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唯物論コミュの唯物論の相対化

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ーーーーーーーーーー唯物論の相対化ーーーーーーーーーーーーー
★『季報唯物論研究100号』に掲載されたものです。                       
 マルクス主義のドグマでは唯物論と観念論は、両者は根本的に対立している世界観どうしなので、二者択一的なものと捉えられていた。両者を相互補完的な関係で捉えるという発想はできないものという思い込みが強かったと思う。しかし冷戦終焉を迎え、この哲学の根本問題についても柔軟に捉え返す傾向が強くなってきた。

 実際マルクスも唯物論を否定的な文脈でも使っており、ヘーゲル論理学を方法論とする観念論的な方法を使って『資本論』を展開している。経済学の原理論であるにもかかわらず、実際の経済の統計資料は一切使わず、もっぱら商品⇒貨幣⇒資本という発展を概念の自己展開として捉え返しているのである。

□田畑稔氏の『マルクスと哲学』によれば、マルクスは哲学を脱却したといわれる。私はマルクスはすごい哲学者だと思うが、田畑氏の言わんとしているのは、マルクスが世界は何から構成されているかを問う哲学的な形而上学への関心を脱却していたということだろう。

□だとすれば強いてマルクスを唯物論者と決め付ける必要はなくなるだろう。つまり存在論的な唯物論と観念論の対立は二者択一で、非和解的なものかもしれないが、科学的な認識の方法論としては、唯物論と観念論はどちらか片一方だけでは不十分で、両者は相互補完的なものとして使用されなければならないからである。

□たとえば「聖徳太子は実在したか」という問題を考える場合、実在したかしなかったのどちらかであり、実在したともしなかったとも言えるという前提で議論することはできない。なぜなら聖徳太子は客観的な実在として存在したかどうかが問われているからである。その場合には、歴史学の対象を客観的な実在とみなす歴史学的唯物論に立たざるを得ないのである。

□他方、歴史史料から歴史を再構成する場合は、一定の歴史像、歴史観によって展開しなければならないのである。その場合はそれぞれの歴史観が展開されるなかで、史料の意味づけがなされ、歴史的役割が捉え返される。従って歴史のイデー(理念)をいかに担ったかという形で記述されるのである。その意味で歴史研究者はだれもが歴史学的観念論に立たざるを得ないのだ。

□とすれば歴史学的な認識論において唯物論と観念論は相互補完的なものとして捉え返されることになる。これに対して唯物論や観念論は世界観であるということに固執して、世界観である以上あくまでも唯物論でなければならないと反発される方もいるだろう。それは実在を意識ではなく物質だと捉える立場への固執である。

 しかし意識になって現れていない物質には現実性が欠けているのであって、物質それ自体は実在としては不完全である。意識と物質は実在の両面であって、実在が自らを対象化する場面で、意識状態と意識される対象として捉え返されたに過ぎず、両者は元々二元的なものではない。「存在は意識された存在である」とか「意識はあるものの意識である」とか表現されるのはその意味に解すべきである。

 だから記紀の世界では、「物」というのはそれ自体生きた「意識」として命(魂)として捉えられてきた。物部氏は武器を司ると共に神霊を祀るのである。霊も玉であって、それは物と二元的にあるのではなかった。ヤマトタケルの霊はオオハクチョウであって、オオハクチョウにやどる非物質的なものではない。

 そのことは唯物論と観念論の区別が無用だという意味ではない。それは認識が主観・客観的な対象化によって成り立っている以上、有効な区別だと言える。唯物論的に世界を認識するということは、認識される対象が客観的な事物の形式において捉えられなければならないということを意味している。つまりなにものかの運動や働き、作用として世界を表現してはじめて世界を認識したと言えるのである。その意味で科学的認識は唯物論的でなければならない面をもっているとも言えよう。

□また認識は概念として展開される以上、認識された事物は概念として現れており、世界は意識として実在しているのであり、科学的認識は観念論でもなければならないのである。

□したがって唯物論と観念論の区別は、認識が主観・客観的認識図式において成立する限り、その両面で捉えなければならないということを示している。つまり唯物論的には世界は客観的事物の運動として認識されなければならず、観念論的には正しく概念把握されていなければならないということである。その一方が欠ければ、正しく概念把握されていない事物の関係として認識されたり、客観的な事物によって裏付けられていない机上の空論として認識が展開されることになる。

 現実的な社会の矛盾と格闘し、社会変革を目指した政治的党派が、唯物論を自らの世界観として掲げたのは、変革を成功させるためには理念の空回りに終わる観念論的偏向を戒めたからである。その思いが強すぎて、観念論自体を誤りと決め付けてしまった。その割には、彼らは観念論的な偏向から脱却できなかったし、観念論的に理念を堅持して、理念を実現しようとすることにも中途半端に終わってしまった。

□近代の終焉にあたって、唯物論の相対化、唯物論と観念論の相互補完的関係の再構築が目指されなければならない。私は、その意味で西條剛央氏の提唱されている構造構成主義という方法論に注目している。

 これは蛇足であるが、主観・客観的な認識図式は近代的な認識図式であり、そういう認識自体を超克し、主客未分な実在自体に即した認識論を樹立しなければならないとする議論がある。しかしそれは、認識以前の純粋経験のような事態に戻ることであり、それを認識するには、再び主観・客観的に捉え返さなければならないのだから、立論自体に無理があると言わざるを得ない。

□誤解を避けるために付言するが、主・客合一の境地をナンセンスだというわけではない、それは悟りの境地、忘我の境地として認識未満あるいは認識を超えた境地であり、認識には入らない境地だということである。

コメント(9)

う〜ん,
テーゼの各項は一々その通りだとは思うんですが。

意を得ないのは,「唯物論者」志向だからでしょうか(苦)。

マルクスの唯物論批判はあくまで
「古い唯物論」を「新しい唯物論」の立場で
弁証法的に批判したものであって,世界観的な,
従ってまた存在論的な「絶対的」対立を
否定したものではなかったように思っていました。


確かに安井さんの指摘される通りで弁証法と言う方法は,
意識されている意識と無意識,そして外界との各々の関係を,
意識の能動的運動性の立場から把握する概念的方法でしょう。
意識の志向性や観念論的考察の再評価も仰る通りです。
ただマルクスの画期たる所以は,
そうした「観念論的方法」を用いて
「唯物論」を再構築した点にあるかと漠然と考えていました。

もちろん,
意識と物質の関係と,
意識と物質から構成される人間と外界の問題とは,
互いに関連しながらも次元の違う問題ですけれど。

…かなり教条的ですね,反省。
 マルクスの議論には観念論だから誤りで、唯物論だから正しいという論じ方はしていないと思われます。それはともかく、唯物論が正しくて、観念論は誤りだというのがどういう意味や意義を持つかをきっちり整理しておかなくてはならないわけです。

 科学的認識に関しましては、唯物論的方法も観念的方法も共に不可欠でして、その相補的な関係をはっきりさせておこうと考えたわけです。

 これは非常に重大な問題提起と思いますので、大いに議論沸騰させていただきたいと存じます。21世紀の初頭のミクシィで議論するのに相応しいテーマではないでしょうか?
…やすいさん,あんまり議論沸騰しませんね,残念です。
僕もやすいさんの問題提起は重要なものだと思いますが。
現代においても唯物論者は
こんなにもその態度表明を抑圧されてるのでしょうか(笑)

僕はやすいさんの提起には未だ素直に首肯出来ないでいます。

思うにマルクスはやはり「唯物論」者であろうし,
冷戦の「終焉」は一方の立場の現実的敗退,
それも相対的な敗退であって近代の終焉を示してはいない,
と考える「教条的」な非研究者です。

しかしながら,
「観念論的」方法で再構成された唯物論と
「唯物論的」実体の運動法則が根拠となる,または,
そうした実体の運動法則の能動的認識である弁証法との,
両者の間の差異や同一性への考察について,
さらには「反映論」や「科学的」概念把握についてなど,
多くのことを安井さんの提起から示唆を受けています。

特にマルクスの唯物論への否定的言及の指摘からは,
デモクリトスとエピクロスの唯物論の差異の意味と,
若いマルクスがそれを論じた意味について考える機会を
与えていただきました。全然未決状態ですが(恥)。

他の方がやすいさんの問題提起をどのように考えているのか,
論じてもらえたり,教えてもらえたりするならば,
僕のような者にとっては大変ありがたいことなのですが。



コブラさんへ

以下の『マルクス研究』というコミュニティのトピックで少し議論がありますので、参照願います。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=22701184&comment_count=12&comm_id=2531273
 初めまして。
 唯物論というのは、意識の外に物質の存在を認めるのですよね。
 物質の存在に対して、物質ではない観念とも呼べる意識の存在を認める二元論ですよね。
 始めから相対しているのではありませんか?
泥酔さんへーコメントありがとうございます。

相対(あいたい)しているという意味での「相対化」ではありません。
唯物論が正しいか、観念論が正しいか、どちらか二者択一だという議論がありまして、唯物論者は意識は物質的基礎の上に生まれていて、存在によって意識が規定されるという唯物論の立場を選ばなければならないとされていたのです。そしてこれが「哲学の根本問題」だと言われていました。それを私は、存在論的な世界観としての哲学を棚上げにするのなら、唯物論的アプローチも観念論的アプローチもケイスバイケースでどちらをとるか選択すればいいので、唯物論的方法が正しいという立場を絶対化しない方がいいという意味で「相対(そうたい)化」すべきだと述べたのです。
>存在論的な世界観としての哲学を棚上げにするのなら
存在を問題にする哲学を棚上げするのですね。了解しました。失礼しました。
存在は即自としては物質で対自としては意識ですね。コインの両面のようなものですから、どちらが根源的かというのは、果たして意味のある問いでしょうか?じゃあ存在はどう捉えるのかということになりますが………?
基本的認識が異なるようなので最小限にとどめます。
私に実感できる存在は表象=観念世界だけです。日常経験での物事と、個々の観念とからなる私の意識が描き出している表象=観念世界です。私の意識が描き出す観念世界とそれを受け入れる自らの意識だけを実感できます。
私の感覚器官がどのようにして感じているかは知識として知りえても、実感できません。原子や分子、光子を知りえても実感はできません。他者の意識と共感できたと実感することはあっても、自分の意識を意識するように他者の意識を意識はできません。これが当たり前のはずなのに、他の人々には受け入れがたいようです。認知科学でも明らかなはずなのに。私のことを独我論者とみなす人もいます。
私の意識と観念世界を実現している物質世界については、科学を学ぶことで知りました。物理化学的物質、生物の誕生と進化、社会の成立と歴史、人の意識と文化の発展といった物質世界につては科学をとおして知りました。
私にとって観念論と唯物論の関係ではなく、物質世界に観念世界を重ね合わせることが問題です。このトピックスの趣旨から外れてしまいますね!

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