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史跡コミュの大可島(タイガシマ)城跡 附;伝桑原一族墓地

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 広島県福山市鞆町鞆古城跡
 
 1964年03月31日、福山市が史跡に指定。

 瀬戸内海国立公園内。名勝鞆の浦の一画。
 大可島は、現在は沼隈半島先端の岬となっているが、元来は狭い瀬戸で隔てられた島であり、鎌倉時代末期に水上交通の要衝たる鞆(トモ)港を扼する水軍城が築かれた。南北朝時代には鞆争奪の激戦地となった。
 康永元(1342)年、伊予の南朝軍は西国に勢力伸張を図り、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが、義助はすぐに病死してしまい、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居・得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。
 これに対して北朝側は鞆の臨済宗妙心寺派万年山小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。結局、桑原一族は玉砕して鞆は再び北朝側に帰した。世に言う鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。
 その後、貞和5(1349)年の観応の擾乱の際、長門探題だった足利直冬は大可島城に入って中国・四国地方の諸将に軍勢を催促したが、将軍尊氏の討伐令を受けた高師直によって同年9月に撃破され、九州へ逃れた。
 戦国時代には因島村上水軍の拠点となり、天正元(1573)年、織田信長に京を追放された将軍足利義昭が毛利輝元を頼って対岸の鞆城に入ると、村上亮康が大可島城を拠点に義昭の警護に当たった。
 慶長5(1600)年、安芸・備後の領主となった福島正則が鞆城の大改築を行った際、瀬戸が埋め立てられて大可島は陸続きになり、大可島城は鞆城の一角に取り込まれた形になったが、鞆城の工事が徳川家康の逆鱗に触れて慶長14(1609)年に中止された際、大可島の城砦は破却され、真言宗南林山釈迦院円福寺が建立された。

*鞆の浦
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40465643&comm_id=264039
・鞆城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41050139&comm_id=398257

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