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武田二十四将コミュの原加賀守昌俊

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原加賀守昌俊について語り合いましょう。
原加賀守昌俊についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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原加賀守昌俊 1488〜1549年

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原国房、胤元、胤之ともいう。
武田信虎の重臣。
一條庄高畠郷(山梨郡高畑)を領する。 木曽家仲の長男に木曽家教がおり、木曽家教の次男原家定からはじまるといわれている。原氏の氏姓は『甲斐国志』にも記されているように甲州には古くからある家名で、『一蓮寺過去帳』に南北朝時代の応安7年(1374年)12月に「持阿、原氏」とあり、また室町中期の長禄2年(1456年)12月にも「原右衛門四郎」とあるなど甲斐の旧族である。 原昌俊は騎馬90騎を率いる隊将であり、陣馬奉行という要職をつとめる。智謀の武将たちも数多い武田家中にあって「きれ者」といわれていたという。陣馬奉行とは、合戦場において布陣する際、地の利、水の利など地形をよく見極めて、味方が有利に戦える場所を選定する役目のことである。作戦計画がいかに良くても、陣取り次第によっては苦境に追い込まれてしまう可能性も高い。したがって、陣馬奉行の能力いかんによって戦いの結果にも大きな影響を与えるだけに、その責任はきわめて重いものであった。築城の際の築城予定地の見定めも陣場奉行の重大な任務であり『甲陽軍鑑』末書にも「城取り(築城)」のことが、城攻め、合戦、築城の技術などの理論を中心に記されている。『身延山過去帳』に原昌俊は天文18年(1549年)5月1日に没したと記されている。
原昌俊には長男原昌隼人佑昌胤がおり、 原昌胤には長男原昌隼人栄、次男原昌澄、三男原半兵衛昌貞、四男原宗一郎昌弘がいる。 原昌栄には長男原隼人助貞胤(原惣十郎)がいる。 原昌澄には原右近昌信がいる。 原昌貞には長男原出羽守之昌、次男原半兵衛正明、三男原主馬昌直がいる。 原正明には長男原半兵衛正純(原正盛)、次男原隼之丞正泰がいる。 原昌直には長男原正嗣、次男原法政、三男原作十郎正吉がいる。
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