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武田二十四将コミュの『武田クイズ』でバトン

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[日本史・戦国・幕末歴史好き] コミュニティで、トピック「いきなり今日の歴史クイズ! 」がわりと盛りあがっていたので、私もやってみたいと思います。

答えが分かった方は、
A、
で答えて、次に、
Q、
で新しい質問を考えて、次へ回して下さい。

また、2〜3日たっても回答者がいない場合は、質問を出した方が解説してまた問題を出してください。

では、私から質問を。あとをよろしくお願いいたします。

※このトピックの主旨は、ただ質問に答えて回していくというだけではなく、その武将武将のエピソードを語れるということも多く含んでいます。「この武将はこんな武将でもあったのか〜」という発見ができたら嬉しいですよね。
エピソードだけでは誰か分からない(難しい)場合は、少しヒントも加えていただけると、いっぱい語れそうですよね。

もし質問や回答に誤りがあった場合は、遠慮なくコメント下さい。

コメント(113)

A、武田信豊

他にも何人かいそうですけどねw
思いついたのであげてみましたw
違っていたら訂正お願いいたします。

では、
Q、武田信虎の信濃侵攻を何度となく阻止し、そればかりか、
むしろ甲斐にまで攻め込み、一時は飫富虎昌らを味方に引き入れて
武田信虎と戦い、一進一退の攻防を繰り広げた猛将。
わずか5歳で家督を継いで諏訪一族を束ねた諏訪家中興の祖と
まで呼ばれた武将は誰でしょうか?
ちなみに武田晴信が攻め殺した諏訪頼重の祖父にあたります。
>76:夢酔藤山さん
止めてしまってすみません。
一応、ドラマに関連のある家を選んだつもりだったのですが…w

>78:岩鬼さん
答えが分からないので、そのまま質問を継がせてもらいます。
77の答えは、石山の坊主の方ではないですかね?

Q:現在、NHKで大河ドラマ「風林火山」が放映されていますが、
その主役である山本勘助が考案したと言われている武田氏の城塞に
よく見られる「丸馬出しの前に位置する堀」があります。
この「堀」は何堀と呼ばれているでしょうか?
また停滞してしまっていますので、答えてしまいますねw
問題に答えるよりも問題を考える方が難しいんですよねw

A、三日月堀

ですかね。

では問題です。
Q、亨禄元年(1528年)8月に、武田信虎は先達城を修築し入城。
8月20日には朝方の神戸、さらに境川で諏訪頼満と激戦を繰り広げました。
朝方の戦いでは敗れましたが、境川の戦いではみごとに諏訪勢を迎撃しました。
また、
亨禄4年(1531年)には塩川で諏訪頼満と戦い、諏訪勢を迎撃しています。
この塩川合戦では、栗原氏、今井氏ら多くの家臣が武田信虎に反旗を翻し諏訪氏についています。
さてここで問題です。
この合戦で武田信虎を裏切り、諏訪頼満とともに武田信虎と戦った武将のなかで、のちに武田晴信の嫡男武田義信の傅役をつとめる武将がいました。いったい誰でしょうか?
県歌ですか〜w
検索したらヒットしそうですが、どんな人なんだろうと
ちょっと答えが出るのをうきうき待っていましたw
いったい誰なんだろう…w
高遠城がヒントなんですよねぇ…。
高遠頼継、武田勝頼、仁科盛信…なんか思いつきますが、
答えが楽しみです。
A、大城

でしょうか。義光の築城ですが、それぐらいしか思いつかないです…。
若神子城も戦国時代の城として書物には出てきます。

岩鬼さんの教来石氏の由来、勉強になりました。
まだまだ私も勉強不足だなぁ…と感じますw

Q、甲斐源氏から分かれた大井氏は、戦国時代になると、
信濃へも勢力を広げていました。
小笠原氏から分かれた大井氏は佐久郡を中心に、岩村田、大室、長土呂、
岩尾、根々井、耳取、小諸、武石、森山、平原、平賀などの諸氏に
分かれて、
岩村田大井氏は数数の合戦で中心的な人物としても名が見えるほどでした。
しかし戦国時代になると周りの大名の草狩場となってしまい、
武田信虎や村上義清に攻められ、結局文明年間には村上氏に属すまで落ちてしまいました。
また、武田氏から分かれた大井氏は、
武田信虎の時代には何度となく武田信虎に反旗を翻し、
武田信虎の甲斐統一を阻止していました。
さて、問題です。
今川氏の支援を受けて武田信虎に反攻していた大井氏の当主で、
のちに武田信虎に降伏し、娘を武田信虎に差し出した武将は
誰でしょうか?
>夢酔藤山さん

へぇ…、難しかったです。
谷戸砦があることは知ってましたが、そうだったんですか。
笹尾砦、旭山城、源太ヶ城、深沢城、獅子吼城、穴山館、
白山城、韮崎城なども頭にはあったのですが、
分かりませんでした。

大井信達、大正解ですw

問題はそのまま引き継ぎます。
Q、甲府五山。三条夫人の墓所があるお寺の名前は?
A.高遠の建福寺

はじめまして。最近ミクシを始めたばかりの初心者ですがよろしくお願いします。
勝頼が諏訪を継ぎ高遠城代になった時にたてたとか。建福寺、数年前に行った時は『湖衣姫の墓』とありましたが今はどうなってるんでしょう。信玄公祭りでも"湖衣姫(由布姫)”という表記に変わってましたが…;

では二十四将関係で有名なエピソードから

Q.歴史上武田贔屓で有名な徳川家康。武田マニアな家康が部下の本田信俊の子供の幼名にとある武田の武将の名前をつけました。その武将とは?
かりんさん、ありがとうございます。

本多信俊の子どもの幼名ですか…なかなか面白いところですねw
難しいなぁ…。
さて、誰か分かる方いますでしょうか?
もう1ヶ月もそのままになってしまっていましたので、ここらで答えて次へつなげたいと思いますw

A、山縣

本田信俊なる人物の方がいったいどんなやつだったのかと気になるところなのですが、徳川家康が家臣の子の幼名に山縣と名のらせたという話は聞いたことがあります。

Q、かりんさんが出題してくださった答え(違っていたら訂正お願いいたします)の「山縣」は、徳川家康が山縣昌景に、武将として敵ながらも惚れこんだことから起こったとされています。そんな剛勇として名高い山縣昌景ですが、今日では飫富虎昌の弟といわれることが多いですね。しかし、諸説はあるものの、実のところは山縣昌景は安芸国(安芸武田氏家臣山縣氏)出身で、飫富虎昌の姉の子とされています。飫富虎昌にとっては甥にあたるわけです。
さて、ここで久久の問題です。
山縣昌景の父で、永正年間の船岡山合戦や有田中井手合戦などで武功をあげた安芸武田氏の家臣は誰でしょうか?
ちょっと難しいかなw
A、山縣重秋

でした。
山縣昌景は山縣重秋の六男とされています。

さてではまたまた、
Q、板垣氏、甘利氏、飫富氏が甲斐源氏に連なる家柄で、甲斐武田氏の一族というお話をしてきましたが、同じく甲斐源氏の一族であり、武田信政の七男、岩崎信盛からはじまる家系で、板垣信方や甘利虎泰、飫富虎昌らにひけをとらない重臣として、武田晴信の信濃侵攻にも大きな戦功を立て、『高白斎記』の著者でも有名な、岩崎政時の次男は誰でしょう?
A、駒井高白斎

でした。
板垣信方、甘利虎泰、飫富虎昌らとならんで宿老として活躍しました。

さて、
Q、大永2年(1522年)10月に平賀源心斎(大井成頼)が村上義清の支援をえて甲斐国若神子へ侵入してきたときに、武田信虎の命で迎え撃ち、村上義清らを敗走させた武将は誰でしょうか?

ヒントは、
「武田信虎の家臣に猛将○○○○あり」と轟かせたほどの武将です。
ところが、そんな猛将にもかかわらず、亨禄2年(1529年)に武田信虎が一族加賀美四郎を討ったのを諌めたために斬首された。忠誠の士であったにもかかわらず、ひとたび意に逆らえば斬首をまぬがれないと君臣一体の感情など生まれるはずもなく、のちにクーデターによって武田信虎は追放される。
その武将は武田氏と祖を同じくする。その武将が諌死してのち、天文15年(1546年)に教来石信房が名跡を嗣ぎ再興された。
A、馬場虎貞

でした。
馬場虎貞は、武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の重臣。「武田信虎の家臣に猛将馬場虎貞あり」と轟かせたほど。のちに武田晴信が教来石信房に馬場氏を継がせたことでもいかにその武名が高かったかがうかがえますね。

さて、ちょっと今までとは違った問題です。

Q、現在の山梨県は、当時なんという国名だったでしょうか?
すっごく簡単な質問です。

「峡(かい)」の借字から国名へとなった。四方連衡の山岳地帯、山ばかりの小国であったために、山峡の国といわれるところからきているという。
A、甲斐国(かいのくに)

でした。
ちなみに、甲府は甲斐国府中の略語からきています。また古府と新府という言われ方もされていました。韮崎に新しい甲斐国府中が建設され新府と略されたわけです。躑躅ヶ崎館が古府(甲府)ですね。
駿府は当然、駿河国府中の略です。また国府という言い方もありますね。全国各地に国府という地名も残っていて、戦国時代の国の府中だった場所です。

Q、武田晴信は天文2年(1533年)にある娘と結婚します。
そのある娘とは誰の娘でしょうか?

ヒント、
ちなみに当時武田晴信は13歳。娘は14歳だったというので夫婦というよりもまだ子ども同士といえます。
ただ武田晴信は結婚後すぐさま実質的に夫婦生活を営み、翌年11月には早くも懐胎させている。幼かったせいか難産の末、母子ともに亡くなってしまっている。
私はその娘を川越殿と呼んでいる。
岩鬼さん、ありがとうございます。
上杉朝興、大正解です。確かに…もし生きていたらどうなったのでしょう。北條氏との関係や今川氏との関係を考えれば、おそらくもっと前に滅亡していたでしょうねぇ…。

A、松平信吉

ですかね。
松平信吉は松平元信(徳川家康)の五男で、穴山信治嗣により穴山信吉と名乗り、さらに武田氏を相続しました。早世してしまったため、大名としての武田氏は松平信吉の死とともに滅亡となったといいます。

Q、さて、私が前回出した話のつづきになりますが、武田晴信は上杉朝興の娘を亡くした後、再婚をします。その再婚相手はすっごいお嬢そまでした。さて誰の娘でしょうか?

ヒント、
清華七家の一家で名門。
武田氏はその娘の父親を通じて朝廷とつながり、その娘の姉(細川晴元夫人)を通じて将軍足利家とつながり、その娘の妹(本願寺顕如夫人)を通じて本願寺ともつながるといった豪華な縁組となった。
武田晴信は、その娘の人脈をふるに利用し、長尾景虎や織田信長らを牽制している。
A、岐秀玄伯

でしょうか。

岐秀玄伯は、武田晴信の政治力を支えた帝王学(孔孟の教えなど)を伝授した学問の師ですね。「信玄」の号を贈った人物としても有名です。ちなみに武力の師は荻原昌勝といわれています。

Q、長尾景虎(上杉謙信)は生涯妻帯せずに、不犯のまま一生を終えたことになっていることから、長尾景虎は不能だったとか、短小だったとか、実は女だったとか、色色と説があります。ただし、長尾景虎の場合、確証は何もない。
ところが、武田晴信の場合は、ホモだったという確証がはっきりと残されており、東京大学史料編纂所に保存されています。

「弥七郎にいいよったことは確かですが、弥七郎に断られて実際は何もしていない。」
「だから弥七郎と夜をともにしたことは一度もない。夜ばかりではなく、昼だってそうで、今夜だっていいよったりするようなことはしない。」
「本当はあなたと仲良くなりたい。それであれこれ動きまわると、あなたは勘違いして疑っているようですが、それは困ります。」

と、いったように、内容はまだまだ続くのですが、武田晴信がすねてしまったある武将にたいして、疑いをはらそうと送ったラブレターです。
さて、

この武田晴信の本命のホモの相手とは、誰でしょうか?
A、僧侶妻帯役

ですかね。妻帯税ともいうでしょうか。武田氏はけっこうこういった税があるんですよねぇ…。

Q、武田晴信は、上杉朝興の娘(川越殿)と婚姻を結んだ後、三條公頼の娘(三條殿)と再婚している。この婚姻には大きな政略があったのだが、その後、武田晴信は側室を数人娶っている。

さて問題。
武田晴信が諏訪氏を攻め滅ぼし、その城主の娘(私は諏訪殿と呼んでいます)を側室にしたのだが、その娘は誰の娘でしょうか?

ちなみに、武田晴信は東信濃の根津氏の娘や、武田氏一族油川信安の娘、勝沼信友の娘なども側室にしています。
岩鬼さんありがとうございます。
なかなか更新できずに申し訳ないです。

さてさて、問題ですが、諏訪湖に…はて何でしょうか。
自分を諏訪湖に沈めてくれとでも書いてあったのでしょうか…?

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