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唯物論コミュの「哲学史」で唯物論が少数派なのは何故??

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ミレトス学派を起源とするのが一般的な「哲学史」ですが,それ以降の代表的な哲学の諸潮流を省みると,圧倒的に観念論や宗教的思考が支配的な事が見て取れます。これはどうしてでしょうか??各時代毎に,存在や自然が意識や神概念に先立つとする「唯物論」,あるいは潜在的な「唯物論」が認められるものの,代表的な哲学者の大半が「観念論」者であるのは何故でしょうか??唯物論を立場とする方に,また唯物論に関心を持つ方にお訊ねします。ご教示願えればと思います。また学ぶべき書籍等ご教示願えれば謝意重畳,よろしくお願いします。

コメント(8)

浅学ですが、私は哲学者としての毛沢東を尊敬しております。史的唯物論の信奉者であった毛沢東は共産主義革命を起こして、数少ない哲学の実践者であったと認識しています。
毛沢東語録の中で、階級闘争こそ必然の人的行為であると語っておりますが、キリスト教の教義と矛盾しますね。
その矛盾がある故、観念論で逃げている。
革命という既存の価値観の崩壊から巧に逃げたのではないかと勝手に解釈しております。
ご返答下さったのに,長いこと放置してしまいすいません。ペンギンさんのおっしゃる通り「支配的な思想とは支配階級のイデオロギーである」との史的唯物論の命題は基本的に正しいと思います。とは言っても,デカルトにしてもカントやヘーゲルにしても,フッサールやハイデガーにしても自覚的に時代の課題から「逃げた」のではないのでしょうし,存在論を独創的な仕方で論じていても,自己を唯物論者とは規定していませんね。むしろ当時の唯物論には批判的ですよね(そういうとマルクスも「唯物論」には批判的でしたが)。これはどうしてでしょうか??もう少しご教示いただければと思います。 
 元々マルクスが唯物論者だというのは、政治や文化などの上部構造が経済的な土台によって規定されていることを無視して、勝手に先鋭なイデオロギーを吹聴すれば世の中が変革できると思い上がっていた青年ヘーゲル派を、唯物史観の観点から批判したからです。

 マルクス自身は労働疎外を告発する際には、ヘーゲル的な自己疎外論を使っています。それに『資本論』は、経済学的な実証的な資料は一切用いないで、商品⇒貨幣⇒資本という資本の概念的展開の論理学です。きわめて観念論的方法を使用しているわけです。

 歴史や社会を分析する場合に、唯物論的な見方だけ、あるいは観念論的な見方だけでいいのではなく、どういう分野でどういう見方を用いるのが良いかを考えるべきです。マルクスを唯物論者としてだけ捉えるのではなく、マルクスはどういう場面で唯物論的に説明したのかという視点からマルクスを読み直してみるのも大切ではないでしょうか。

 拙著「哲学者マルクスの人間観」を是非ご一読ください。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/ningenron/tetsugakushamarx.htm
やすいさん,早速のご教示ありがとうございます。ご親切にも論文も示して下さり重ねてお礼申し上げます。早速精読させていただきます,私の理解力では何度も何度も考えないと歯が立たないかもしれませんが。

私は、「貫徹された自然主義は貫徹された人間主義であり、貫徹された人間主義は貫徹された自然主義である」と述べたマルクスは,「唯物論批判」を新しい唯物論の立場から遂行したのかと漠然と考えていました。
しかし,概念論的展開すなわち弁証法的運動性の理解がまだまだ浅い,というよりも安易である事も強く自覚しました。この問題についてはいずれ別項を立てたいと考えています。

「唯物論か観念論か」という問いを立てる時には,それを性急に実践に解消したり,その反対に無条件に絶対化したりしないように自省的な意識を心がけるようにします。

ありがとうございました,これからもご教示下さい。

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