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武田二十四将コミュの山本勘助晴幸

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山本勘助晴幸について語り合いましょう。
山本勘助晴幸についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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山本勘助晴幸 1493〜1561年

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大林勘助、山本晴幸、菅助、勘介、松田七郎左衛門、道鬼入道ともいう。
吉野貞幸の三男。大林貞次嗣。
吉野図書貞幸(山本図書幸三)の三男として明応2年(1493年)に駿河富士郡山本に生まれる。初名は源助。
永正元年(1504年)、牛久保城主牧野右馬助(牧野出羽守)の家臣大林勘左衛門貞次(大林兵左衛門尉)の養子となり、大林勘助と改めた。20歳になった永正9年(1512年)、養家を出て諸国修行の旅に向かう。高野山に登り、摩利支天堂に籠って修行を積む。永正10年(1513年)、京都(山城)で大内氏と細川氏の間で繰り広げられていた争いにおいて、 山本勘助は大内陣営に馳せ参じ、安芸武田氏に雑兵として仕えることになる。永正12年(1515年)、武田元繁が大内義興の命で安芸に帰国したときに 山本勘助も安芸に下る。帰国した武田元繁は大内勢力の駆逐に乗り出し、安芸国は戦乱の坩堝と化す。永正14年(1517年)10月22日有田中井手合戦で大内勢の毛利元就に討たれてから、安芸武田氏は急速に勢力を失い連戦連敗というていたらく。出雲尼子氏の支援で何とか存続していた状態だったが、 山本勘助は安芸武田氏を見限り、安芸に妻子を残して再び修行の旅に繰り出す。近畿、西国、四国、山陽、山陰方面を遊歴し、軍法軍略の奥義体得に励む。大永7年(1527年)には15年にわたる諸国遊歴を終えて帰郷したが、養家大林家の事情により旧姓を復し山本勘助と改める。天文4年(1535年)、関東へ武者修行へ出て北條氏に仕官を望むがかなわず、母方の親戚庵原阿波守忠胤(庵原弥右衛門忠房)を頼り今川氏への仕官を試みるがかなわず、いずれも風采を理由に断られたものという。
天文12年(1543年)3月には武田氏に仕官。100貫の予定だった知行を300貫にまで変更させたというだけあって、智略に長け、南信濃をほぼ平定した天文15年(1546年)7月21日には500貫の加増を受け、800貫、足軽も25人から75人となり足軽隊将に抜擢される。 原虎胤、横田高松、多田満頼、小幡虎盛ら足軽隊将五人衆のうちの一人に数えられる。さらにその原虎胤の妹と再婚し、2人の子どもを設けた。佐久郡内山城攻め、志賀城攻め、山内上杉氏との合戦にも従軍し、武田晴信の側近として軍師の役目を担うようにもなっていく。
天文16年(1547年)、高遠城を建築するなど、長きにわたった修行の成果ともいうべき得意とする城取り陣取りの法を大いに役立てた。
天文19年(1550年)9月の戸石崩れの際は、村上勢主力の侵攻方向の流れをかえることで、武田晴信撤退を援けている。弘治元年(1555年)には、『妙法寺記』によれば300挺の鉄砲隊を率いて旭山城を攻めたという。
永禄2年(1559年)、武田晴信の剃髪を追って、永禄3年(1560年)に入道して道鬼と改めと、『信州松原文書』『甲陽軍鑑』『甲州安見記』などに記されている。
永禄4年(1561年)の第四回川中島合戦で、西条山(妻女山)に陣をしいた長尾景虎の背後を奇襲し、西条山を出たときに別働隊で撃つという『きつつき戦法(啄木鳥戦法)』を進言。しかし長尾景虎に見破られ、戦法が失敗に終ったばかりでなく、武田信繁や諸角虎定らが討死し、自らも討死した。全身に80余ヶ所の手負い傷を受けても奮戦していたという。『甲陽軍鑑』『甲州安見記』『名将言行録』などには山本勘助戦死が記されているが、武田史料として信頼性の高い『妙法寺記』『高白斎記』『王代記』には見られない。『武田三代記』『川中島五箇度合戦之次第』『北越軍記』『常山紀談』『武功雑記』などは江戸中期に書されたもので、『甲陽軍鑑』が世に出て以降のものであり、『甲陽軍鑑』を参考史料とした軍談本の類でしかない。
これまで実在か架空かと江戸時代からいろいろと取沙汰されてきた「幻の軍師」であったが、『市河文書』の断片が発見され、これに「山本菅助」の名を見ることになって、「菅助」と「勘助」の文字の違いこそあれ、少なくとも武田晴信の重要指令を口頭で直接伝達できるほどの立場にあったと考えられる。武田晴信の側近として存在していたことは確かなようだ。『甲陽軍鑑』などには武将として華々しい活躍をする山本勘助であるが、『武功雑記』には山縣昌景に所属する斥候隊員でしかない。
山本勘助には安芸に残してきた長男以外に、原虎胤の妹との再婚でできた次男山本勘之助(山本源蔵)、三男山本助次郎がいる。 山本勘之助は天正3年(1575年)5月の長篠合戦で討死。山本助次郎は31歳のとき山中城合戦で討死。 山本勘助には娘もおり、饗庭十左衛門頼元(饗場頼元)に嫁いでいる。
父吉野貞幸は、吉野貞久の次男であり、加茂山本家祖。 吉野貞幸には長男山本菊一郎貞次(吉野貞次)、次男山本藤七、三男山本勘助がいる。 山本貞次は本家吉野貞宗を嗣ぐ。 山本貞次にはニツ沢吉野家祖である長男山本九郎左衛門貞家(吉野九郎左衛門)、石ノ宮吉野家祖である次男山本貞重(吉野貞重)がある。 山本貞家には長男山本日向守貞時(吉野日向守貞時)、次男山本元信、三男山本貞光がある。 山本貞時には長男山本助左衛門(吉野助左衛門)がある。
山本藤七は越後山本家祖であり、山本藤七には長男山本豊守(山吉豊守)がいる。
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