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武田二十四将コミュの穴山伊豆守信友

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穴山伊豆守信友について語り合いましょう。
穴山伊豆守信友についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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穴山伊豆守信友 1506〜1560年

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武田信友、穴山信良、彦六郎ともいう。
穴山信綱の嫡男。従兄穴山友勝嗣。
永正3年(1506年)生まれ(永正11年(1514年)という説もある)で、従兄穴山友勝から家督を継承する。天文6年(1537年)に、武田信虎の次女南松院殿と婚姻。天文10年(1541年)には嫡男穴山信君が生まれる。 武田信虎があえて国内の穴山氏に嫁がせたのは、いかに武田氏にとって庶流穴山氏が有力な存在であったかがうかがえる。また天文4年(1535年)に弟勝沼信友が戦死していたため、信頼できる有力一門を生み出す必要もあったとみられる。この婚姻関係により穴山氏は一門衆として、庶流のなかで唯一、最後まで「武田」苗字を使用した。 穴山信友は軍事、外交にわたって多くの活躍をみせ、 武田晴信に代がかわってからも、武田晴信の義兄として、武田信繁に並ぶほどの役割を担い、名実ともに武田氏の重鎮であった。さらに穴山信友は武田晴信の次女見性院殿を嫡男穴山信君の妻に迎え、さらなる婚姻関係を重ねている。永禄元年(1558年)に隠居。永禄3年(1560年)5月15日に55歳(47歳説もある)で死去。 穴山信友には長男穴山信君のほか、次男穴山彦八郎信邦、三男穴山彦九郎信光(穴山小左衛門源覚)らがいる。 穴山信邦は永禄8年(1565年)の「義信謀反事件」において飫富虎昌と連座して切腹している。 穴山信光には長男穴山小助安治(穴山雲洞軒)がおり、穴山安治は長男穴山岩千代(穴山新兵衛)とともに大阪の陣で真田幸村(真田信繁)に従い討死。
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