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武田二十四将コミュの甘利備前守虎泰

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甘利備前守虎泰について語り合いましょう。
甘利備前守虎泰についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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甘利備前守虎泰 1498〜1548年

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甘利虎康、信益ともいう。
甘利宗信の長男。 武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
武田家最高の政治機構とされた「職(しき)」の任にあった。軍将として侍隊将の一角を担い、板垣信方、飫富虎昌、上原昌辰らとともに合戦では常に先陣を務めた剛の者として知られている。『甲斐国志』は山梨県窪八幡普賢寺の天文9年(1540年)の記「当郷の御代官甘利備前守虎泰云々」とあることや、天文12年(1543年)4月2日の西郡鷹尾寺(増穂町)に自署の禁制を与えている花押が甘利虎泰であることを記している。これらのことから、西郡鷹尾寺(増穂町)付近の地域の領主が甘利氏であったことが分かる。甘利氏は一條忠頼の長男一條行忠(甘利行忠)が一條氏の兼領地である甘利庄を分割相続することになり、甘利氏姓を起こしたことにはじまるとされている。 甘利行忠から甘利行義、甘利頼高、甘利頼行(甘利高行)へとつづき、戦国時代には甘利宗信、甘利虎泰へとつづいている。また、甘利氏からは支族として上條氏、下條氏、東條氏などが輩出されている。甘利庄は韮崎市内、釜無川沿岸にある韮崎市旭町、大草町、竜岡町地区一帯にまたがる広範囲な地域で、韮崎市旭町上條北割にある日蓮宗の甘利山大輪寺という古刹があり、土塁跡が東西100間、南北200間もあった甘利氏の居城跡とされている。今でもこの地域には北門、大庭、矢立、的場、大堀などの小字名が遺っており、強大な勢力を誇った甘利氏を偲ばせる居館居城の存在を裏づけている。
板垣信方とともに「両職」の地位にあった屈指の宿老であるが、板垣信方が若き武田晴信の心の師であるとすれば、 甘利虎泰は「軍配の師」であるといえよう。『甲陽軍鑑』には甘利虎泰を「荻原常陸(荻原昌勝)に劣らぬ剛の武者」とあり、武田信虎の軍師として知られる荻原昌勝に勝るとも劣らない軍略家であったと評している。特に用兵、戦場での指揮は実にあざやかだったとの定評があり、戦場にあっては「猛り狂う野牛を野に放つごとく」とあり、陣所に備えていれば「甘利虎泰、平生の采配ぶりは、まことに見るべきものありて」と山本勘助が感嘆したとあり、『甲陽軍鑑』など諸記録には彼の戦巧者としての賛辞があふれている。若き武田晴信も用兵、駆け引きの多くを彼から学んだことであろう。 天文17年(1548年)の上田原の合戦が、甘利虎泰最後の雄姿であった。 甘利虎泰、板垣信方ら老将たちが、地の利や周囲の状況から「強攻めは味方に不利」と進言していたにもかかわらず、 武田晴信は若気の至り、自身過剰、自己のプライドから、甘利虎泰らの提言に耳を貸さず、攻撃を命令。有能な軍将を失う結果を肝に銘じることとなり、以後武田晴信は、不敗の名将に成長していく。
甘利虎泰には長男甘利与十郎信益、次男甘利左衛門丞昌忠(甘利藤蔵)、三男甘利郷左衛門信康がおり、 甘利昌忠には長男甘利晴光(甘利次郎四郎利重)がおり、 甘利信康には長男甘利次郎三郎信恒、次男甘利采女正信景、三男甘利三右衛門信次、四男甘利信昌(甘利左衛門尉)がいる。 甘利信恒には長男甘利次郎三郎信頼がおり、甘利信景には長男甘利彦五郎信祐がいる。
甘利信益は天文11年(1542年)の諏訪攻めで討死していたため、 甘利昌忠が天文17年(1548年)に家督を継承。 甘利信康は永禄10年(1567年)に事故死した甘利昌忠の跡を継いで侍隊将として長篠合戦に参戦したが、討死してしまった。甘利信康は小荷駄隊将をつとめたという。
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コメント(7)

私の姓は甘利です。でも山梨出身ではなく、長野県小諸市という場所の出身です。小諸市のとある地名の場所には、甘利姓がとても多く、家の家紋は松皮菱です。一応支流になるのかな?支流だったら嬉しいのですが(*^o^*)
>アマリーさん

小諸に甘利氏が多くいるというのは知りませんでした。
甘利虎泰の次男である甘利昌忠は、真田幸隆とともに信濃から西上野進攻を武田晴信から任されていました。
何か関係があるかもしれませんね。
甘利虎泰、甘利昌忠死後に、甘利一族がどういった生き方をしていったのかも関係しているかもしれません。
甘利昌忠公、信康公の子息は、ほとんど知らなかったので大変興味深いです。壬午起請文で甘利同心衆に名前のあった甘利信恒が家督をついたのでしょうか?あと疑問だった点で「甲乱記」で天目山へ落ち延びる武田勝頼一行に、甘利左衛門尉、大熊備前守、秋山摂津守が合属して矢玉を放ったとあるのですが、ここで出てくる甘利左衛門尉は信康公四男の信昌になると思います。
>アマリーさん

そうですね。甘利左衛門尉に関しては、他の書物を見ても現在のところははっきりしないとあります。
甘利信昌の可能性も大いにあると思います。
甘利さんについて詳しく記載して頂き、とてもうれしいです。
ありがとうございますわーい(嬉しい顔)
元内閣府特命担当大臣(規制改革) 労働大臣 経済産業大臣 を歴任した衆議院議員の“甘利明”先生は甘利虎泰の子孫だそうですね。
wikiでもそーかいてありますが
本当でしょうか
もっと「やっぱーそーかー」
といえるものがあるといいなーとおもってます

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