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武田二十四将コミュの横田備中守高松

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横田備中守高松について語り合いましょう。
横田備中守高松についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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横田備中守高松 1488〜1550年

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横田俊昌ともいう。
横田氏は、南部守行の六男横田五郎行長からはじまる武田氏一族。
伊勢国出身ともいわれる。 甘利虎泰の足軽隊将をつとめる。信濃進攻戦で活躍。戦場数34度、戦場傷31ヶ所、知行地3000貫文。敵の動きをすばやく察知し、その動きによっていち早くその戦術を読みとり、先手先手と手を打ってつねに味方陣営を勝利に導く敵の先手を打つ戦術に優れた戦上手、合戦巧者、智謀の将と名高い。 多田満頼、原虎胤、小幡虎盛、山本勘助らと並んで「甲陽の五名臣」の一人に数えられる。『甲斐国志』には武田晴信の代には食禄3000貫、騎馬30騎、手勢100人の足軽隊将と記されている。知行3000貫というのは武田氏時代ではかなりの高禄であったといえる。 甘利虎泰の相備えをつとめ、実質的には侍隊将格の地位にあった。
天文10年(1541年)6月に武田信虎が駿河へ追放され、南信濃や東信濃への進攻作戦では、 板垣信方、甘利虎泰、飫富虎昌と並んで横田高松隊も武田の精鋭部隊といわれ、『妙法寺記』や『高白斎記』など信用度の高い武田史料にも、横田高松の活躍は記されている。天文16年(1547年)8月、志賀城攻めでは、志賀清繁(笠原清繁)は親戚にあたる上野国菅原城主(群馬県妙義町)高田憲頼らの応援もあって、「武田晴信恐るるにたらず」との気概があった。 武田晴信は板垣信方、甘利虎泰、飫富虎昌、横田高松を主力として徹底的に攻撃。援軍のくることを察知したため、援軍到着する前に攻め落とさないと不利になると進言し、 横田高松は水口を断つ大功をあげる。水口を奪う手段は内山城攻略でも使用された作戦。さらに駆けつけた山内上杉の救援軍(金井秀景)を撃破する大活躍をし、武将格の首級15人、将士雑兵の首級3000余を志賀城周辺に並べて城兵を威嚇。志賀城を落城させている。天文19年(1550年)9月3日、戸石城攻めでは、横田高松は攻め口を探る役目をつとめている。しかし劣勢から撤退となり、敗走する武田軍の殿をつとめ壮絶な戦死をとげた。『妙法寺記』は「信州戸石の要害を御退け候とて、横田備中守をはじめ随分衆1000人ばかり討死なされ候。されども御大将はよく退き召され候云云」と記している。 武田晴信本隊は無事に大門峠を経由して諏訪へ戻ることができた。『石水寺物語』には武田晴信が「優れた武将になるとするならば、横田高松や原虎胤のようになれ」といつまでもその死を惜しんだと記されている。
横田高松は跡継ぎがいなかったこともあり、武田晴信が原虎胤の長男原十郎兵衛康景を養嗣に入れたが、長篠合戦で討死してしまっている。
一族には横田下野守重晟がおり、横田重晟には長男横田九郎左衛門重政(横田九郎三郎正秀)、次男横田重員、三男横田重治、四男横田重次、五男横田利勝がいる。 横田重政には長男横田茂右衛門政次(横田庄五郎正次)がいる。
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コメント(1)

横田備中守高松の末孫(末孫・・・その人の血をひく遠い親戚)
です!「武田家家臣末裔者ノ会 武田家旧温会」に所属しています。

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