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武田二十四将コミュの内藤相模守虎資

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内藤相模守虎資について語り合いましょう。
内藤相模守虎資についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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内藤相模守虎資 1495〜1537年

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内藤虎賢、虎貞ともいう。
内藤昌盈の長男。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
源満季(疋田為輔、疋田成道)、疋田成家らを祖とする。 疋田為範の長男内藤康範から内藤氏ははじまる。内藤康範、内藤為康父子から内藤氏は内藤保康の代まで流れ、 内藤為康の次男である佐伯為弘の流れ(佐伯為弘、佐伯為貞、佐伯為久、佐伯為彰とつづく)をくむ 佐伯為彰の長男佐伯景廉が内藤保廉を嗣ぎ、 内藤教泰、内藤廉徳、内藤廉輔、内藤藤廉、内藤輔次、内藤輔実、内藤泰藤、内藤廉次、内藤就藤、内藤元輔、 内藤元藤とつづき、内藤元輔の次男内藤元重へと継がれていく。
内藤廉次の次男内藤守秀の子孫が内藤虎資である。
内藤筑後守昌盈の長男として内藤虎資は明応4年(1495年)に生まれる。父内藤昌盈は内藤右京守秀の次男であり、武田信昌の側近だったことから「昌」の字を賜り、 内藤虎資も武田信虎の股肱の臣として「虎」の字を賜る。ところが、『武田三代記』によれば天文6年(1537年)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、工藤虎豊とともに誅殺されたという。忠誠の士であったにもかかわらず、ひとたび意に逆らえば斬首をまぬがれない。これでは君臣一体の感情など生まれるはずもなく、のちにクーデターによって武田信虎は追放される。 内藤虎資らの死が大きく影響していることは言うまでもない。のちに武田晴信が武田氏当主となると、工藤源左衛門尉祐長(工藤昌豊)を内藤氏復興のために内藤姓を名のらせ内藤昌豊とさせた。 内藤虎資には、長男内藤常陸守昌貞(落合常陸守)、次男内藤清左衛門尉昌基(青木清左衛門尉)がいる。
安芸武田氏にも内藤氏は分布しており、内藤少輔九郎元康、内藤伊勢守元種らがいる。 長田為紀の流れをくむ内藤氏も安芸武田氏に仕えており、内藤内匠泰勝、内藤河内守元方、内藤与三右衛門元栄、内藤将監教方、内藤松之助元種らがいる。若狭武田氏にも分布しており、内藤筑前守元廉、内藤筑前守勝高、内藤筑前守勝行らがいる。
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