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武田二十四将コミュの武田刑部少輔信廉

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武田刑部少輔信廉について語り合いましょう。
武田刑部少輔信廉についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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武田刑部少輔信廉 1528〜1582年

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武田逍遥軒、逍遙軒、信綱、孫六、孫六郎、信基、刑部、信連ともいう。
武田信虎の六男。 武田晴信の弟として武田信繁とともに重要な位置を占め親族衆を80騎率いる。武田氏滅亡のときには一門衆のなかでも最長老の立場となっていた。亨禄元年(1528年)生まれ(天文元年(1532年)説もある)で、母は瑞雲院殿大井氏という。
武田信廉は甲府の東部方面の守衛の任を担い、桜井を所領としていたという。桜井(甲府市桜井町)の逍遙院は武田信廉の屋敷跡に建立された菩提寺で、武田信廉を開基としている。騎馬80騎を率いる以外にも、謀反の咎で武田晴信に滅ぼされた同族勝沼氏の同心衆たちを配下とし、勝沼氏がそれまで担っていた小山田氏や北條氏への抑えの役割を代わって担うことになる。 武田信廉の名は、天文17年(1548年)から発給文書のなかにみられる。諏訪高島城に在城。元亀元年(1570年)には工藤昌豊(内藤昌豊)に代わって信濃深志城代をつとめ、元亀2年(1571年)には武田勝頼に代わって信濃高遠城主をつとめた。兄武田晴信が病死してからは、武田逍遥軒信綱と号す。天正3年(1575年)には600の兵と、伊那衆を合わせて4600の軍勢を率いて出陣。土屋右衛門尉らと戦線の中央突破隊を指揮。
天正9年(1581年)、南信濃防衛体制強化として、娘婿であった武田盛信(仁科盛信)が高遠城に入り、 武田信廉は伊那の飯田城、大島城に在城し守備する。しかし天正10年(1582年)1月飯田城から大島城へ後退。2月の織田信忠侵攻にあたって飯田城が陥落したという報せを受けると、ほとんど抵抗をみせずに大島城を放棄して甲斐へ撤退してしまい、3月7日(3月24日)に甲斐府中立石の鮎川原(相川から塚原町)において織田信忠に捕まり、斬られた。享年54歳(51歳という説もある)。法名は逍遥院殿海天綱公庵主。
絵画に巧みであり、父武田信虎の画像や母瑞雲院殿の画像など、いくつかの作品を残す。また容貌が兄武田晴信によく似ていたため、影武者を演じたり、 武田晴信死後は武田晴信に扮してしばらく生存を装い、北條氏政の使者板部岡江雪斎を欺いたという。 武田信廉には長男武田平太郎信澄、次男武田麟岳がいる。3人の娘は、武田盛信(仁科盛信)、武田信俊(河窪信俊)、小笠原信嶺に嫁いでいる。
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