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武田二十四将コミュの板垣駿河守信方

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板垣駿河守信方について語り合いましょう。
板垣駿河守信方についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋





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板垣駿河守信方 1489〜1548年

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板垣信形ともいう。
板垣信斉の長男。
板垣郷を領する。板垣郷は甲府市善光寺町、東光寺町、里垣などを中心とした一帯で、定額山善光寺の裏手に板垣山という山林も残っている。 板垣信方は『甲陽軍鑑』『信濃史料信陽雑志』『千曲之真砂』などには「信形」と記されているが、鎮目寺の棟札や、天文9年(1540年)3月年紀塩山向嶽寺文書、天文10年(1541年)武田八幡宮宝殿造営の棟札などには「信方」と記されている。
『甲斐国志』将帥の部に「武田家に職(しき)という治国の主吏なり。この時代は板垣・甘利を両職とす。」とある。 板垣信方は、政治機構の最高機関であった「職(しき)」を甘利虎泰とともに補任されている。名将と讃えられる武田晴信も、若い頃から秀でていたわけではない。詩歌に興じ、合戦では猪突に走るなど、失敗を何度も経験している。そのとき常に側にあって武田晴信を諌めてきたのが板垣信方であった。 武田晴信による父武田信虎の引退事件を無血のうちに実現できたのも、背景に親子二代に仕えてきた板垣信方の尽力があった。若き武田晴信の人格形成に彼が与えた影響は、きわめて大きかったのである。天正10年(1541年)、山本勘助を武田晴信に推挙し、仕官時には身なりを整えてやり、100貫の予定だった山本勘助の知行を200貫加増させて300貫にさせるきっかけをつくったともいう。碓氷峠合戦(笛吹峠合戦)で上杉憲政軍を一方的に撃破した板垣信方の采配ぶりは、「板垣の陣立てに竜神三段の構えあり」とまで賞賛されたほどだった。その板垣信方も、天文17年(1548年)の上田原の合戦で武田晴信を安全圏に逃すために戦死する。最後のご奉公であった。 板垣信斉には、長男板垣信方のほか、次男板垣虎登(諸角虎登)、三男板垣伯耆守信経(於曽信経)らがいる。 板垣信斉の娘は荻原昌勝の長男荻原昌忠に嫁いでいる。 板垣信方とは異腹妹にあたり、荻原昌明、荻原昌信、荻原信基らを生んでいる。 荻原昌勝死後は、荻原昌明ら兄弟は板垣信方の配下に属した。
於曽信経には長男於曽信安(於曽左京)がおり、板垣信方死後は板垣氏の名跡を継いでいる。
於曽氏は、三枝氏から分かれた於曽三枝氏が古代から甲斐於曽を領していたが、応保2年(1162年)におきた熊野権現社領八代荘をめぐる国司と熊野社との争いに連座して於曽三枝氏は弱体化する。そこに入ってきたのが甲斐源氏の加賀美遠光の七男於曽光経、八男於曽光俊で、於曽氏を称したという。現在の塩山駅付近に屋敷(於曽館)を構えたと伝えられており、於曽光経、於曽光俊兄弟で於曽郷を二分支配していたという(『角川日本地名大辞典』により)。『塩山市文化財』によれば、於曽館を黒川金山衆の役宅ではないかとしており、この館の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、金製法の作業場があったという。萩原山は大菩薩嶺の別名であり、武田信成の長男武田信春が最後に逃れた柳沢の堡があるといわれる柳沢峠と同じく、黒川金山周辺地域であり、塩山地域とのつながりが深かったと思われる。 武田晴信の代には、於曽信安、於曽信方、於曽信泰らが活躍し、於曽殿と称したという。
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