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武田二十四将コミュの浅利伊予守虎在

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浅利伊予守虎在について語り合いましょう。
浅利伊予守虎在についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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浅利伊予守虎在 1506〜1546年

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信晴ともいう。
武田信虎の重臣。
八代郡浅利郷(山梨県中央市浅利/東八代郡豊富村浅利)を領す。侍大将として武田信虎に仕えた。浅利隊は赤備えとしても有名。攻撃部隊の将。 浅利虎在は武田信縄の娘婿であったことから、武田信虎の義弟として重く用いられた。 浅利虎在の長男浅利信種は武田晴信の従弟にあたり、 武田晴信の代になってからも、重く用いられた。
浅利虎在には長男浅利式部少輔信種(浅利右馬助信音)、次男浅利義益がいる。 浅利信種には長男浅利式部丞昌種(浅利彦次郎)がいる。
浅利信種は90騎をもつ旗本侍大将。のちに30騎を加えられ120騎を率いた。 武田晴信の信濃、上野攻略戦において活躍。上野箕輪城を攻略後、真田幸隆、真田信綱父子、甘利左衛門尉のあとを受けて箕輪城将となり、関東方面の責任者となる。 武田義信事件後の武田諸将の武田晴信への起請文「下之郷起請文」の取りまとめの奉行もつとめた。竜朱印状の発行も確認されていることから、武田家の軍政における地位はかなり高かったといえよう。永禄12年(1569年)、北條氏の居城である相模小田原城などを攻める。武田軍は小田原城攻囲は4日程で解き、甲斐国への帰路へ付いた。その途上、10月8日、北條氏照、北條氏邦たちが、武田軍の帰路を塞ぎ小田原城の軍勢との挟撃を図って発生したのが三増峠の戦い(三増峠合戦)。三増峠上に布陣する北條氏照、北條氏邦軍と峠を登る武田軍との間で激しい戦闘となった。この戦闘の折に、殿をつとめた浅利信種は馬上で部隊の指揮を執っていたが、 北條下総守の手勢に鉄砲で撃たれ、落馬して死亡。軍監として陣中にあった曽根下野守昌世(曽根内匠)が代わって浅利隊の指揮をとり、指揮官を失った浅利隊をよくまとめた。 浅利信種の戦死を受けて、新たに箕輪城将、上野方面の責任者になったのが工藤昌豊(内藤昌豊)。また、浅利同心衆(相備え)は土屋昌次が引き継いだ。
浅利昌種は父浅利信種の120騎を継ぎ、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、 徳川家康に仕え、本田平八郎の配下に加えられた。
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