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史跡コミュの土屋家五輪塔

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 千葉県君津市小市部(コイチブ)93
https://www.google.com/maps/place/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97+%E5%8D%83%E5%85%89%E5%B1%B1+%E5%86%86%E8%A6%9A%E5%AF%BA/@35.300826,140.0765342,17z/data=!4m6!3m5!1s0x6022a61898d8227f:0x88ea93b23ee70d7c!8m2!3d35.3009571!4d140.0807158!16s%2Fg%2F1hd_x4jhc
 1986年03月31日、君津市が史跡に指定。

 久留里藩主土屋家の菩提寺である曹洞宗千光山円覚寺にある安山岩製の五輪塔で、左から初代藩主土屋忠直(1582〜1612)・忠直正室・第2代藩主土屋利直(1607〜75)の墓です。忠直の墓は高さ401cmあり、君津市内最大の墓標です。
 土屋忠直は武田勝頼に殉じた猛将土屋昌恒(ツチヤマサツネ;1556〜82)の子で、徳川秀忠の小姓として家康に召し抱えられ、天正19(1591)年に相模国内で3000石を与えられた後、慶長6(1601)年末に関ヶ原合戦の功により遠江国横須賀60000石に加増転封された大須賀忠政の後を襲って、上総国久留里20000石を与えられました。慶長17(1612)年に忠直が死去すると、僅か5歳の利直が家督を相続しますが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣に際しては幼少のため家臣を代理として参陣させ、相模小田原城と箱根関所の警備を務めました。
 利直の時代に江戸詰めの目付を務めていた新井正済の子伝蔵が、後に正徳の治を行う新井白石(1657〜1725)で、利直は幼いが聡明な伝蔵の事を「火の子」とよんで可愛がったと伝えられています。これは、伝蔵が怒ると眉間に「火」の字に似た皺が生じた事に由来します。
 延宝3(1675)年に土屋利直が死去すると、息子の直樹(ナオキ)が後を襲いますが、直樹は「狂気」の人物だったため、新井正済は一度も出仕しませんでした。このため激怒した直樹は延宝5(1677)年に正済を追放、しかも他藩への仕官を禁ずる奉公構(ホウコウカマイ)としたため、少年時代の白石は困窮の中で育つ事になりました。
 その後、土屋直樹は延宝7(1679)年に狂気を理由に改易され、久留里城も破却されてしまいました。しかし、甲斐武田家以来の名門であることを考慮されて、長男の逵直(ミチナオ)が遠江国内で3000石を与えられ、土屋家は旗本として存続する事となります。

コメント(1)

 3月4日土曜日に訪れました。

左;久留里藩主土屋忠直(1582〜1612)墓
中;忠直正室墓
右;久留里藩主土屋利直(1607〜75)墓

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