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史跡コミュの蘆名家墓地

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 秋田県仙北市角館町上新町10

 1989年04月14日、角館町が史跡に指定。

 蘆名家は鎌倉時代から陸奥国会津地方を支配した名門大名で、会津守護とも称された。戦国時代末期の第18代当主蘆名盛隆(1561〜84)は家臣に暗殺され、その子亀王丸も夭折したため、天正15(1587)年に常陸守護佐竹義宣の実弟義広(1575〜1631)が盛隆の娘と結婚して第20代当主となった。
 しかし、義広は天正17(1589)年、伊達政宗との摺上原の戦に大敗して常陸に逃れ、翌年、豊臣秀吉から常陸国江戸崎45000石を与えられた。
 佐竹義宣は、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で西軍方に立ったと見做され、慶長7(1602)年に常陸国水戸546000石から出羽国久保田(秋田)205800石に移封されたが、この際、義宣は義広に16000石を与えて角館城主とした。
 義広は藩内領主の扱いであったため、元和元(1615)年の一国一城令で角館城は廃城とされたが、義広は古城山南麓に館を構えて角館統治を継続した。
 角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家・河原田家・岩橋家・青柳家などがあり、総勢は200名程度だったと言われ、格式の高い家ほど山麓の領主館に近い所に屋敷を構えた。
 承応2(1653)年、義広の孫の第3代当主千鶴丸(3歳)が父祖の菩提寺である天寧寺の縁側から転落して沓脱石で頭部を強打する事故で死亡した事により蘆名氏は断絶し、明暦2(1656)年に佐竹氏の分家である佐竹北家の佐竹義隣(ヨシチカ)が角館3600石の領主となった。河原田家・岩橋家・青柳家等蘆名家旧臣の一部は角館に留まって義隣に仕える事となった。
 墓地は一族のものが横一列に並び、中央の背の高い墓碑が義広のものである。
 沓脱石は天寧寺の青銅製阿弥陀如来坐像〔仙北市指定文化財〕の台座石として利用されている。

*城下町角館
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=55145038&comm_id=194642

コメント(2)

7月31日に行って来ました。

左;蘆名千鶴丸墓
中;天寧寺山門〔仙北市指定文化財〕角館城城門を移築したとの口承あり
右;青銅製阿弥陀如来坐像〔仙北市指定文化財〕

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