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磐座(県別)コミュの茨城県

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茨城県に存在する磐座

写真左●要石(鹿島神宮)=書き込み1
写真中●要石(磯部稲村神社) =書き込み2
写真右●宿魂石(大甕神社) =書き込み4

↓MAP
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113844027188609943916.00045d86df39495c102c3&z=8

コメント(5)

●要石(鹿島神宮)
茨城県鹿嶋市宮中2306-1

2008.04.12日記
常陸行 6 要石

路肩にある鹿島大神石像前から森の中をさらに130mほど進むと、
少し開けた場所があり、素木の丸太で構成された5m四方ほどの神域があった。
その神域の中央、青空の下に「要石(写真左)」はあった。
要石の露出部分は大きくないことは知っていたが、
実際に見てみると、思っていたよりも小さかった。
形状からして、
この地下に果てしなく大きな岩が埋まっているとは想像できない。
都内の葛飾区にも「立石」という磐があって、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=330048318&owner_id=350761

要石はその立石よりもやや小さいかもしれない。
要石の露出部形状は美しく、中央部に窪みがある。
説明板には水戸光圀がこの要石の大きさを調べるために
7日7夜掘らせたが、掘りきれなかったという逸話が紹介されている。
磐座になみなみならない興味を持っていた水戸光圀ならやりかねないが、
「立石」の方にも掘りきれなかったという逸話や、周囲から
縄文時代のものと思われる、加工された石材が出てきたという話があり、
レーダー探査でその地中に空洞が見つかっているというから、
石室か墳墓であった可能性もある。
要石の方も同様の可能性が考えられる。
磐の中央の窪みは三戸光圀が茨城県に設けた陰陽神社裏山山頂の
ストーン・サークルの中央石(立石)にもあって、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=225540655&owner_id=350761

そちらは窪みがもっと深く、磐は完全に露出していたので、
ぼくは富士山の模型ではないかと考えた。
実際、陰陽神社裏山山頂からも、ここ要石からも、
縄文時代には富士山が見えていた可能性がある。
要石の参拝の方角は奥宮の真後ろにありながら、
その方角や太陽の上がる方向や南ではなく、
富士山に向かっているように思える。
縄文時代には海岸線が要石の近くに迫っていた可能性もある。
要石の周囲の平らな地面からの隆起は10cmも無さそうだが、
鹿島神宮社歴は紀元前の縄文時代から始まっていることになっていて、
実際に要石は縄文時代から認識されていた可能性が大きく、
砂鉄を採集にやってきた物部氏も気づいていただろう。
少なくとも中臣氏がやってきたと思われる
1300年以前から祀られてきたろうから、
自然のままで、1300年間、隆起10cmを保ってきたとは思えない。
おそらく、神職の方たちによって現在の状況が保たれてきたのだろう。
要石の周囲には賽銭が散らばり、
背後には紙垂の下がった、榊らしき細い木(写真中)と
神域内の角に葉の残っていない枝しか無い、別の大樹が植えられている。
神域の背面と正面拝所部分には細い素木の柵が設けられている。
実はここで陰陽師A氏が、
先日、対馬の表八丁郭という天童法師が祀られた場所に流れる清流から、
汲み上げてきた水を要石に撒いたのだが、ぼくはそれを見てなくて、
後になって知った。

改めてその神域を構成している素木の施設全体を見てみると、
正面に柱と笠木が円柱で、貫は角形、端が柱の外に貫き出ている
独特な鹿島鳥居がゲートのように存在している。
現在の鹿島神宮では
鳥居が木製なのはここと奥宮と太平洋に面した一ノ鳥居だけで、
ほかはすでに石製になってしまっている。
奥宮の鳥居は鹿島鳥居ではなく、明神鳥居だから、
正規の鹿島鳥居はもう、2カ所しか残っていないことになる。

もうひとつ変わっているのは、鳥居が独立したものではなく、
柵と貫で連なっていることだ。
これは奥宮も同様だ。
これは鳥居の形式そのものと同じで、制作労力削減と同時に、
できあがったものの、耐久力を狙った合理主義の現われに思える。
神域周囲の柵には屋根が巡らされており、
その屋根も正面だけひさしが長く、社殿を意識させるものになっている。
要石には常に参拝者が居るような状況だった(写真右)。
●要石(磯部稲村神社)
茨城県桜川市磯部779

2008.04.26日記
常陸行 1 要石

●日本書紀 「葛城」の地名由来の要約
「葛城山の一帯には古くから土蜘蛛族という土着民が居た。
その土蜘蛛が付近を暴れ廻るので、征伐することになり、
神武天皇が葛の蔓で網を編んで捕らえたことから、
この山一帯を『葛城』と呼ぶようになった。
御所市の一言主神社の境内には
土蜘蛛を捕らえ、 頭・胴・足を三つに切って埋めた墓と伝えられる
『土蜘蛛塚(つちくもづか)』が存在する。」

●常陸民話 「茨城」の地名由来の要約
「常世の国(常陸)にはカカセオと呼ばれる星の悪神がいて、
昼間は岩の間に隠れ、好んで魚貝類を頬ばり、夜になると外に出て活動した。
この神の活動を抑えるため、天尊系の民族は
昼間隠れる岩の周りを茨刺(うばら)で塞ぎ、敵を攻め滅ぼした」

「城」=天子または国王の居所。「佳城(=墓地)」の略。
「葛城」「茨城」ともに征服者の王の居所なのか、
あるいは被征服者の墓標なのか。

磯部稲村神社のある桜川市磯部は筑波山系の北、稲田石切山脈との谷間にある。
縄文前期(起源前4000〜3000年ころ)の水位は現在よりも4〜10mほど高かったと言われ、
海岸線は内陸に入り込んでいたから、
おそらく磯部の近くに内海の海岸線は迫っていたものと思われる。
同じ時代、関東平野は水没していた部分があり、
大部分が山岳部である伊豆半島も伊図嶋と呼ばれていたように、
周囲は水没していて、島であった可能性が大きい。

50号線から南側にあるJR水戸線羽黒駅の向かい側に延びる257号線を北上し、
特に案内板も出ていないので、地元の人たちに教えていただいて、
磯部稲村神社前に到達した。
神社前の道路には参拝者の車が停まっており、
5段しかない神社の石段にはピンク色の桜の花びらが積もっていた(写真左)。
境内に桜の樹の多いのも当然で、
桜川匂から梅鉢桜まで、全11種の桜が揃っているという。
紀貫之が桜川の桜を歌に詠んだことから、桜の名所として知られ、
世阿弥が磯部稲村神社に伝わる花見噺「桜児物語」をもとに
謡曲「桜川」の舞台とした。

石段を上がると、本殿に天照皇大神、天児屋根命(アマノコヤネ)を
はじめとした12柱。
鹿島社、息栖社をはじめとした摂社が12社。
末社32社が祀られているという圧倒的な説明板が表示されていた。
圧倒的な神様が勢揃いだが、石製靖国鳥居をくぐると、
春日造の向拝を持った拝殿はすぐ目の前にあった?
境内には鎮花祭との関係か、地元のひとたちが
社務所前に並べられたベンチで雑談をしていたり、
参拝者も多い。
境内の開けた部分は広くはないが、社殿の背後と周囲には森が広がっている。
拝殿前参道には一対の狛犬のみだが、
神仏分離で廃寺となった神宮寺がその森の中にあったらしい。
拝殿の周囲を多数の摂社、末社がぐるりと取り囲んでいるが、
これは近所にあった香取神社も同様だった。
左手から社殿の周囲を巡ると、香取神宮にもあった、
浄砂が丸い御影石のボールに盛って、祀ってあった。
その奥に石柵に囲まれた、塀の無い、
柵にトタン屋根だけの社があり(写真中)、
屋根の下には力石を小さくしたような、
丸く尖った『要石』があった(写真右)。
背後に紙垂が立っている。
鹿島神宮、香取神宮の『要石』のように、
地面の中で果てしない大岩につながっている感じは無くて、
引けば、スポンと抜けそうな感じだ。
境内の説明板によると、この要石は鹿島神宮の戌亥(西北)の鎮守と伝えられ、
鹿島の『要石』が鯰の頭を抑え、
ここの『要石』が鯰の尾を抑えていると伝えられているという。
起立した要石の周囲には平らな大石が3つ並んでいるから、
おそらく、環状列石と立石であったのではないだろうか。
こういうものがある場合は、この上に本殿が設けられ、
この石が神体として祀られることがあるのだが、
これが本殿に祀られる形になっていないということは、
先住の民の墓標であった可能性がある。
拝殿を取り囲む小祠には名称が付いていないので、
木花咲耶姫の祠がどれか知りたかったのだが、
神主さんは参拝者の祈祷の対応で忙しそうで、声をかけられなかった。
境内の地元の方に桜満開の高峰山への地図をいただき、
高峰山麓に寄って、笠間稲荷に向かった。
●宿魂石(大甕神社)
茨城県日立市大みか町6-16-1

2008.05.05日記
常陸行 3 宿魂石

笠間稲荷神社から50号線に戻り、水戸市市街を抜けて6号線に出て北上。
日立市に入ると6号線両側に
大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)の杜(写真左)が現われる。
つまり、6号線は大甕倭文神社の境内を横切っていることになる。
バイクをUターンして石製大鳥居のある側に入って行った。
そこは杜の上側の入口で、
そのまま大鳥居をくぐって、開いている場所に愛車を停めた。
目の前には鉄筋の階層を持った大きな儀式殿があった。
目的はこの神社の主祭神武葉槌命(タケハヅチ)が
甕星香々背男(ミカボシカガセオ)を封じ込めたという磐座、
宿魂石(しゅくこんせき)の方なので、スルーして、奥に進む。
途中に、この杜の樹叢が
スジダイ(ブナ科)の優占する常緑広葉樹林である説明板が掲げられていた。
神輿蔵らしき建物の横を抜けると樹木の生えた大岩と拝殿が現われた。
大岩の前に石灯籠を構えた祠があり、『宿魂石』と刻まれた石碑があった。
(写真中)
だが、その大岩が『宿魂石』ではなかった。
その大岩が麓にある背後の岩山が『宿魂石』だった。
麓から石段があるので、その岩山に登ってゆくと、すぐ石段は無くなり、
緩やかな崖の鎖場が現われた。
鎖は使わなくても、足場はあり、なんとか崖は登ることができた。
岩山の頂上には砦のような奥宮があった(写真右)。
この岩山の情景は以前行った、同じ茨城県の西金砂神社奥宮と、
とても似ている。
『岩山』であることに何か意味があるように思えるし、
両神社とも『甕』と関わりがある。

大甕倭文神社祭神=武葉槌命
宿魂石に封じ込められた者=甕星香々背男
西金砂神社祭神=大己貴命

甕星香々背男=蛇=大己貴命

という共通点があるから、
これからすると

蝦夷=国造り

という可能性があることになる。

宿魂石を下って、拝殿に向かい、右奥にある
武葉槌命と甕星香々背男の戦いを浮き彫りにした衝立(写真下)を見学。
武葉槌命の劔は折れていた。
武葉槌命は上品な容貌、甕星香々背男は粗野なイメージで彫られている。

拝殿正面に石製一ノ鳥居と下り階段があり、
こちらが下からの入口になっている。

入口前には三叉路があって、道標石碑が立っている。
ぼくは愛車で、金砂磯出大田楽(かなさいそだしだいでんがく)のように、
その三叉路から海に向かった。

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