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関が原合戦の西軍武将と大阪の陣コミュの指物 大谷軍と真田軍

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 秘蔵?写真「大谷軍 指物」 「真田軍 指物」

 真田左衛門佐幸村(信繁)

生誕 永禄10年(1567年)
一説に永禄13年(1570年)とも
死没 慶長20年5月7日(1615年6月3日)、
一説に寛永18年(1641年)とも
改名 武藤弁丸、真田信繁、伝心月叟
別名 源二郎(通称)、幸村?、豊臣信繁、好白(法名)
諡号 伝心月叟
墓所 長野県長野市の長国寺、
京都府京都市の龍安寺塔頭大珠院、
宮城県白石市の田村家墓所、
秋田県由利本荘市の妙慶寺、
大館市の一心院
官位 従五位下、左衛門佐
主君 上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼
氏族 名字:武藤氏→真田氏
本姓:源氏→滋野氏→豊臣氏
父母 父:真田昌幸
母:宇多頼忠の娘・山手殿(寒松院)異説有
兄弟 信之、信繁、信勝、昌親
クリップ妻 正室:大谷吉継の娘・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・隆精院、
堀田興重の娘、高梨内記の娘
子 阿菊(石合重定室)、於市、
阿梅(片倉重長継室)、あくり(蒲生郷喜室)、
幸昌、なほ(御田姫、岩城宣隆室)、
阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)、
片倉守信、三好幸信、石田之親
真田 信繁 (さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。

武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。特に大坂夏の陣では、寡兵を持って徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめたとされる。江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。


(大谷刑部少輔)

時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄2年(1559年)(永禄8年(1565年説も))
死没 慶長5年9月15日(1600年10月21日)
別名 幼名:桂松(慶松)、紀之介、
別名:平馬、吉隆
戒名 渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門
墓所 岐阜県関ヶ原町、滋賀県米原町
官位 従五位下、刑部少輔
主君 豊臣秀吉→秀頼
氏族 大谷氏
父母 父:大谷盛治(大谷吉房とも)。
母:東殿
子 大谷吉治(吉勝)、木下頼継、大谷泰重、竹林院(真田信繁正室)ほか
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越前敦賀城主。名前については「吉隆」とも[1]。 “業病”(注:当時の認識)を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である。


生涯

豊臣家臣時代
永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、父が病気治療のために豊後に赴いて、そのまま一時期大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もある[要出典][2]。 母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。天正初め頃に秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。

天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で横死し、その後に秀吉が台頭してくる。そして天正11年(1583年)に織田氏筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった。このとき、吉継は長浜城主柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。ここから、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。

天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。天正17年(1589年)に越前の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。発給した文書が現在に伝わる。

天正18年(1590年)の小田原の役にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置にも従軍し、出羽の検地を担当した。文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。同年6月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。文禄3年(1594年)、伏見城築城に参加して功績を立てている。

慶長2年(1597年)9月、秀吉を自邸に招いて饗応し、多くの贈り物を贈って忠誠を誓ったという。そのため秀吉も吉継の長年の忠義を賞賛して、国行の太刀を与えたと言われている[要出典]。


関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ、家康を警護している。その後前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多秀家家中の紛争を調停している。

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたのであるが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り、熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子たちとともに三成の下に馳せ参じ、西軍に与した(※異説有り、後述)。

こうして西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して、軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。

9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて5700人で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦した(大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説あり)。

その後、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000人が裏切り大谷隊に突撃したが、予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返したという[3]。 その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が戦死していることからも伺える。

しかし、吉継が追撃を仕掛けたところへ小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・赤座・小川・朽木の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻撃を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場のパワーバランスを一変させ、西軍の諸隊を動揺させた。

吉継は業病(ハンセン病と云われている)故に、輿に乗って指揮したと云われるが、関ヶ原に「西軍が先に着陣」した時に秀秋の裏切りを見抜いて居て史実の小早川隊の進軍経路の要所に「馬防柵」を築いたと云われる。

自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはなかった。

辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。


人物・逸話
吉継が生まれる前、両親は子供が出来ないことに嘆き悲しんでいたところに、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで、神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。
吉継は、当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と思われるが異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていた。また失明していたとも言われており、そのために政治の表舞台で活躍する機会が無かったとされる。
豊臣政権の五奉行で、関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している[4]。
ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある[5]。
関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが吉継自身は家康とも親しく、当初は家康派だったと目される。徳川家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。このため、吉継が西軍に与したことを知ったとき家康は非常に狼狽したという逸話がある。
朝鮮出兵などで兵站業務を担当し、優れた軍監ぶりを発揮したことから、秀吉は「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられる。
三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。三成ははじめのうちはこの諫言に従ったが、しかし西軍が編成されると次第に横柄さを取り戻したと言われている[6]。
相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。『名将言行録』でも、「吉継、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。
講談等の義人としてのイメージによる物か、実際の事跡に不明な点が多いにも関わらず、後世の特に庶民からの人気が高い。この傾向は江戸期から現代でも続き、『関ヶ原もの』等の歴史小説では悪し様に描かれるケースは見当たらない。

子孫
子の大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣ではクリップ義兄弟に当たる真田信繁(幸村)らとともに大坂城へ入城し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。その子孫は帰農したが、のち直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。

三男の大谷泰重の子で、吉継の孫にあたる重政は越前松平家に仕官している。

娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁(幸村)の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り、大坂の陣で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌、守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。

どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で、飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は、吉継の子孫と言われる。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり、敵の首を斬る動作をしたという。


主な家臣
湯浅隆貞 -五助。
湯浅十郎左衛門 -五助の子。後高力家に仕官した。
笠井慶秀 -武田旧臣笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。
三位融盛
このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。

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