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史跡コミュの私学校跡石塀

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 鹿児島県鹿児島市山下町6−1

 1968年03月29日、鹿児島県が史跡に指定。

 私学校(シガッコウ)とは、明治初期に鹿児島県に存在した陸軍士官養成のための三つの学校を総称する俗称で、明治6(1873)年10月、征韓論に敗れて参議を辞職した西郷隆盛陸軍大将が鹿児島に帰って、明治7(1874)年4月に設立、同年6月に開校した。
 幼年学校・銃隊学校・砲隊学校の三校から成り、幼年学校は明治維新に功績を挙げたものに与えられた賞典禄によって設立されたことから、賞典学校とも呼ばれた。西郷隆盛が2000石、鹿児島県令大山綱良が800石、桐野利秋陸軍少将が200石を拠出し、また西郷を追い落とした政敵の参議大久保利通も1800石を拠出している。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、鹿児島県の予算より支出された。
 教務は主に漢文の素読と軍事教練にあったが、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったため、入学出来るのは旧薩摩藩士族、それも元城下士出身者に限られた。
 篠原国幹陸軍少将が銃隊学校、前宮内大丞村田新八が砲隊学校・幼年学校を監督した。
 場所は鹿児島(鶴丸)城出丸跡で、藩政時代には厩が置かれ、廃藩置県後は熊本鎮台第二分営騎兵隊が置かれていたが、明治6(1873)年12月の火災で旧鹿児島城本丸・出丸が焼失、分営も廃止されたため、その跡地を活用したものであった。西郷を慕って官職を擲ち、入学する青少年が続出したため、大講堂は120条敷の巨大さだった。
 明治10(1877)年1月29日、参議大久保利通と側近の大警視川路利良等が陰謀を企てたとして激高した同校生徒が鹿児島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これが契機となって西南戦争が勃発した事は名高い。西郷軍側の主力は私学校生徒であった。
 田原坂の決戦に敗れて鹿児島に撤退した西郷軍は、同年9月1日、激戦の末、政府軍に制圧されていた私学校を奪回し、城山、次いで岩崎谷の洞窟に総司令部を置いた。
 同年9月24日0400時に政府軍の城山総攻撃が開始されると、西郷大将以下薩摩軍首脳は洞窟を出撃して私学校を目指したが、途中で負傷した西郷大将は自決、残った村田新八・桐野利秋等は私学校の防塁に拠って徹底抗戦を継続したが遂に玉砕した。
 その後、私学校は廃止されて跡地には鹿児島県立病院が建てられた。大東亜戦争後、鹿児島県立病院は、鹿児島大学医学部附属病院を経て国立病院機構鹿児島医療センターとなった。
 現在、私学校遺構としては門と石塀のみが保存されており、門の横に私学校跡の石碑が建つ。石塀は国道10号線の拡幅で場所を少し移動したが、原型通りに復元されており、西南戦争当時の弾痕が多数残されている。
 跡地北側の道路は、新堀と呼ばれた鹿児島城外堀を埋め立てた跡である。

◆城下町鹿児島
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*城山
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+鶴丸城跡
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・西郷隆盛洞窟
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・西郷隆盛終焉の地
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コメント(3)

弾痕は注意しないと見落としてしまいます。

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