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ゴルフの歴史コミュのゴルフコース設計の歴史?

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 1930年代から1940年代に掛けてはアメリカゴルフコース建設の暗黒期であった。なんでも新しく建設されたコースは200で失われたコースは600あったというのだから。

 戦争が終わり、アメリカでゴルフコース建設の機運が高まり始めた頃、戦前に活躍した名設計家はあらかた世を去っていた。ただ一人、ロバート・トレント・ジョーンズ(シニア)を除いて。

 1946年、R.T.ジョーンズは「オーガスタ・ナショナル」の改造に取り組んだ。ボビー・ジョーンズ(ちなみにこの二人は、本当は同姓同名である)の依頼を受けてのことである。彼は8、11、12、13、16番のグリーンを改造。特に11番と16番はまったく違うホールへと改造した。

 11番は元々左ドッグレッグの短いパー4だった。それをストレートな長いパー4とし、グリーンの左に大きな池を配した。この改造によってドラマチックになった11番は、プレーオフの決着がつくホールとしてジンクスの仲間入りをし(現在ではプレーオフのシステムが変わってこのジンクスは消滅した)、1987年ラリー・マイズ奇跡のチップインなどの名シーンの舞台となっている。また、16番はホールの角度を90度動かし、グリーンとティの間に巨大な池を配した。こちらも2005年のタイガー・ウッズのチップインなどエキサイティングな場面を演出してきた。

 これらの改造の評価によって名実共に一流設計家の仲間入りをしたジョーンズは、数々のコースを設計して名声を博することになるのだが、その名がひときわ轟いたのはやはりコース改造の仕事であった。1951年の全米オープン。彼は「オークランド・ヒルズ・カントリークラブ」をUSGAの依頼を受けて改造したのだが、そのあまりの難しさにあのベン・ホーガンが「このコースはモンスターだ」と呟いたと言われる。

 1950〜1970年代は、ゴルフクラブ、ボールの性能が上がり、そしてプロたちの技術も急速に進歩していた時代であった。彼らの高い技術に対応するために、ジョーンズはショットを「点」で狙うように要求するコースを造ったのである。これは戦略型というよりは加罰型設計に近い。

 ジョーンズの成功に勇気付けられて、コース設計の世界に飛び込んだのがピート・ダイである。彼は彼自身、そしてパートナーの妻アリスも優れたアマチュアゴルファーだった。彼はジョーンズの設計事務所に就職しようとして断念したりしながらも、1959年に最初のコースを設計。次第に評価は高まっていった。

 彼のコース設計の特徴はジョーンズと共通している。つまり、プロたちに「点」で狙うショットを要求するのである。しかしジョーンズがまだしも穏当だったのに対し、ダイは更に過激だった。その表現方法が端的に現れているのが名高い「アイランドグリーン」である。

 池の淵を鉄道の枕木で切り立たせ、少しでもグリーンから外れたら全て池に落ちるという設計。最初「TPCソーグラス」17番で採用されたこのアイランドグリーンに代表されるように、ダイの設計は点で打つショットを要求しながら、外れたショットには多大な罰を与えるというものだった。その方がやるほうも見るほうもエキサイティングであるという理由だった。

 しかし、実際にプレーさせられるプロたちには非常な不評で「TPCソーグラス」でTPC選手権が最初に開かれた時には、あのトム・ワトソンやジャック・ニクラウスさえもが「アンフェアだ」と批判している。彼は「コースに恐怖を持ち込んだ男」などと呼ばれているが、結局は「TPCソーグラス」を始めとした彼のコースはどれも名コースの仲間入りを果たしている。

 私もダイが設計したコースはいくつかプレーしたが、そのコースに限って言えばそれ程アンフェアだとは思えなかった。多くのハザードは視覚的印象を強調することで必要以上に難しく見えるだけで、プレーヤーを奈落の底に落とすようなハザードはあまり無い。ただ、アンジュレーションの造詣にはかなり拘っているようで、日本的なのっぺりしたコースに慣れていると面食らう。グリーンのアンジュレーションはきつく、カップを切る位置が変わるだけでまったく別のホールに変貌してしまうホールが多いのも特徴である。

 このような流れの中にデモンズ・ミュアヘッドがいる。彼は、そもそもは都市計画の専門家である。ゴルファーではなく、純粋に建設家であるところがこれまでの設計家とは異なっている。彼は1970年代にニクラウスと組んで「ミュアフィールド・ビレッジ」と日本にある「ニュー・セント・アンドリュース・ゴルフクラブ」を作っている。その後ニクラウスと離れてコース設計から離れたが、「ストーン・ハーバー・ゴルフクラブ」のコース改良で再びコース設計に手を染めることになる。

 コース設計を再開してからのミュアヘッドの作風は奇抜なものとなり、コース内にギリシャ神話の物語やアーサー王物語のシーンをイメージした造詣を施し、ホールが顔に見えたり、王冠型のバンカーがあったりする。彼は純粋に建設家であり、大地の造形に喜びを見出すタイプである。ゴルファーではないので、スコットランドの伝統的コースには興味が無いらしい。

 私は「ニュー・セント・アンドリュース」は何度もプレーしているが、その度に酷い目に合わされている。もっともこのコースでのレイアウトその他はニクラウスの影響が強いのだろう。あまり変なものは無い。ニクラウスが完成後のこのコースでプレーして80が切れず「ちょっと難しく設計しすぎたかな」と言ったとか言わないとかという伝説がある。ミュアヘッドの設計も明らかにダイの流れをくんだ加罰型である。

 1980年代を風靡したピート・ダイ式加罰型設計への反省が1990年代から起こり始める。ジョージ・ファジオ、その甥のトム・ファジオ。R.T.ジョーンズの次男リース・ジョーンズなどは戦略的設計に回帰している。この頃からジャック・ニクラウス、トム・ワトソン、トム・ワイスコフ、グレッグ・ノーマンなどがプレーヤーとしての立場からコース設計を行うようになり、従来のコース設計専門家とは別の流れも出来ている。交通機関の発達とコース造成管理技術の発達により、プロたちがトーナメントに出場しながらコース設計を行えるようになったからである。

 さて、極簡単にゴルフコース設計の歴史を振り返ってみたが、多くの設計家が言うのは「コルフコースの究極形はやはりスコットランドのリンクスにある」ということである。ゴルフが育ったリンクスにこそ、ゴルフというスポーツに必要とされるあらゆる要素があるということだろう。コース設計家は皆、リンクスの持っている要素を取り入れ、自分が設計したコースに反映してきた。ピート・ダイのあの枕木で区切られたバンカーも元々はリンクスにあったものの模倣なのである。

 ゴルフコースに出れば、誰しもスコットランドのリンクス。トム・モリスやボビー・ジョーンズが愛したオールドコースに思いを馳せることが出来る。それもゴルフの魅力の一つでは無いだろうか。

コメント(2)

なるほど〜電球

楽しく勉強になりましたうれしい顔

ミュアヘッドはゴルファーじゃなかったんですね電球

でも、いろんな設計家がいて面白いっすね指でOK

ミュアヘッドのコースからは、彼の優しさが伝わってきませんでしたげっそり
 ターヘーさん>
 コースに行ったら、設計家は誰かを見てみると面白いですよ。日本では昔のプロであることが多いですが。

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