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武田二十四将コミュの米倉丹後守重継

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米倉丹後守重継について語り合いましょう。
米倉丹後守重継についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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米倉丹後守重継 1519〜1575年

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米倉宗継ともいう。
米倉重純の次男。
武田信虎の足軽隊将。牧野原氏の娘を妻としている。武川衆の頭領。
米倉氏は奈胡義継の次男米倉信継からはじまる。 米倉信継が甲斐国巨摩郡武川筋米倉郷(八代町)に拠って姓としたという。はじめ武田信虎20人衆徒歩若党の1人にあげられ、甘利虎泰の同心頭となり、合戦で13度の槍合せ、うち8回に功名をあげている。剛の者として名高い。 武田晴信旗本5人衆にも加えられ、7人の足軽隊将のうちの1人となる。
甘利虎泰の配下となり戦功をたて、天文21年(1552年)に信州苅屋原合戦に新兵器として鉄砲玉除け(鉄砲や矢を防ぐ竹の盾)の竹束を工夫したことで有名。竹束というのは青竹を束ねて楯をつくり、その表面に油を塗ったもので、敵の放つ矢や鉄砲弾を防いだ。これに車輪をつけたものを車竹束といい、さしずめ装甲車。この新兵器、実は古代中国の三国時代に登場しており、 米倉重継らも中国の兵法書に精通していたことを物語っている。
天正3年(1575年)長篠合戦にて討死した。
米倉重継の嫡男米倉彦次郎晴継(米倉彦二郎)は、永禄5年(1562年)に武蔵松山城攻めで瀕死の重傷を負ったところ、寄親(直属の上司)の甘利昌忠に馬糞汁を飲まされ、まもなく治ってしまうという。永禄12年(1569年)、駿河薩捶山で没したいう(天正3年(1575年)長篠合戦で戦死したともいわれている)。 米倉重継の次男米倉五郎兵衛忠継(米倉主計助)は天正10年(1582年)武田氏滅亡後、遠江国桐山(静岡県金谷町/榛原町)に潜居していたところ、徳川家康より扶持を受ける。6月には徳川家康の甲斐入国に際し、折井次昌とともに武川衆を率いる。12月には巨摩郡円井郷(韮崎市)に430貫文を給される。天正18年(1590年)に武藏国鉢形(埼玉県寄居町)に750石を給されている。
米倉重継には、長男米倉晴継、次男米倉忠継以外に、三男米倉種継、四男米倉豊継、五男米倉利継、六男米倉満継、七男米倉信継らがいる。
米倉種継には長男米倉清継がいる。米倉信継には長男米倉永時、次男米倉定継らがいる。 米倉清継には長男米倉昌純がおり、米倉昌純、米倉昌尹とつづき、米倉昌尹には長男米倉昌明、次男米倉昌仲がいる。 米倉昌明には長男米倉昌忠がいる。
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