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史跡コミュの鞆城跡

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 広島県福山市鞆町後地  

 1976年07月13日、福山市が史跡に指定。

 鞆城は天文22(1553)年頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が尼子氏への抑えとして築いたもので、狭い瀬戸を挟んで向かい合う大可島(タイガシマ)城は村上水軍の拠点となっていた。
 元亀4(1573)年に織田信長によって京都を追われた室町幕府最後の将軍足利義昭は、天正4(1576)年から毛利輝元を頼って鞆城に入り、大可島城の村上亮康の警固を受けた。義昭は征夷大将軍の官位を保持したままであり、伊勢氏・上野氏等の室町幕府直臣を伴って事務機構も存在していたので、この亡命政権を鞆幕府と呼ぶ事もある。天正6(1578)年になると毛利輝元自身も信長と対峙するため鞆城を前線司令部に定めて滞陣するようになるが、天正10(1582)年に本能寺の変に伴って輝元と羽柴秀吉の和平が成立すると義昭は鞆城から軍事機能を持たない津之郷の館へ移された。
 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の後、毛利氏に替わって備後国を領有する事になった福島正則は海上交通の要である鞆城を壮大な近世城郭に改造する工事に取り掛かり、大可島との間の瀬戸が埋め立てられて大可島城は鞆城の一翼に取り込まれた形となった。しかし、徳川家康がこの大改築に立腹したため、慶長14(1609)年に工事は中止され、正則は三層三階の天守以下建造物を取り壊して家康に謝罪、元和元(1615)年の一国一城令で正式に廃城となってしまった。正則改易後、福山藩は城跡に奉行所を設け、維新に至った。
 現在、本丸跡には鞆の浦歴史民俗資料館が建ち、本丸や三の丸の石垣の一部が残る。
 本丸跡には『春の海』の作者として知られる箏曲家宮城道雄(1894〜1956)の銅像がある。彼は神戸生まれだが、失明前の少年時代を福山で過ごしており、『春の海』は鞆の浦をイメージしたものだとされている。

*鞆の浦
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=40465643&comm_id=264039
・大可島城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41056943&comm_id=398257

コメント(2)

3月8日に行って来ました。

左;本丸石垣
中;同上
右;三の丸石垣
左;解説板
中;鞆の浦歴史民俗資料館
右;宮城道雄銅像

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