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武田二十四将コミュの多田淡路守満頼

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多田淡路守満頼について語り合いましょう。
多田淡路守満頼についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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多田淡路守満頼 1501〜1563年

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多田昌澄、昌利、三八、三八郎ともいう。 多田常昌の長男。足軽大将。甲陽五名臣の一人に数えられる。
多田常昌は武田信昌から「昌」の字を賜るほどの重臣。 武田信虎の代になっても重臣として仕えた。諏訪方面の抑えとして多田常昌を抜擢。先達城主をつとめた。 多田常昌の長男多田満頼も武田信虎に仕え重用された。
源頼綱の長男多田明国からはじまる多田氏。多田明国から多田行国、多田頼盛へとつづく。 武田信虎の代では多田満頼が仕えた。
『甲陽軍鑑』によるが美濃国出身ともいわれる。『多田系図』には多田満頼を通称三八郎とし、初名を多田昌澄、のちに多田昌利と名のったと記されている。戦功数29度の証文をえて、身に27ヶ所の傷があったという。 武田信虎でさえ舌を巻きその才能を絶賛したというほどの足軽隊将。特に高度な指揮能力を要する夜襲戦においては右に出る者がないと称賛され、国内外にその名を轟かせていた。武田晴信の代になっても全幅の信頼をうけ、 板垣信方や原虎胤ら強者とともに信濃制圧に貢献。『甲陽軍鑑』では武田信虎が「武田家中で弓矢巧者、武辺に覚えの武将をあげれば、侍隊将では板垣信方、甘利虎泰、飫富虎昌、上原昌辰、原昌俊、諸角虎定の6人、足軽隊将では横田高松、多田満頼、原虎胤、小幡虎盛の4人がいる」と10人の名をあげて今川義元に自慢したと記している。また、「武田晴信公、御家老、軍法工夫の衆、侍隊将に8人、足軽隊将に7人、このほか7人」とあり、小身衆として横田高松、多田満頼、原虎胤、小幡虎盛、山本勘助、米倉重継、加藤虎景」と記している。 武田晴信の代になって多田満頼は横田高松、原虎胤、小幡虎盛、山本勘助とともに「甲陽の五名臣」にあげられたとしている。
『甲陽軍鑑』には天文9年(1540年)2月に甲州八ヶ岳山麓の小荒間(北巨摩郡長坂町小泉)で合戦があったと記されており、 村上義清麾下の清野氏、高梨氏、井上氏、隅田氏らが2500余の軍勢で佐久郡から甲信国境を越えて侵入し、八ヶ岳山麓の小荒間まで進攻してきて近郷に放火するなど乱暴を働いたという。 多田満頼がみごとな夜襲戦の采配をふるって計略によって敵を迎撃し、甲州軍随一の武功を立てたと記されている。多田満頼が40歳のときである。しかしこの小荒間合戦は『甲陽軍鑑』だけの記述で、他の史書『高白斎記』『王代記』などには全く記されていない。
上田原合戦や戸石城攻めにも従軍する。虚空蔵山城(上田市上塩尻)の守将をつとめていたとき、「火車鬼」という地獄の妖怪(仏典因果経の説く妖婆)を退治をしたという逸話も残る。『甲斐国志』によれば「虚空蔵山を根城に付近一帯を荒しまわっていた女賊を地獄の火車鬼と異名して恐れていたのを成敗したことから、多田満頼の妖怪退治の伝説が生まれた」と記している。『裏見寒話』の「鬼の湯」伝説にも多田満頼の妖怪退治話が出てくる。
永禄4年(1561年)9月、『武隠草語』によると川中島合戦には多田昌治の嫡男多田昌勝(多田新蔵)が跡目を継ぎ、淡路守も継承されて称し足軽隊を率いたという。多田満頼にとっては孫にあたる。 多田満頼は永禄6年(1563年)12月、病死。享年63歳。法名は宗樊。
多田満頼には長男多田三八郎昌治(多田新八郎正春)、次男多田八右衛門昌頼、三男多田治部右衛門昌俊(多田満俊)がいる。 多田昌治には長男多田新蔵昌勝(多田正勝)がおり、多田昌勝には長男多田三八郎昌吉(多田正吉)がいる。 多田昌吉には長男多田正長、次男多田正次、三男多田正重がいる。 多田正長には長男多田正信。多田正次には長男多田正行、次男多田正親、三男多田正豊がいる。 多田昌俊には長男多田昌綱(多田久蔵)、次男多田昌繁(多田角助)がいる。
多田昌治(多田正治)は、天正3年(1575年)長篠合戦で討死した。赤地に唐織の錦の下帯をつけた多田昌勝(多田新蔵)も長篠合戦で奮戦むなしく織田軍に捕らわれてしまい、『常山紀談』によれば、生け捕りにされても名を名のらず「さらば雑人の手にかけん。名のある武士ならば腹を切らせる」といわれてはじめて名を名のったという。 織田信長に「淡路(多田昌治)に多田新蔵、多田久蔵兄弟ありと聞くが、いずれぞ」と問われ、「新蔵なり」と答えたので、織田信長が「立派な勇者である。助けてとらすぞ。悪源太も捕らわれの身となったこともあり恥ではない。われに奉公せよ」と言って縄をとかせたところ、 多田昌勝(多田新蔵)は「生け捕りは恥辱。即刻首を刎ねるべし」と、立ち上がるなり突然かたわらの槍を奪いとって周囲にいた数人をあっという間に突き倒したため、 長谷川藤五郎に斬り殺された。織田信長は「惜しい士を失したもの」ともらしたという。
多田昌勝(多田新蔵)の弟多田昌綱(多田久蔵)や従弟多田昌繁(多田角助)たちは、武田勝頼に従い天目山下、田野で壮絶な戦死をとげたという。
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