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ラテン系人間の会コミュの懐かしい芸人(7/50): 横山ノック

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横山ノックお別れ会
http://www.youtube.com/watch?v=LR_xzF5CTaY

横山 ノック(よこやま ノック、本名 山田 勇(やまだ いさむ)、1932年1月30日 -
2007年5月3日)は、お笑いタレント、元参議院議員、元大阪府知事。兵庫県神戸市出身。愛称は「ピッカリくん」「タコ小僧」「明石のタコ」「ノック先生」。個人事務所のやまだ真企画に所属していた。長男は、ラジオDJでタレントの山田一貴。

1932年1月30日神戸市生まれ。神戸市立楠木高等小学校を卒業して米軍施設に勤務していた。
1955年に宝塚新芸座に入団すると共に秋田Aスケ・Bスケの2代目Bスケに弟子入りし、三田久として初舞台を踏む。その後、兄弟子のOスケと秋田Kスケの名で漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極・富貴でデビュー。1958年に松竹芸能に移籍。(また、この年に結婚もしている)だが、Kスケに水面下で大宝芸能への移籍話が持ち上がり、松竹芸能に残留したOスケと袂を分かつことになる。

「横山ノック」誕生
大宝に移籍後しばらくは秋田Kスケの名で活動していたが、亭号を返上し、再び三田久の名で活動する。その後、友人であり「北野劇場」に出演していた縁もあり関西テレビプロデューサー・石田を介して彼の実父・横山エンタツに再入門、Oスケ・Kスケを逆様にしたKOつまりノックアウト(Knockout)に由来した横山ノックの名で漫才コンビ「横山ノック・アウト」を結成した。だが、しばらくして解散した。この頃に長女が誕生している。

「漫画トリオ結成」
1959年、小林龍太郎(後の上岡龍太郎)と小林が紹介した田川元祥&リズムワゴンボーイズのドラマー・轟盛次(漫才師、轟一蝶・美代子の一蝶の長男)を誘って漫画トリオを結成した。轟は横山フック、小林は横山パンチと名乗らせた。しゃべくりだけのトリオ漫才とニュース漫才は当時非常に斬新で話題となり、好評を博す。

漫画トリオ結成当初は吉本興業に所属していたが、後に個人事務所の京芸プロを設立し、東京新宿の松竹文化演芸場にも連続出演。同演芸場のレギュラーだった立川談志(当時・柳家小ゑん)と兄弟分になる。ちなみに吉本からの独立時に出された条件は「独立後も月に10日間は(吉本が運営する)花月の舞台に客演として出演し続けること」であったと言われ、当時としては珍しい円満退社であったとされている。
1963年、フックが離脱(事実上の解任)し白木みのるの付き人をしていた小島あきら(後の青芝フック)を2代目に迎え入れた。
ノックがボケ、フックとパンチがツッコミ。かつてトリオ漫才と言えばかしまし娘、フラワーショウ、ちゃっきり娘、三人奴、宮川左近ショーなどのように楽器を用いた音曲漫才であったが、ノックがトリオで正統漫才をやりたい、とこだわって編み出した。
レツゴー三匹と並び称されるところがあるが、レツゴー三匹が正児とじゅんの正統漫才に長作が歌や合いの手を入れるのと違い、あくまでも3人がタイミングよくネタをまわし続け、休む人物が基本的に発生しない。

例)ノック「今日」パンチ「君(ノック)んとこ行ったけど」フック「おらなんだ」

ノックが米軍に勤務し、パンチがジャズ喫茶に出入りしていたことからテンポを重視する傾向があったものと思われる(フックが代替わりしたのも、初代がノックの理想のテンポについていけなかったからである)。また、ノックがコンビ別れを繰り返し、今のスタイルではだめだ、と考え、新しいスタイルを模索していたことも遠因である。ネタ自身もその影響が濃く、洋楽や米軍式行進なども取り入れていた。ニュースネタもそのノックの提唱した「新しいスタイル」の一環である。ネタはまず、パンチが左手、フックが右手を斜め上に差し出し、(3人で)「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」「今週のハイライト」と言って始まる。このニュースネタ収集のため各種のニュースに触れていった結果、ノックは政治家への転身を考えるようになる。当時のノックはすでに禿げ上がっていたが、後頭部からヘアピンを使ってナポレオン1世のようなピンカールを付けていた。ところがある時、海外公演があり飛行機に乗ることになったため、探知機に引っかからないようヘアピンを外しピンカールかつらを付けることになった。帰国後、それを忘れていたパンチが「ええかげんにせぇ!」といつものように突っ込むとピンカールが観客めがけて飛んでいき、観客が「ギャー」と驚いたことがある。

「エロダコ」伝説
若くして頭部の禿げ上がっていたノックは、フックの口三味線での伴奏に乗ったパンチの口上で「タコ」として認知された。これに生来の「女性好き」などのエピソードが加わって一部で「エロダコ」と呼ばれることとなる。以下はそのなかで伝説とされた話である。
a.. 米軍施設で働いていたときに初めて性行為を経験した。相手は米軍の女性将校で、襲われた。
b.. 陰嚢(もしくは陰茎)が非常に大きく、風呂場で少ししゃがむと床に着いた。また、清掃係が、(床にあったため、ゴミと勘違いして)ごみばさみでつまんだ。
c.. 旅館の2階にある女湯を窓の外から覗こうとして、両手でパイプにしがみつき壁伝いにぶら下がりながら女湯の前まで行ったものの、そのパイプは女湯に繋がっている熱湯を通すためのものであった。このため、熱湯が流れるたびにパイプが熱を帯びて熱がるも、手を離すと1階の庭に落下してしまうので熱くてもパイプから手を離すに離せず、あたおたしている姿を芸人仲間に笑われながら目撃されていたという逸話がある。

「漫画トリオ解散・参議院議員に」
1968年に漫画トリオを解散し、参議院議員選挙全国区に無所属で立候補し当選。以後は参議院議員としては分かりやすい政治の広報として、また、タレント業も継続し、『ノックは無用!』などのトボケ司会、上方漫才での大御所「先生」の称号を得るようになりながらも、相変わらず(後輩芸人からも)激しい突っ込みにさらされる親しみやすさで人気を博した。歌手としても 1976年にレコー ド『ガンバレ! たこやきちゃん』を発売、関西を中心にヒットした。参議院議員は全国区2回(1968年・1977年)、大阪選挙区で2回(1983年・1989年)の当選を重ねた(1974年は全国区立候補も落選)。院内では第二院クラブ、民社党・国民連合に属した。

「参議院議員辞職、大阪府知事へ」
1995年に参議院議員を辞職した後、政党に頼らない無党派であることを旗印にし、大阪府知事に当選。ほんの一部を除いてタレント業を封印し、大阪府の赤字解消を目標に掲げて施策を行った。当初は議会のほとんどが野党というオール野党状態ではあったが、芸人としての知名度と愛着の持たれるキャラクターから府民の人気は高く、APEC首脳会議の成功など実績も評価されて1999年の2期目選挙には235万票という大阪新記録の得票によって当選した。
「強制わいせつ事件」
選挙活動の際に運動員をしていた女子大学生から、「選挙運動中に下着の中に手をいれられた挙げ句に性器を触られ、当日性交をするために自分の所へ訪れよと命令された」として、強制わいせつとセクハラ行為で民事訴訟を起こされた。それに対し、横山は「真っ赤な嘘」「でっちあげ」と完全否定して、女子大学生を虚偽告訴容疑で逆告訴した。また、上坂冬子や曾野綾子などの一部文化人やワイドショー出演者・司会者は、女子大学生側に対し、「胡散臭い」「なぜその場で声をあげなかったのか」「金目当ての訴訟だ」と批判した。裁判開始後、横山は「公務の時間を奪われたくない」という理由で事件に関する答弁を拒否した。ただし、法廷外での記者会見や府議会では容疑を否定して女子大学生側に対する批判を行ったことで批判を浴び、辞職を求めるデモも起きた。
1999年12月13日、大阪地方裁判所はセクハラ行為を認定した他、横山の逆告訴や法廷外での発言を名誉毀損であると認定し、女子大学生に対して1100万円(セクハラ訴訟として過去最高額)の支払いを命じた。その後、12月21日には大阪地方検察庁から強制わいせつ罪で在宅起訴され、知事を辞職した。2000年3月に開かれた刑事裁判の初公判では一転して強制わいせつ罪の事実を認め、女子大学生に謝罪した。AERAは「タコの次はイカす知事がいい」と広告を載せた。なお、在宅起訴時、横山は病院に入院し、心臓手術を受けている。刑事裁判の間、次の大阪府知事候補予想として西川きよしと上岡龍太郎が挙がった。それに対し、西川はすぐに否定したが、上岡は各新聞媒体の記者にギャグで立候補の意思を表明するといった出来事があった。
「有罪判決・芸能界追放・芸能活動自粛」
2000年8月、強制わいせつ罪により懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。その後、横山は控訴して争うことを断念した。なお、女子大学生側には多数の女性弁護士、フェミニストを含む総勢81人の弁護団がついていた。判決を受け、当時吉本興業社長だった林裕章は「二度とあの方には協力しない」とコメントし、横山との協力関係を解消した。また、松竹芸能やNHK、在阪民放(準キー)各局も一様に「協力する意向はない」との考えを示した。マスメディア(TV・週刊誌など)は、「エロダコ」「エロダコハゲ」「エロダコノック」、ボクシング用語のパロディーで「ノック、アウト!」、横山の冠番組のタイトルに引っ掛けて「テレビ局もノックは無用!」「放送局もノックは無用!」「ノックは御用!」などと様々な罵声・揶揄・罵詈雑言の嵐を浴びせかけた。なお、太田房江知事(当時)は「自ら犯したことをしっかり反省し、信頼回復には尚一層の努力をするべきである」と、横山を説教するように比較的、温和な口調で今後の復帰も期待するコメントを行った。このような状況で、横山は、事実上、芸能活動を永久追放処分となり、TVから姿を消すこととなった。
「執行猶予満了後、晩年、そして最期」
2003年、横山は執行猶予を満了し、芸能活動の再開を模索した。テレビについては同年10月にKBS京都のテレビ番組『とっぴもナイト』にゲスト出演し、TV出演に復帰するという話があったが、各種メディアからのバッシングや視聴者からの反感が大きかったため、放送が見送られることとなった。その合間に、立川談志の独演会に月亭可朝と共に楽屋を訪ね、談志から出演を打診されたものの、結局断っている。その後、2006年2月18日にスカイパーフェクTV!のぜんタネ(司会は上岡龍太郎の弟子のぜんじろう)にゲスト出演、久しぶりに公の場に姿を見せた。また、7月にはラジオ関西の番組にゲスト出演、9月には生國魂神社の「彦八まつり」に参加、観客の前で漫談を披露した。しかしながら、テレビ出演はスカイパーフェクTV!のぜんタネ、舞台は生國魂神社の「彦八まつり」が最後となった。

2007年に入り、横山は体調不良などでメディア露出が大幅に少なくなる。2月に中咽頭ガンと判明し、弟子たちにもガンに侵されている事を告げた。そして、「横山と言う名前を(後世に)残したい」と言い、復帰に向ける意気込みも見せていたが、2007年5月3日7時15分、中咽頭ガンのため兵庫県西宮市の病院で死去した。享年76(満75歳没)。太田房江大阪府知事(当時)は「突然の訃報に大変驚いている。知事在任中には行財政改革の推進などに力を尽くされ、府政の十年にわたる改革の礎をつくられた。今はただご冥福をお祈りする」と横山の知事時代の功績を称えるコメントを行った。ただ、大阪府は横山に対して強制わいせつ罪の有罪確定により退職金の分割返納を命じており、横山自身は1期目の退職金を完済していなかったため、遺族に約3年分の残額の返納を要求する姿勢を見せた。2007年6月7日から後輩芸人など有志によって「横山ノックを天国へ送る会」が大阪のリーガロイヤルホテルで開催された。発起人の一人である上岡龍太郎は「横山パンチ」名義でお別れの会に出席し、壇上で「ノックさん、あなたは僕の太陽でした。さようなら」と遺影に向かって涙声で別れを告げた。司会は『ノックは無用!』で横山の選挙期間中に代理司会を務めた桑原征平が務めた。また、息子の一貴の長男(横山の孫、8歳)が「横山タコ」という名義で「タコチュ」というギャグを披露した。

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