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ゴルフの歴史コミュのゴルフコース設計の歴史?

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 チャールズ・マクドナルドがいなかったら、アメリカのゴルフは「GOLF」ではなく「AMERICAN GOLF」になっていたかも知れない。なにせアメリカ国民はフットボールはアメリカンフットボールに、クリケットはベースボールに改造してしまうような国民である。ゴルフも、スコットランド発祥の形とは違った、何か別物のスポーツになってしまった可能性は高かった。

 その点、マクドナルドはいわゆる「スコットランド・ゴルフ原理主義者」だった。彼はスコットランド移民の子孫だったがアメリカ生まれだった。しかし、16歳の時名門セント・アンドリュース大学に留学してそこでゴルフをしたことが彼の運命を変えたのである。時に1872年。当時はトム・モリス親子の全盛期だった。

 ゴルフの聖地の空気とモリス親子のプレーに強烈な印象を受けたマクドナルドは1892年「シカゴ・ゴルフクラブ」を結成コース設計も自分で行った。1893年には5つのクラブに呼び掛け「アメリカゴルフ協会(USGA)」を結成。USアマチュアとUSオープンを開催したのである。第一回目のUSアマチュアでは自らチャンピオンにも輝いている。

 彼は、自らの使命は「正しいゴルフの普及」にあると信じていた。ルールの普及、マナーの普及に努め、少しでもゴルフの伝統に外れたことはけして許さなかったという。彼をしてアメリカゴルフの父と呼ぶのは、彼がゴルフの伝統を守ったからである。

アメリカにゴルフを正しい形で根付かせるには「正しいコース」が必要だと考えた彼は、自らコース設計もした。特に彼がスコットランドのあらゆるコースから理想のホールを抽出して造ったという「ナショナル・ゴルフリンクス」の評価は高い。彼は「アメリカ・ゴルフコース設計家協会」の生みの親であり、マクドナルドこそアメリカゴルフコース設計の祖であるとしても過言ではないだろう。

 ドナルド・ロスはスコットランドの超名門ゴルフコース「ロイヤル・ドーノック」のグリーンキーパーだった。若い頃、セント・アンドリュースのロバート・フォーガンの店でクラブ製作技術を学びながら、オールド・トム・モリスにゴルフを教わったというのだから、単なるスコットランドのゴルフ好きではなかったのである。しかも彼は「ロイヤル・ドーノック」でコース管理の技術やゴルフ場の良し悪しを見抜く目を養った。

 1899年ハーバード大学教授のロバート・ウイルソンからアメリカのゴルフ事情を聞いて、彼は渡米を決意。ポケットに僅か二ドルを忍ばせて彼は海を渡った。当時、アメリカにはゴルフ事情に詳しい者がほとんどいない状態で、そこへ彼のような一流のゴルフ職人が行けば高給が約束されると思ったのだろう。実際、ボストンの「オークリー・カントリークラブ」のグリーンキーパーになった彼は、その給料で故郷の母親に仕送りが出来たという。

 当時の「オークリー・カントリークラブ」の状況は酷いもので、ロスはそれを改造してどうにかゴルフコースが出来る状況に持っていった。それが評判になり、当時「パイン・ハースト・ゴルフクラブ」を造成していたジェームス・タフトに依頼され冬の間「パイン・ハースト」のコース管理をまかされ、後にはタフトの息子からコースの改造と、新しい18Hの設計を依頼された。それが名高い「パイン・ハースト・NO.2」である。

 これが大評判になって、ロスはコース設計事務所を設立。実に全米に400以上のコースを設計した。他にもあのトム・ベンデローの造ったコースを改造してちゃんとしたゴルフコースに作り直したりもした。

 チャールズ・マクドナルドとドナルド・ロスの設計は基本的にリンクスを手本とし、自然のアンジュレーションを可能な限り活かすものだった。しかし、この二人は同時に、リンクスの優れたホールには「戦略性」があることにも気が付いていた。この「戦略性」の発見がゴルフコース設計に新しい息吹を吹き込むことになる。

 さて、ここで一人のアマチュア設計家をご紹介したい。彼はアマチュアで、アマチュアゴルファーだった。そして、彼が設計したコースは一つだけ。

 しかしそのコースは、アメリカ一の名コースと呼ばれている。

 フィラデルフィア州に住んでいたジョージ・クランプはある日狩猟に出かけた折、偶然「ゴルフ場に最適」と思われる場所を発見した。そこは適度な起伏とブッシュ、多くの松林を有し、表面が一面白砂で覆われていた。彼はここに理想のゴルフコースを造ろうと思い立ち、融資者を募ることにした。時に1912年。翌年にはフランシス・ウイメットが全米オープンに勝ち、アメリカのゴルフ熱が最初のピークを迎えようかという頃のことである。

 クランプは州アマチュア選手権で二位になったことがあるほどのゴルファーだったが、コース設計は素人だった。しかし、彼は自分が所有していたホテルを売却し、私財を全て投じてこのコース設計に取り組んだ。建設小屋が出来るまではテントを張って泊り込んだという程の熱の入れようだった。彼は予定地を歩き回り、実際にボールを打ってホール配置や距離を設定し、膨大なスケッチを描いてコースのイメージを膨らませていった。

 コースの建設中、評判が評判を呼んで、チャールズ・マクドナルドやドナルド・ロス。そしてハリー・コルトなど当時のゴルフ設計の大家たちが訪れた。彼らは一様に「このコースが完成した暁には、全米一のコースとなるだろう」と言い、アドバイスを残した。しかし、クランプはそのアドバイスはほとんど取り入れなかったという。

 1914年、まず3ホールで仮オープン。1915年には14ホールが出来上がったが、1918年、予想外の事態が起こる。ジョージ・クランプが突然死んでしまったのである。12、13、14、15番ホールの建設がまだ未完だった。コース委員会は有名設計家だったヒュー・ウィルソンを招いて設計を依頼。ウィルソンはクランプの設計を尊重してこれを完成させた。二年後にはチャールズ・アリソンを招いてコース全体の改善を依頼。しかし、この時もコース委員会はクランプの意思に反する変更は一切受け入れなかった。

 クランプの執念が完成させたコース。それが現在でも「全米NO.1」コースの座を譲らない「パイン・バレー・ゴルフクラブ」である。ここは砂地にフェアウエイとグリーンを浮島の様に浮かべたようなコースで、フェアウエイは随所で切断されている。クランプの設計哲学は明確で「ミスショットは罰せられるべき」というものだった。ここではフェアウエイを捉えられなければ全て整備されていない砂地からのショットとなる。

 ここでは大たたきは当たり前で、ハンディ7のプレーヤーが前半を38で回りながら1ホール38を打ったとか、有名なゴルフ評論家で名プレーヤーだったバーナード・ダーウインが1ホールで16も打ってギブアップしたなど、逸話には事欠かない。面白いのがウッディ・プラットというアマチュアゴルファーが、最初の4ホールをバーディ、イーグル、ホールインワン、バーディと6アンダーで回ってきて、5番ホールから近くのクラブハウスに直行、そのまま出てこなかったという話がある。

 クランプの設計はいわゆる戦略型設計と対象を成す加罰型設計と呼ばれるタイプで「パイン・バレー・ゴルフクラブ」の成功によりこの加罰型設計のコースもアメリカコース設計の一つの流れとなるのである。

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