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Visionary ArtコミュのOutsider Art&Visionary Art

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       アウトサイダー アート   ヴィジョナリー アート


Visionary Artという言葉は管理人が知るかぎり、多くの専門家の精査をえておらず、それは「いわゆるヴィジョナリー アート」と言い留めるのが今のところ正確なのかもしれません。

Visionary は主にアメリカで使われている用語であり、ヨーロッパにおいてはFantasticという言い方が一般的なようです。しかしヨーロッパにおいてもアメリカの動向が重要性を増し、Visionary Artは広く国際的な言い方になりつつあるようです。


 しかし、ここ最近、この言葉の問題を調べるなかで看過できない点に気づいたので、書いた方がよいと思いました。

 アメリカに American Visionary Art Museum http://www.avam.org/index.htmlという公立施設がありますが、この施設はどうも、このMixiコミュで取り上げている領域とは異なるもので、その扱うアートの大部分がアウトサイダー アートと言わねばならない内容なのです。

 アウトサイダー アートとはしばしば専門的技術をもたない、美術界と無縁な全く個人的な領域で展開されてきたアートのことで、極めて技術もあり、社会的影響力のあるHR GigerやAlex Greyのような仕事とは区別しなくてはならないものであるはずです。

 さらに 東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ研究資料センター によるニュースレターhttp://www.cpas.c.u-tokyo.ac.jp/pub/CASNL3-1.pdfで、「アメリカにおけるアート研究と サブカルチャー 」と題した文章を見ることができますが、そこでアメリカのサブカルチャーと関連する機関としてIAFAを紹介しています。The Inter- national Association for the Fantastic in the Arts http://www.iafa.org/しかしここで扱っている幻想表現は全て文学におけるものであり、幻想美術は範囲外なのです。つぎにこのニュースレターが報告するVisionary Artの参考サイト http://dir.yahoo.com/Arts/Art_History/Periods_and_Movements/Folk__Self_Taught__and_Outsider_Art/Museums_and_Exhibits/ はアウトサイダーアートに関するものだけであり、これが書かれたのが1999年だとしても、高度なヴィジョナリー アートがネット上で当時でもたくさん見る事ができたことを考えると、やや意図的なミスリードがあるのではと推測してしまいます。

 このニュースレーターの執筆者である日本人研究家はアメリカのIAFAのほかにCAA(College Art Association)などを調査したのちこのような感想を述べています。

「このようなかたちで非キリスト教的世界観 を表現するものがアメリカにおけるアート研 究の本流から微妙に排除されていることに 何らかの疑問を差し挟む余地はないものだ ろうか、というのが筆者の目下の関心事であ る。」


 アウトサイダー アートと ヴィジョナリー アート は確かに相互言い換えることができるのが実際のようです。しかし、伝統的な技術を要する具象表現であるヴィジョナリー アートの場合、なんらかの理由によって公的な議論の場から無視されている状況があるようなのです。この政治性がどこから来ているのかを予感するために、以下の ジョン ベイナート の引用文が役に立ちそうです。Metamorphosis2 http://beinart.org/shop/books-2/metamorphosis-3.htmlの巻頭に掲載されているロバート ウィリアムズの言葉です。


 ‘ I’m not issuing blame and retribution, but staring at the end of the Second “World War, the international and American fine arts communities have intentionally striven to move the graphic and sculptural arts into the province of total non-objective abstraction and semi-abstract expression-and this backed up years later with minimalism and conceptual theory. This means essentially that for fifty years the world’s de facto fine art power brokers have completely eliminated representational painting, drawing and sculpture from the whole fine art sphere, with a few rare exception-and such as kitsch pop art.
 
 This is all well and good for high society cognoscenti, except for two problems. To begin with, representational art as a voice and language dates back to early Paleolithic Europe, intricate vernacular of visual communication right up to the middle of the twentieth century when, for some unknown reason, it was curtailed. This crucial form of graphic expression will inevitably find other forms of social contact, and will probably eventually eclipse any art mode that suppresses it.’

 
  「私は侮辱や報復について言おうとしているのではないが、第二次世界大戦の終わりごろに注目してみると、アメリカあるいは国際的な美術の世界が集中的に奮闘してきたことはグラフィックあるいは彫刻といったものを全く非再現的な抽象絵画、準抽象表現の領域へもっていくことであった。そしてそれは数年後にミニマリズムとコンセプチュアル理論の前提となっていった。このことが本質的に意味することは50年間、世界の実質的な有力アート ブローカー達は具象的な絵画、デッサン、彫刻を完全に美術界全体から排除したということである。例外としてはごく一部のキッチュなポップアートのみであった。」

「このことは上流階級の鑑定家達にとっては都合よく満足できることであった。二つの問題を除いては。まず、 何らかの未知の理由で具象芸術が抑制された20世紀半ばから遡っても具象的なコミュニーケーション言語は石器時代にまで到るヨーロッパにおける複雑で独自な地域性に源流があるということである。また、具象表現の危機は必然的に異なる社会性、コミュニティをつくるざるを得なくするだろう。 そしてその結果、恐らくは具象表現を抑圧しようとしてきた如何なる流行スタイルも見劣りするようになってしまうだろう。」
  

 
この具象表現を圧殺しようとしてきた時代の力とはなんなのか、いわゆるヴィジョナリー アート ムーブメントが背後にもつ問題は現代美術の意味、あるいは20世紀の意味全体に波及するものであることがここから伺われるのではないでしょうか。

 これらのことは日本においては実感し難いものがあります。「絵画は終わった。」という時代、その反動から発生したニューペインティング ムーブメント、というふうに、反動に次ぐ反動をへて展開してきた西洋美術のあり方とはまったく違った姿勢を日本人はとらざるをえなかったのであり、本当の意味でのアンダーグラウンドが存在していない日本のカルチャーシーンのあり方は、実はまだ世界には知られていないし、日本人自身が自覚していないかもしれないのです。

 欧米の具象表現の情報がなかなか日本には伝わってこない事情も上に引用した文から察することができますし、また同時に日本の分厚い具象美術の世界も国際的にほとんど認知されてこなかったのではないでしょうか。

 日本の美術大学は比較的厳しいデッサンのトレーニングを学生達に課しており、このシステムが今後も半永久的に無くならないことを考えると、少なくとも欧米に起こった具象美術の危機は日本にはほとんど無く、今後も経験することがないのです。


 いずれにせよ確認すべきことは、Outsider Artは日本の現代美術雑誌でも特集が何度か組まれ、美術市場や批評が存在しているにも関わらず、Visionary Artという言葉はOutsider Artを説明するための概念として位置づけられているという奇妙な状況なのです。そしてそれが何故かを知るには、国際的な美術界に影響を与えてきたなんらかの公的な機関の方針意図に関する情報がこれからも必要になってくるのではないでしょうか。





American Visionary Art Museumの様子を見ることができます。やはりこれは日本でも広く紹介されているアウトサイダーアートという方向性であって,Visionary という言葉をめぐって非常に紛らわしい語弊がうまれている可能性があります。


コメント(12)

ヴィジョナリーアートとアウトサイダーアートの関係について、ウェブマガジンLilaにおいて記事がありました。全文ではありませんが、関連部分だけ抜粋しました。この文はEric Davisによる「True Vision」と題された本からのもののようです。

原文http://lila.info/art/visionary-art-the-vanguard-of-tradition-by-erik-davis.html
以下引用


釈迦がもつ一本の傘が宝石を煌めかせながら広がるように、ヴィジョナリー アートという言葉は多様なスタイル、ジャンル、時代を包括し、またその理念の純粋さの度合にも幅がある。定義は様々だろう。しかしこれから私が述べることは晶かである。
ヴィジョナリーアートとは実際の幻視的な体験と共鳴しあうものであり、それらの体験は否定し難い力強さでもって神秘を解き放ち、多次元的な認識は別の世界の秩序を指し示すのである。個々人においては幻視的体験に偏りがあるだろう。しかしそれらの輝かしい気づきは我々の生における肝要な部分において我々全てを祝福するのである。あるときは精神の集中によって引き起こされるトランス状態や恍惚状態。あるいは無制限で深い夢の喜びであり、また一見分裂症的な気違いじみた化け物屋敷であったりする。しかし人の手によるヴィジョナリーアートを通して、その目を注がずにはいられない作品を通して、自らと他とが等しく幻視的体験を理解することができるのである。その様々な現れ方にも関わらず、あるいはその言語、イメージ、創造された空間は、私達にヴィジョナリーな体験がこの地球上における人間の生にとって一貫して不変的なものであることを自覚させるのである。

 ヴィジョナリーアートの前提であるこの根幹となる見方と表現を用いるなら恐らく境界線や定義に関して過大に思い悩む必要はなくなるであろう。結局、カテゴリーを必要とするような思考とは画廊や批評と関連したものであり、実際に芸術作品を創ったり鑑賞したりするうえでは無用である。しかし、ヴィジョナリーアートというカテゴリーを熟考することは有意義な結果を生み出すだろう。なぜならそのような姿勢は我々の見方のコンテクストを形成し、そしてなお重要なことはそれが我々の理解の共有を可能にする方法だからである。


 関連した用語であるアウトサイダーアートについて考えてみるならば、その豊饒にしてやや控えめであったカテゴリーは今や、公的な論説において統合され、あるいはビジネス上のコレクションや美術批評の対象になっている。Dr.Walter Morgenthalerのような心理学者がAdolph Wolfliといった精神障害者達の幻視的絵画による驚くべきコレクションを創り始めた段階で、まさにコンセプトとしてのアウトサイダーアートが様々な学会の内部で浮上したのであり、それはパラドキシカルに十分すぎるほどであった。

 芸術家Jean Dubuffet は、アウトサイダーアートを戦後のアヴァンギャルドの意識に持ち込んだ。それは、モダニストやアカデミーから無視されながらも制作された絵画、彫刻、デッサンの凄まじい量の独創的なコレクションを積み上げたことによるものであった。

 Dubuffetはこれらにアールブリュット、−「生の芸術」と命名した。公式なアートの世界は常に型どおりの偏狭な現実主義によって他を排除するものであるが、1970年代の始めにカテゴリーとして確立化され始めていらいアウトサイダーアートは結果的に公式なアートの枠の外で活動する無数の目覚しいクリエイター達の存在へと注目を促した。
しかし、アウトサイダーアートはどういうわけか貨幣の鋳造のように相当に腹黒い用語となってしまった。アート界のシステムを維持しようとする目的のために、まさにアウトサイドであるという当初のありかたと目的が溶解してしまったのである。アウトサイドということは少なくとも本来、ナイーブ、すなわち漠然と素朴な世界とされてきたものであり、西洋美術史とそれを支持するシステムのための学術的批評によってクリエイター達が毒される事のない領域を指すものであるはずであった。

 アート界のシステムの見方からするならばヴィジョナリーアートとはアウトサイダーアートの概念を延長し拡大するものであるとみなし得るものであろう。例えば、ボルチモアにあるアメリカン ヴィジョナリー アート ミュージアムは自らのコレクションについてこう説明している。「正式な教育を受けない独学の個人によって生み出された芸術作品であり、それは内なる個人のヴィジョンの中から現われた、とりわけ創造的な活動そのものを最大限に楽しむものである。」

 この表現は大いに結構なことであり、素晴らしいミュージアムであることには違いはない。しかしこの定義は甚だ不十分である。ヴィジョナリーアーティスト達が独学であると主張することでアメリカン ヴィジョナリー アート ミュージアムが暗に言おうとしていることは、美術史の主要な流れを構成するムーブメントや流派の中にはヴィジョナリーアートは含まれていないということだからである。
それは全く個人的性癖に関するものでしかないことになり、単独的でオブセッシヴな個人であるSimon Rodia やHoward Finsterといった存在に帰結してしまうことになる。

 しかしながら、多くのヴィジョナリーアーティストが今もかつても正式な教育を受けており、おそらくさらに重要なことは、多くの芸術家が自らの仕事の位置づけのために過去におけるイメージ創造者へと遡りその意義を拡張させていることである。それらはシュールレアリスト達の心象風景、神秘抽象主義、そして中世のイコンといったものである。

 さらにはヴィジョナリーアーティスト達は美術史の中核をなす流れの中に現われ活動したこともある。モダニストによる最も重要な前衛であった抽象表現が神智学という、いわば蓮の池から発生したということを忘れるべきではない。それは霊性に対する姿勢、そして秘教的な瞑想法による成果であったのである。
ビジョナリーアートやアウトサイダーアート、あるいは現代美術といった領域にある見過ごせない点を、
実に鋭く捉えていると感じます。
アウトサイダーアートで言えば、精神病、ドラッグ、オカルティズムなどの狂人としての極地の芸術がある一方で、ビジョナリーアートや宗教画などに見られる真にスピリチュアルな知性(霊性)への気付きと精神的生活実践の極地としての芸術があると思います。
2つはまるで両極端にいるように見えますが、アレックスグレイ氏などのシャーマンとも言えるアーティストについて考えるとき、両者は紙一重のラインにあり、ただその高度が違うのではないかという考えが浮かびます。
どちらかを光でどちらかを闇と定義する思想があることによって、その領域を推し進めて発展させていくには、様々な倫理的問題や、対立が起こっている気がします。
キリスト教のカトリックの一部の視点では、ニューエイジ、スピリチュアル的なものを反キリストの悪魔の意思によるものであり、戦わなければならないものといったような思想があるようですし、このような点がアバンギャルドの反勢力の源だと感じます。
ですがこのような考え方が誤りだとも思えませんし、現代ではあまりに多様化してしまったスピリチュアルな知性が、全体にとって本当に適切なものかも分かりません。
しかし、そこには確実に役割としての機能が内在しているように感じます。
個人的には、ビジョナリーアートのような未知の領域を拓く霊的な芸術と、廃れがちな伝統工芸や宗教美術などに見られる真に極められた技の芸術が融合することを望んでいます。

アウトサイダーアートや価値観の破壊を達成した現代美術の一部には次のステップに進んで欲しいと、何となく思います。

まだまだ分からないことが多いので、色々学びたいですね。

とても有意義なトピックと情報をありがとうございます。勉強になりました。
先日、Contemporary Art&Visionary Artのトピックに上げた Oleg Korolevさんの文章に目を通しますと、日本と比較して、欧米における二極化現象が如何に広範囲で徹底的なものであったかということが伺われます。大衆化と貴族化という二極化は単純なものではなく、それはしばしばすり替えられ、裏返しにされ、アヴァンギャルドの名のもとに体制的システムがしかれた以上、アウトサイダーの名の下にインサイダーに都合のよいコンテクストが作られた可能性も否定できません。

アールブリュット ジャポネ展という日本人作家による大規模なアウトサイダーアートの展覧会がパリで開かれるようです。http://www.art-brut.jp/ この展覧会のために配布されたニュースレターには様々な人々、研究者、政治家、作家、たちによるコメントがよせられていますが、その中に滋賀県知事の嘉田由起子さんによる挨拶があります。以下抜粋引用します。



昨今、障害のある人の芸術は「アウトサイダーアート」や「アール ブリュット」と称され、国内外から注目されています。滋賀県は早くから障害のある人の表現性や芸術性に注目をし、全国の先駆けとして取り組んできた50年近くにわたる歴史があります。その出発は戦後間もない頃に糸賀一雄氏 らによって開設された福祉施設「近江学園」において、施設内作業である窯業の合間に障害のある人たちが造形作品に遡ります。その後、1980年より滋賀県の施設職員が中心となり取り組んだ「土と色展」は、障害のある人の表現や世界を、多くの人に伝えました。2000年以降は現代アーティストとのコラボレーション展なども開催され、障害のある人の美術はインサイダー・アートと対等の価値があると、社会的にも認められるようになったと言えます。




嘉田由起子さんの文章には破綻はなく、状況がよく伝わってきます。ポイントはアウトサイダーアートは一人では自立できない「障害者」によるアートだということであり、福祉活動の一貫であるということです。このことは分かりやすいとしても、しかし問題は、何故に「インサイダー アートと対等の価値がある」と社会的に認めさせるところまでもっていく必要があるのか。「インサイダー」とはこの場合何を意味しているのか。あるいは何故、アウトサイダーアートはコンテンポラリーアートの問題となり、ヴィジョナリーアートは現代美術メディアで取り上げられることが皆無に等しいのか。

 障害者、弱者に対するこの過剰な援助の仕方は、悪い捉え方をすると、インサイダーの論理に合わないその他諸々を「アウトサイダー」というカゴを作って放り込むことで体制に不都合な芽を摘もうとしてきたのかもしれない、ということです。欧米の支配層がその本音で「人間は平等である」ということを全く否定しているのであれば、アウトサイダーアートにおける博愛主義的な扱いもそのまま鵜呑みにはできません。

 ヴィジョナリーアートという概念を日本人に知ってもらう必要性がここにもあります。無防備にアウトサイダーアートを称揚しつづけると、あるいは「世界で認められた」現代アーティストに追随していくと、知らず知らず欧米の論理に巻込まれ、日本人が日本において文化防衛していく上での障害になります。文化防衛の意味とは、日本人が自前で価値判断、価値決定をしていく能力の衰退を防ぐということであり、欧米で、海外で認められて初めて日本人がそれに追随していくという情けない在り方を変えていくということです。

 mzk1 AVAさんの「まだまだ分からないことが多い」という実感は私も抱くようになりました。作品をこの世に生み出した瞬間、無視にしろ共感にしろ、なんらかのリアクションが返ってきます。価値は社会信用によって決定されますし、ではその社会とは何なのか? というと背景やロケーションだったりするわけですね。

 貴重なご意見ありがとうございました。これからも宜しくお願いします。

 

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