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武田二十四将コミュの長坂筑後守虎房

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長坂筑後守虎房について語り合いましょう。
長坂筑後守虎房についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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長坂筑後守虎房 1513〜1582年

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長坂長閑斎、長閑、頼弘、光堅、釣閑斎光堅、佐衛門尉、左衛門、左衛門尉、金吾入道ともいう。
長坂昌房の長男。武田信虎、武田晴信の重臣。武田勝頼の傅役を務める。
佐久郡根岸の日向城(根岸日向城)、小谷の大網城などの城代、諏訪郡代を歴任。
長坂氏は、甲斐源氏を祖とする小笠原氏の庶流にあたる。父長坂昌房は武田信昌、武田信虎の重臣。母は武田晴信の乳母であったことから武田晴信の乳兄弟。 武田晴信にとっては兄のような存在だったといわれる。甲斐逸見筋長坂郷(山梨県北巨摩郡長坂町長坂)を領する。 板垣信方の配下として信濃侵攻戦に従軍。天文9年(1540年)には武田信虎の佐久郡侵攻に参戦し、反撃に出た村上義清と戦っている。 長坂虎房と日向昌時は残念ながら敗走しているが、上原昌辰が海尻城を死守。天文11年(1542年)には諏訪侵攻に従軍し、諏方蓮芳を討ちとり、足軽隊将に抜擢され、50騎、足軽45人保持となる。その後も佐久侵攻戦では、佐久郡日向城代を任されるなど戦功をあげていく。天文17年(1548年)には板垣信方の戦死もあり、諏訪郡代に任命されて名実ともに武田晴信の重臣となった。
天文17年(1548年)7月10日、諏訪西方衆が小笠原長時らの煽動によって叛乱を起こしたとき、 長坂虎房は千野靭負尉、守矢頼真らとともに上原城に籠もり、 武田晴信に援軍を要請。諏訪西方衆に呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣。武田晴信7月11日に躑躅ヶ崎館を出陣したが、遅速行軍で相手を油断させ、18日に上原城に入城。長坂虎房も加わりその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけ、奇襲に対応できずに小笠原軍は1000名が戦死して敗退したという。8月11日に長坂虎房は上原城代に就任。 長坂虎房は天文18年(1549年)1月には諏訪の抑えとして新たに築城された茶臼山城(高嶋城)に移っている。弘治2年(1557年)には大網城の城代を務め、長尾景虎の抑えの役割を担っている。
長坂虎房は外交官としての顔ももっており、駒井高白斎と並び、他国への外交官として名が残っている。 武田勝頼が高遠城主となる口上を武田義信へ伝える使者にもなっている。侍大将となり武田晴信死後は武田勝頼の側近をつとめる。『甲陽軍鑑』から佞臣と評されることも多い。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月10日、川中島合戦で長尾景虎が乗り放した放生月という名馬を拾い、乗り回しては「さすがの謙信も馬を捨てた」と嘲笑ったという。 武田晴信は「馬はくたびれたら捨てるものだ。笑うとは愚かなやつよ。」と逆に罵られてしまったという。このように『甲陽軍鑑』には度度、跡部勝資と並び悪く描かれている。また、天正3年(1575年)5月21日、長篠合戦では跡部勝資とともに、武田勝頼に進撃をすすめ、敗戦を招いたともいわれている。ところが長篠滞陣中の武田勝頼から駿河まできていた長坂虎房宛の書状が現存し、 長坂虎房は長篠には参陣していないことが明らかになっており、『甲陽軍鑑』の虚でしかない。『甲陽軍鑑』は春日虎綱が関わったともいわれており、 春日虎綱と長坂虎房の仲が悪かったことも大きく影響しているのかもしれない。天正6年(1578年)、長尾景虎の跡目争いで長尾景勝と北條氏秀が合戦をしたさい、 長尾景勝が武田勝頼に援助を求めて送ってきた2万両のうち、跡部勝資と5000両ずつをくすねて家中から指弾されたが平然としていたというのも『甲陽軍鑑』による。天正10年(1582年)3月、天目山行には武田勝頼の一行から脱走して、甲府の屋敷に隠れていたところを見つかり、 織田信長に殺されたともいわれているが、近年では最後まで武田勝頼に従い殉死したとする説が有力。 長坂虎房の長男長坂源五郎昌国は武田義信の小姓。永禄7年(1564年)7月15日夜、武田義信がお盆の灯籠見物という名目で飫富虎昌の屋敷を訪ねたとき、そのともをしたという。その訪問が目付の坂本武兵衛、横目付荻原昌明に見つかり、反逆行為の相談をしていたという疑いで成敗されたともいわれているが、永禄9年(1566年)閏8月付で 金丸昌次(土屋昌続)宛の起請文を提出していることから、長坂昌国は成敗されなかったとされている。義信事件に連座し誅されたのは、長坂昌国ではなく長坂虎房の従弟長坂清四郎勝繁の方であるとされる。 長坂虎房には駿河国高橋城攻めで戦死した山崎彦右衛門、内藤又六、田野幸十郎、大木又蔵ら同心がいるとされている。 長坂虎房には長男長坂昌国のほか、次男長坂和泉守昌常(今福新右衛門)は今福浄閑斎の養子となっている。三男長坂英信は長篠合戦で討死。 長坂昌常(今福昌常)には長男長坂新右衛門昌信(今福昌信)がいる。 長坂昌房の弟長坂勝房には長男長坂勝繁がおり、武田義信の配下であったが、義信事件に連座し誅された。
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