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武田二十四将コミュの荻原常陸介昌勝

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荻原常陸介昌勝について語り合いましょう。
荻原常陸介昌勝についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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荻原常陸介昌勝 1461〜1535年

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荻原政勝、忠明、常陸守ともいう。
荻原慶忠の長男。
武田信満の五男今井信景がおり、今井信景の四男荻原慶忠が甲武国境の荻原郷に拠って氏姓を起こしたことにはじまるという。 荻原慶忠から荻原昌勝とつづく。山梨郡荻原村(山梨県三富町上荻原)を領する。『荻原系図』によると今井信景から今井信経、今井信慶、荻原慶忠とつづくともしている。しかしこの系図に従うと荻原慶忠は今井信是や今井信元、今井信隣と兄弟ということになり、すでに荻原昌勝と同年代の生まれであることから考えにくい。
武田信虎の重臣。武田信虎の軍師。妻は飫富道悦の娘。
荻原備中守慶忠の長男として寛正2年(1461年)に生まれる。 飫富虎昌の叔父(叔母婿)にあたる。 武田信昌から一字「昌」を拝領。 武田信昌、武田信縄、武田信虎と三代にわたって仕え、 武田信虎の傅役をつとめ、弓矢の指南役もつとめる。若き武田信虎に合戦を教授。「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法を創始。「智略の師」と武田信虎をふくめ多くの家臣たちに尊敬されていた。
武田信虎時代の侍隊将8人の1人にあげられている。『大泉寺古記』に荻原昌勝の武勇伝が記されている。また、武田信虎元服後は、武田信虎の軍師として、甲斐国統一への緒戦に従軍し、数数の戦功をあげている。大永元年(1521年)11月23日、駿河国今川氏親の将福島兵庫正成が1万5000の兵で甲斐府中近くまで攻めてきた(飯田河原合戦)のを2000の手勢で撃ち破り、 福島正成を討ちとる。合図の小旗を考え出し、台地にかがり火をたいて、人形を擬装兵として敵の目をくらますなど、「相図の小旗」「相図の物見」などの戦法により、武田氏大勝利に導いたという。軍師は加藤虎景が荻原昌勝から受け継ぐ。 武田晴信の将来性を見抜き、幼い武田晴信に多くの合戦を語る。 武田晴信の政治力を支えた帝王学(孔孟の教えなど)を伝授した学問の師が岐秀玄伯(岐秀玄伯は信玄の号を贈った人物)であり、武力の師が荻原昌勝とされている。 武田信繁を擁立しようとした武田信虎を諌めたが、天文4年(1535年)、75歳で死去。天真院功厳元忠居士。恵林寺に石碑がある。
荻原昌勝には長男荻原昌忠(荻原忠明)がおり、荻原昌忠は若くして亡くなっていたため、 荻原昌忠の長男荻原昌明が家督を継承した。 荻原昌忠には長男荻原昌明のほか、次男荻原備前守昌信(荻原与惣左衛門昌信)、三男荻原兵部丞信基(荻原九郎次郎昌基)がいる。 荻原昌明、荻原昌信、荻原信基ら兄弟の母は、板垣信方の異腹妹であたため、 荻原昌勝死後は、叔父板垣信方の配下に属し戦地を転戦。 荻原昌信、荻原信基は天文14年(1545年)、小笠原氏、木曽氏の連合軍との戦いで討死している。
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