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武田二十四将コミュの今井安芸守信元

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今井安芸守信元について語り合いましょう。
今井安芸守信元についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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今井安芸守信元 1484〜1575年

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今井信本、浦信本、浦信元ともいう。獅子吼城主。 今井信慶次男。 大井信達の娘婿。武田信虎とは義兄弟。
亨禄4年(1531年)に武田氏に反旗を翻し、飫富虎昌、大井信業、栗原氏、諏訪氏らとともに武田氏と戦っていた今井氏であったが、2月2日には兄今井信是が討死。3月3日には韮崎河原辺合戦では栗原信真ら800余人が戦死。4月12日、諏訪頼満らとともに塩川河原に出陣し武田信虎と戦うが大敗。天文2年(1532年)9月にも、反旗を翻し、巨摩郡小倉の浦城に籠るが、 武田信虎に攻められ降伏。本拠地の獅子吼城を開城、ついに武田信虎の軍門に降った。 今井信元の長男は今井信員で、今井信員には長男今井昌義、次男今井清冬らがいる。 今井信慶の三男今井信隣(今井山城守)、四男谷戸信守(矢戸源三郎)らの一族も武田信虎に仕え、 今井信隣の長男今井伊勢守信昌は旗本武者奉行を務めた。 今井信昌の長男今井信俊(今井昌茂)は、使番12人衆から足軽大将となり、 今井信俊の名は永禄10年(1567年)、甲斐・信濃・上野の諸将士が武田晴信に起請文を提出し、生島足島神社に納めた「永禄起請文」のなかにも見えている。その後、今井信俊は駿河田中城代となるなど戦功があったが、武田滅亡後は徳川家康に召されて帰属し、文禄4年(1595年)に75歳で没した。 今井信俊の長男今井昌俊(高尾昌俊)は、武田晴信、武田勝頼に仕え、武田氏没落後は父今井信俊とともに徳川家康に仕えた。 高尾伊賀守は武田勝頼に殉死したことで高尾家の後継者が絶えたため、 今井昌俊は徳川家康に請うて、高尾伊賀守の養子となり今井氏を高尾氏と改めたという。その後は、今井昌俊は徳川家康に仕えて長久手合戦にも出陣し武功をあらわしたが天正12年(1584年)、38歳で没したという。 今井昌俊の長男今井嘉文は、文禄2年(1593年)、徳川家康に仕え、慶長2年(1597年)には徳川秀忠の小姓となり、慶長5年(1600年)には信州上田城攻めに供奉したが、のちに勘気を蒙った。慶長19年(1614年)には大坂冬の陣に松平周防守康重に属して戦功をあげ、元和2年(1616年)に召し返され、夏の陣にも功を立てた。戦後、甲州八代郡内の本領を与えられ、以降、高尾氏を称して徳川旗本となった。
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