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史跡コミュの大友氏遺跡

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 大分県大分市顕徳町・大分

 2001年08月13日、大友氏館跡を指定。
 2005年03月02日、万寿寺跡を追加指定。

 豊後守護大友氏の守護所が置かれた地。大分市街地の南東部、大分川河口部付近に当たる。豊後国府も近かったため、街は豊後府内と呼ばれた。
 相模国を本貫地とする大友氏は鎌倉時代以来豊後守護を続けた名族で、当初の守護所はやや南方の上野台地上の上ノ原館(西山城)に置かれていたが、南北朝の騒乱が収まった後、台地の北麓に京都の花の御所を模した壮麗な守護所が新設され、上ノ原館と併用されたと考えられている。
 20代義鑑が家臣に殺害された二階崩れの変は、上ノ原館で起きた。
 21代の宗麟はキリシタン大名として著名で、南蛮貿易に積極的に参画し、北部九州6か国を支配したが、天正14(1586)年に島津家久軍に敗北し、府内は焼き払われてしまった。
 その後、簡素な館が再建されたと考えられるが、22代義統は朝鮮在陣中、無断で戦線を離脱したため、文禄2(1593)年、豊臣秀吉によって除封されてしまい、府内には早川長敏が20000石で入府して大友館で統治を開始、続いて慶長2(1597)年に石田三成の妹婿の福原直高が120000石が入府して上野台地と別府湾の中間地点の大分河畔に平城の府内城の建設を開始したため、大友館はその役目を終えた。
 戦国時代の大友氏城下町を描いた近世成立の「府内古図」と明治期の地籍図,遺称地名などとの照合によって推定復元された「戦国時代府内復元想定図」(『大分市史』によれば、豊後府内の範囲は東西約0.7km、南北約2.2kmの壮大な都市域を有し、その中心となる大友氏館跡は,北東部が南側に歪み,南東部が南側に張り出す一辺約200mの不整方形を呈すると推定される。
 大分市が実施する区画整理事業に伴う移転代替地として、大友氏館跡比定地の一部が予定されたために大分市教育委員会が平成10・11年度に発掘調査を実施したところ、南東部において東西約83m、南北16m以上の長靴状の平面形を呈する巨岩の景石を配した庭園遺構を検出した。
 また、西側外郭推定線付近で計画されたマンション建設に伴う発掘調査では、16世紀前半の土塁遺構、16世紀後半の大規模な整地層・掘立柱建物跡などが検出された。北辺西隅部の発掘調査では六本の溝跡が検出され、溝跡は二本が一対となる築地跡と推定され、順次北側へ拡張されている。
 中心部の発掘調査では、15世紀から16世紀の遺物を含む1m以上の整地層と、径1m強の根固め石を詰めた土坑が7基検出された。2回から3回の切り合いが認められ,大型の建物跡の存在が推定される。
 出土遺物の特徴は、(1)大量の土師器皿、(2)茶器、(3)館跡遺構の年代よりも古い中国陶磁器、(4)華南・東南アジア陶磁器の出土などが挙げられる。(1)は出土遺物の大半を占め、様々な儀礼・饗宴で使用されたハレの器である。(2)(3)は大友氏の茶の湯文化と家格の高さを示す。(4)は南蛮貿易によってもたらされた器物である。フロイスの『日本史』には、天正14年末の島津氏の侵攻によって府内が焼亡壊滅したと記されているが、庭園遺構からの出土陶磁器のかなりのものに火熱を受けた痕跡が認められるため、館が焼き払われ、庭園も破壊されたと推定される。
 当初は「大友氏館跡」の名で史跡指定されたが、大友氏の菩提寺だった万寿寺跡も追加指定されたため「大友氏遺跡」の名称に変更された。万寿寺跡には体験学習館が設けられ、出土遺物の展示や情報発信が行われている。
 万寿寺は江戸時代初期になって、館跡の北方に再建されている。
 館跡は、庭園遺跡も埋め戻され、現在は更地となってパネルが建つのみである。

*城下町豊後府内
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39530020&comm_id=194642

コメント(2)

2月7日に行って来ました。

左;万寿寺跡 体験学習館
中;説明版
右;館跡
左;遺跡上空写真
中;館跡上空写真
右;豊後府内古図

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