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ゴルフの歴史コミュのゴルフコース設計の歴史?

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 スコットランドでゴルフが行われるようになったころ、ゴルファーがゴルフ場として選んだのはリンクスランドであった。リンクスランドとは海岸沿いの荒地のことで、海岸と内陸を繋ぐ(LINKS)する土地であるという意味だそうだ。

 なぜか?ここには人もいなければ耕作地もなかったからだ。スコットランドの東海岸は北海に面する。そこからは時に風速40mに達する暴風が吹きつけてくる。それと一緒に高波が発生することもあった。塩分を含んだ砂丘には作物は育たず、せいぜい生命力の強い芝くらいしか生えない。つまり、人など住めなかったのだ。なのでここは古来より人々の共有地とされていた。現在でもセント・アンドリュースのオールドコースがセント・アンドリュース市の所有なのはそういう理由による。

 人が住んでおらず、広大な土地が確保出来た。これがゴルフという場所をとる遊びをするために都合が良かったのである。逆に言えばこれがゴルフコースの長大化の原因になったと言えなくも無い。

 リンクスでゴルフが始まったおかげで、ゴルフコースには現在に繋がる二つの特徴が生まれた。

 一つはアンジュレーションである。リンクスは海岸に砂が打ち寄せられたところに芝が生えたものである。鳥取砂丘に芝が生えていると思えば良い。波のようにうねる地面。ゴルフの命はアンジュレーションに宿るというが、それはこのリンクスランドの特徴から生まれたのである。

 もう一つはハザードである。英語のHAZARDには「偶然」という意味があるが、ゴルフにおけるハザード。バンカー、ウォーターハザード、深いラフなどは、リンクスにゴルフ場が出来る前から偶然そこにあったものである。なにしろリンクスは砂地なので、芝が生えていなければそこはバンカーになる。川が流れていればウォーターハザード。人が歩かなければ芝は伸びる。

 つまり、最初からそこにあったリンクスランドに、たまたまゴルフ場として最適な特質が備わっていたからこそ、現在のゴルフが生まれたと言える。スコットランドの人々はその事を理解し、リンクスランドのコースを「神の造りたもうたコース」と言って、人の手を加えることを禁じ、内陸にある「マンメイドコース」とは別格視している。

 とは言っても、原野そのままのリンクスでゴルフを行うのは大変である。目標となるグリーンくらいは造らなければそもそもゴルフが成り立たないので、最初に誰かがグリーンの位置を決めて芝を刈り、グリーンを定めた筈だ。それが最初のコース設計ということになる。例えば、オールドコースの記録では最多で24ホールだった時代があるらしい。これは一番ホールからプレーを進めて、フォース湾にぶつかったら帰ってきたらたまたま24ホールになり、飛距離の延長でコースレイアウトをいじった結果、18ホールに短縮されたのだろう。このようにゴルフコースのホール数には当初決まりが無く、土地の広さによって様々なホール数を持つコースが造られた。現在でも古いリンクスには12ホールなど中途半端なホール数のコースが存在する。18ホールが定着したのは、恐らく、ミュアフィールドがトム・モリスによって18ホールと定めれれてからだろうと思われる。

 もっとも古いゴルフクラブとして知られる「エジンバラ・ゴルファーズ」は、スコットランド首都エジンバラで結成されただけに、首都近郊での土地の確保に苦労している。そのため、二度のコース移転を余儀なくされ、1891年、最後に現在の位置に土地を確保した際、コース設計を依頼したのがトム・モリス(シニア)だった。

 彼はコース管理人の元祖とも言える人物で、オールドコースの改良に力を注ぎ、打球事故防止のためにそれまでINとOUTで全て同じグリーンをつかっていたものを、幾つかを切り離したり、それまでホールアウト後、そのホールの傍にティアップしていたものを、ティグラウンドを新設したりした。特に、ホールカップの保護のためにセント・アンドリュース市の水道管を埋め、後に金属製のカップに変えたのも彼である。現在のホールカップの大きさは彼が決めたのである。モリスはミュアフィールドを設計する際、OUTの9ホールが終わったら一度クラブハウスに帰って来るという設計にした。それまではオールドコース式が多かったのだ。このミュアフィールド方式は評判が良く、新設のコースがこぞって真似するようになった。それで18ホールが定着したのである。その意味で、モリスこそがコース設計の元祖といえるかもしれない。

 しかしながら、モリスのコース設計は、原野の中からティとグリーンの場所を選ぶだけという大雑把なものであったらしい。実際、ミュアフィールドでは問題が続出し、1926年にはハリー・コルトを招いてコースの抜本的な改造に踏み切ることになる。

 ハリー・コルトは最初の本格的なコース設計家であると言えるだろう。それまではモリスを始めとした有名プロが招かれてコースレイアウトのアドバイスなどを行っていた。コルトは優れたアマチュアゴルファーであったが、それ以上にコース設計の能力に優れていた。

 彼が始めたコース設計における最初の事例は数知れないが、まず、図面を使い始めたことである。それ以前の設計は、徹底して現場主義だったのだ。コルトは図面で綿密にコースレイアウトを検討し、高低差や風向きまで考慮に入れた設計を行った。自然の地形を大事にし、利用することによってゴルフをエキサイティングなものにするという発想はコルトから始まるのである。

 コルトによって改造されたミュアフィールドは、OUTの9ホールとINの9ホールが逆ループを描きながら複雑に絡み合うというレイアウトで、旧来の設計よりもホールごとに風向きが微妙に変わり、読みにくくなっている。現在でもイギリス最高のコースという評価を受けるこのコースは大評判となり、コルトの名声は不動のものとなったのである。

 そして彼の成功が「コース設計家」という職業を生み出して行くことになる。

コメント(2)

AOIさん。
ありがとうございますm(__)m

なんか凄いワクワクする始まり方ですねぇ!!
 ターヘーさん>

 資料が超少ないので苦労してますが、頑張って書きます(笑)。

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