65期)は、奮い立ってどんどん撃ちに撃った。
 旗艦サンフランシスコに多数の命中弾を浴びせかけ、カラハン少将が戦死したのは、このときの命中弾によるものと推定されている。
 このときは敵の真っ只中にいるわけだから、両舷同時攻撃である。
 そのうちに味方の弾もあたり出した。そしてついに「夕立」の機械室に味方のものか敵のものかわからない砲弾が命中、「夕立」は航行不能に陥った。
 この戦闘での米側の損害は、沈没は巡洋艦二、駆逐艦四、他の駆逐艦すべてに大中破の被害をあたえた。
 これに対し日本側は「比叡」「暁」「夕立」が沈没。駆逐艦二が小破となっている。
 この戦闘で吉川艦長は、頭と顔、それに肩、腕などを弾片でえぐられ、鮮血で全身真っ赤になったが、部下の手当が終わるまで、「俺にかまうな」と言って、看護兵を近づけなかった。
「五月雨」が救助に近づいてきて生存者九十三名を移乗させ、最後に血だらけの吉川が、足どりも軽く乗り移っていった。
 やがて「夕立」は「五月雨」 の雷撃によって沈められた。
 吉川は、艦と運命をともにすることなどまったく考えていなかった。命あるかぎり、艦を乗りつぶしてもあくまで敵を倒す、それが彼の信条であった。
「夕立」に乗っていた頃のことを、後に御園生軍医長は、次のように書いている。
『吉川艦長は部下と話すことが好きで、碇泊中には前甲板にデッキチェアを出してしばしば雑談にふけっておられた。
 あるとき、私は艦長にご意見をうかがってみた。
「ガ島へ何度も輸送や攻撃作戦をやっていて、そのたびに急降下爆撃機に突っ込まれ、私は恐い思いをしましたが、艦長は恐くないんですか」
 すると吉川艦長は、
「軍医長、それは恐くないことはないさ。ただ俺たちは、対空戦闘の指揮や操艦で頭が一杯だから、こわさをわすれているだけだよ。軍医長のように、ただどうなるか、と見ているのは恐いはずだよ。あとは自分の使命感で耐えるほかないね」とたいへん率直なお話をして下さった』

 乗艦を失った吉川は、十一月末、横須賀に帰還した。
 このとき彼は兵学校の教官になるはずで、同じ「夕立」の中村悌次水雷長(67期)も、椛島千歳砲術長も教官になった。
 だが、吉川はどうしても駆逐艦で戦いたいといって、ちょうど竣工したばかりの新鋭駆逐艦「大波」の艦長となり、ふたたびソロモンの海へ出ていった。
 昭和十八年十一月二日、米軍はブーゲンビル島のトロキナ岬に上陸してきた。
 それに対してわが軍は、十一月二十一日からプカ島に陸海軍部隊を緊急輸送する作戦を開始し、吉川の「大波」は、「巻波」とともに輸送隊の警戒隊として出撃し、第一次につづき第二次も輸送に成功した。
 しかし、勇猛艦長にもついに最後のときが来た。
 十一月二十五日夜、第二次輸送を成功させたあと、輸送隊と合同してラバウルに帰投する途中、プカ島西方海域において米駆逐艦五隻に奇襲された。
 暗夜でも的確に探知する敵の優れたレーダーの前には、いかんともすることができなかったのである。
 つぎつぎにくり出される魚雷に、たちまち「大波」「巻波」「夕霧」と沈んでいった。
「大波」の生存者は一人もいないため、吉川の最後がどんなものであったかわからない。
 戦争の全期を通じ、日本海軍が投入した駆逐艦の数は百七十七隻、艦長は数百人を数えるが、吉川は駆逐艦長としてはただ一人、二階級特進して少将に任ぜられた

コメント(1)

吉川潔中佐が艦長を務め、第三次ソロモン海戦で壮絶に戦った駆逐艦「夕立」の水雷長であった中村悌次中尉(のちの海上幕僚長) は、執筆した本の中で数ページに渡って吉川艦長の思い出を書き「夕立での私にとって最も大事なことは、吉川潔艦長にお仕えできたということです。ミッドウェーの少し前、昭和17年5月から第三次ソロモン海戦までですから半年弱ですが、本当にその短い間が、私の海軍生活の全部であったような気がします。本当に幸せでした」
と書いているそうです。

中村氏が吉川艦長を評した文章を一部引用しますと

「自分の自慢と言うことは一切されない。そして、どんなに『夕立』がいい戦をやった時でも、外に対して驕らないのです。実に謙虚な、当たり前のことを淡々とやると言う感じでね」

「格式張らないざっくばらんな方で、士官室におられると、自然にみなが集まってくる。自然にみんなが寄ってくるような…温かみが自然に発散されるのです」

「訓練は非常に厳しい。訓練だけに時間を割くことはできませんから、朝夕、戦闘配置についた時に訓練をされるのですが、必ずご自分で号令をかけて、そして全部いちいち号令どおりに動いているかチェックをして、それから各科長 (水雷長の中村中尉など) に渡される。だから、戦闘をやる時も、艦の戦闘指揮、戦闘号令が、流れるように自然に、適時適切に出るのです」

帝国海軍屈指の名将と言われる木村昌福中将の人物描写とよく似ているように思います。
穏やかで気張ったところの少しもない人柄ながら、戦において一つも誤ることがない、という凄い人だったようですね。

なお、吉川中将について上記のことを書いている中村悌次氏は、兵学校をクラスヘッドで卒業し、戦後は海上自衛隊に入って海上幕僚長まで上り詰めた人です。
中村氏が現役の当時、中村海将と接するアメリカ海軍の将兵が「何でアメリカ海軍には、ナカムラ提督のような立派な人がいないのか」と嘆いたという逸話があります。

中村海将は、若き日に半年間仕えた吉川少将から非常に大きな影響を受けたのでしょう。

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