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武田二十四将コミュの津金美濃守胤時

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津金美濃守胤時について語り合いましょう。
津金美濃守胤時についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋





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津金美濃守胤時 1511〜1575年

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津金胤秀の長男。
津金村(山梨県北杜市須玉町下津金)、信州佐久郡川上を所領とする。
諏訪神社(山梨県北杜市須玉町下津金)は古宮城跡として知られており、津金衆の城があったという。
永正13年(1516年)に父津金胤秀が死去し家督を継承。
津金胤時は原昌胤(原隼人)の配下として長篠合戦に参陣し、65歳で討死している。次男津金胤久(津金修理亮)が跡を継ぎ、武田氏滅亡後は徳川義直に仕えている。
津金氏は、『寛政重修諸家譜』では源義光の流れから佐竹昌義(佐竹信濃守)の子孫である津金対馬守のときに津金姓を名のったという説もあるが、『甲斐国志』によれば源義業の流れを汲み、佐竹胤義(津金薩摩守)が文明18年(1486年)に幼い長男津金胤秀を連れて常陸国から甲斐国へ移り、 武田信昌に仕え、下津金の地に古宮城を築城し津金を姓としたという。いずれにしても、甲斐源氏の流れを汲む佐竹氏が祖であることは確かであり、津金胤秀は武田氏に仕え活躍している。甲斐津金氏は、武田氏に仕え、「津金衆」の名で知られている。津金衆は、祖を同じくする氏族が通婚などによって結束を固めた血族集団であって、 佐竹胤義の長男津金胤秀をはじめ、比志氏、小池氏、箕輪氏、村山氏、八巻氏、清水氏、井出氏、鷹見沢氏、川上(河上)氏らに分かれた一族のことを示している。津金一族は戦国時代には甲斐から信濃へ通ずる佐久往還の防衛を担っていたという。武川衆や九一色衆などとともに国境警備などにあたり、平沢峠を越える平沢口と、十文字峠を越える佐久口がその警護範囲という。
武田家滅亡後は、はじめ北條氏直に誘われているが、 津金胤久は津金一族を引具して徳川家康に臣従し本領を安堵される。小尾氏とともに妻子を徳川家康に人質として差し出している。津金衆は徳川家康が新府中城にあって、若神子に陣した北條氏直と対陣したとき、下津金の要害から津金胤久らは夜襲により江草の砦を陥し、穂坂口、川上口を開く。国境の下津金は天然の要害にかこまれており、山城や砦、関門や烽火台が縦横に迷路となっており、その防備体制を突破することはなかなか困難なことであった。さらに、敵方の侵入が困難なばかりでなく、伏兵として夜襲の任務も担っていた。津金衆は、土着のいわゆる在地性を活かした武士団であって、東国の戦国大名は国境警備にはこのような衆を活用していたと思われ、それぞれの衆もその個性をもって戦国大名に仕えていたことが知られる。天正10年(1582年)9月、徳川家康は津金胤久、小尾祐光兄弟に対して、改めて旧領を安堵。新知行も恩賞として与えている。このように津金氏は徳川家康に仕えて北條氏の侵攻をくい止め、以後徳川氏の旗本となっている。
津金氏は尾張国名古屋、武蔵国江戸、信濃国佐久郡に分散している。 津金胤秀(津金美濃守)には長男津金胤時がいる。 津金胤時には長男小尾監物丞祐光(津金胤重)、次男津金胤久、三男津金久次(跡部十郎左衛門)、四男津金久清がおり、 津金胤久は大阪冬の陣と夏の陣において徳川家について戦い、それ以降尾張に移住(年齢的には津金胤久自身が合戦に出陣したとは考えられないが)。尾張津金氏の祖とされている。
一方、信濃津金氏と甲斐津金氏との直接の関連は明らかではないが、信濃国原村の津金家に残る宗門帳によると、祖先は甲斐国より移住したと記されており、信濃津金氏は甲斐津金氏から出たことは確かなようだ。 津金胤時の四男津金久清(津金主税)が海ノ口の鷹見沢(高見沢)氏に養子に入っており、また、小尾祐光(津金胤重)は佐久郡川上より津金氏に婿として入ったという。 津金久清(津金主税)が津金姓をつづけて名のったのかは不明。
武田氏滅亡後は、津金氏は徳川家康に仕えており、江戸に移り住んで幕府御家人や旗本となったものが江戸津金氏となったという。
甲斐津金氏の菩提寺は百体石仏で有名な海岸寺(須玉町上津金/臨済宗)で、源義光が開基したと伝えられている。 津金胤秀は下津金に東泉院(曹洞宗)を開いており、津金胤秀の墓はこの東泉院にある。 津金胤秀の法名は東泉院殿本室常源大居士。『甲斐国志』によれば津金胤時が永禄8年(1565年)に創建したと記されている。 津金胤時の法名は法諱道蓮意久居士。津金胤久の法名は陽州院津厳全居士という。東泉院の寺紋は武田菱。尾張津金氏に縁のある含笑寺と梅屋寺は、両寺とも曹洞宗。一方、東京四ッ谷にある全勝寺は津金胤久の長男津金胤卜の菩提寺になっている。
津金胤時の長男津金祐光は小尾氏を名のっており、 小尾祐光には長男小尾正秀、次男小尾正重がおり、小尾正秀からは小尾重正、小尾正直とつづいている。 津金胤時の次男津金胤久には、長男津金胤卜、次男津金種親、津金信久がいる。
高根町小池に領した小池信胤(小池筑前守)も津金衆のなかでは頭目として活躍しており、天正10年(1582年)6月には徳川家康の命で信州表の計策に走り廻り、恩賞を受けている。天正10年(1582年)9月には、津金胤久(津金修理亮)、小尾監物丞祐光(小尾堅監)、小池信胤は3人連名で 徳川家康の朱印状を受けている。この文書のなかに津金衆に付属する「境目之者共…」に対しても恩賞を宛行われるべきことが定められてある。この境目の者は、つまり国境警備を担っていた津金衆のこととうかがわれる。
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