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アムドコミュのアムド見所ガイド?:ラツェ交換とユラ・カルト(その2)

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 その1のつづきです。ここからは実際に山の儀礼を見に行くときの参考になるよう、具体的な実例を挙げておきたいと思います。 

 以下では、アムドの極東部の一角に位置する「ホァリ」と呼ばれる地域、中国の行政区分では天祝チベット族自治県に区分けされている地域で、毎年六月十五日(今年は7/28)に行われているラツェ交換のローカルな事例について紹介します。

 甘粛省の天祝チベット族自治県では、毎年旧暦六月十五日がラツェ交換の日になっています。シルクロードにまたがっているこの地域は漢民族との接触の最前線で、現在でこそ県内人口の三割弱しかチベット族はいませんが、ほんの百年前までは良質な牧草地が広がる牧畜民の天下でした。

 天祝のチベット族はアムドの中でも幾分浮いた存在らしく、「李さん」とか「馬さん」とかの漢字姓を持つ人が普通にいる上に、チベット語も満足にしゃべれず、民族服も着ず、清明節にお墓を拝んだりして、漢化の見本市のようになっている、と見なされがちなのですが、実際にはこの地域にはアムドの他の農業地域などに比べて古い文化がかなり濃厚に残っています。中でも天祝方言はアムド諸方言の中でもかなり古層の要素を残す言葉で、発音もゴロクとかの牧畜民としゃべっているのかと勘違いするほどクリアーで雅やかです。今でも県西部の山の上の方で牧畜を細々と続けている牧民に会いに行くと、そうした古い時代の牧畜系チベット語を耳にすることができます。

 このような古い時代の名残は、山の信仰にも残っています。天祝地域のチベット人「ホァリワ」は、古くから大通河という河川流域に分布して牧畜を営んできた部族集団です。青蔵高原の周縁部に古くから住んでいる多くのチベット系部族同様、このホァリワもまた、吐蕃の時代に辺境防備軍として派遣されてきた部隊の末裔であるという祖先伝承をもっています。そのころ、部族は13の氏族グループにわかれていて、それぞれの族長によって治められていたそうです。この13人の族長が死後、山に祭られてそれぞれの地域の守り神となったものが、現在「大通河十三峰」(ジェラク・トンボ・ジュスム)と呼ばれているセットになったユラたちです。

 ここでは、この13のユラの中から、大通河のほとり、青海省と甘粛省の境目に位置するチョルテンタン地区にそびえるアニ・ラプザンという山で行われるラツェ交換について見てみます。アニ・ラプザンを信奉しているのは、「トプツァン」という名前の氏族グループで、彼らはアニ・ラプザン周域に開けた峡谷のあちこちに集落を形成して半農半牧の生活を営んでいます。このトプツァンは内部でさらに8つの支族に分かれているとされ、年に一度のラツェ・トパの日には、普段甘粛省と青海省側にばらばらに分かれて暮らしているトプツァン氏族のひとたちが三々五々、各自のヤンダーを携えて山に登ってきます。

 3500m近い山頂には直系6mを超える巨大なラツェ(写真?)が置かれており、人々は山頂に到着するとまずヤンダーを傍らの地面に刺して並べ、サンとツァンパを取り出して、すでに先着の人たちによってもうもうと焚かれている焼香台の上にくべます。さらにお酒やビスケットなどのお菓子、あるいはミルクやバターなど畜産品を供物として火の上に投げ込みます。その際「サンゾォーサンゾー」というまじないを数回唱えます。もっと本格的な人は、酒ビンを片手に持って、その中にサンの細枝を浸して、時々その枝を中空に振り上げて酒のしずくをあたりに振りまきながら、「サンチョ」と呼ばれるユラの勧請のための経文を早口で唱え、自作の「トルマ」(ツァンパの生地を羊などの動物の形にこねあげた供物)をボンボンと火の中に投じいれます。

 それからみんな一斉に三回ずつ五体投地をして、地面に刺したヤンダーを抜き、今度はラツェの周りを酒やルンタを振りまきながらぐるぐる廻り始めます。「ハーギャロー!」(神に勝利を!)と叫んだり、「キーホホホホ!」という意味不明な奇声を発して何回かラツェのまわりをにぎやかに周回した後、おもむろにヤンダーをラツェの束を囲っている木組みの台座の中に投げ込みます。この地域のラツェ交換は、アムドの多くの地域で見られるような、一回ごとに古いヤンダーを取り除けて新しいものに取り替える方式ではなく、そのまま古いものの上に付け足していく方式です。ですからラツェは年々大きくなって行くことになります。どんどんと新しいヤンダーが放り込まれていって、一通り投げ入れてしまうと、ラツェのあちこちに吉祥のしるしであるカタクや赤い布、羊のウールの固まりなどを巻きつけます。ラツェが崩れかけているところには羊毛で編んだ粗い目のロープを巻いて補強します。このままどんどん大きくしていって、巨大になりすぎて崩壊してしまったら、また新しいラツェの台座を作って、またそこにつけ足していくことになるそうです。ラツェはあちこちを駆けずり回って人々の願いのために奉仕しているユラにお出でを願うときの宿り場になる大切な場所ですから、丹精込めて美しく飾り、めでたい様子に仕上げて喜んでもらわなければなりません。

 このようにしてラツェ・トパの化粧直しが終わると、今度は草原の思い思いの場所に散らばって、お酒を酌み交わしたり、羊肉のスープを飲んだりして、しばらく会わないでいた人たち同士で旧交を温めあいます。競馬レースに興じたり、踊りを踊って楽しむ人もいます。もともとこのラツェ近辺の草原を夏の放牧地としている近隣のひとたち(やはり同じ集落に属する人たちですが)は自分たちのテントを臨時の小売店にして、お茶やビールを販売したり、食事を提供したりします。付近にはいろいろといわれのある小さな聖地のような場所があって、そこにおまいりに行く人もいます。また、「ツェタル」と呼ばれる風習があって、山頂までつれてきた羊や牛などの家畜を、ラツェの前でアニ・ラプザンに捧げます。捧げるといっても生贄にして殺すのではなく、逆にその家畜の命を神様にゆだね、飼い主はこれを食用にせず、毛も刈らず、老衰して自然死するまで大切に面倒を見る、という誓いを立てます。つまり山の神様に対して「放生」をするのです。この際には畜群の中でも優れて健康で、毛並みが良い一頭を選び、耳たぶに穴を開けて布切れをつけるなど、他の一般家畜から聖別化するためのしるしをつけます。これは、家族の中に病人がいてその病気平癒を祈ったり、なにか個人的にかなえて欲しい特別な願い事があるときにそれを聞き届けてもらうために行います。動物供犠の代用供物である先のルンタやトルマと合わせて、「不殺生」のスタイルが行動の規範となっているわけです。これは、アニ・ラプザンが仏教の戒律に従って修行に励んでいる、半分出家したような身分の神様であると考えられているところから来ています。

 面白いのは、この地域には清朝末期からの回族反乱の影響で、多くの漢族やトゥー族が避難民として流れ込み、開墾者としてチベット族と混じって同じ集落の中で生活してきたため、ラツェ・トパにもこれらの人たちが混じって参加するということです。彼らの多くは、互助や楽都、さらに永登や古浪などの地域から入植してきた人たちです。当時のトプツァンの慣習法では、外から移住してきた人間は、必ずアニ・ラプザンに服従の誓いを立てなくてはならない、と定められていたそうです。そうでなければ定着することは許されなかったといいます。また、彼らは農耕に長けた入植者として山麓の平地を開墾し、居住区と放牧地との中間に耕作地を広げていくと共に、チベット族の生業である牧畜にも参画し、今でも山の上でたくさんの家畜を飼っています。山の神様の信仰は狩猟や牧畜などの生産活動を支える基層的な技術や感覚と密接に関わっていますから、もともとユラ・カルトのような民俗信仰をもたない漢族などの移住者も、周辺環境から多くの恩恵を受け、山のエネルギーに触れて暮らすうちに、ごく自然とユラを敬う作法が身についていったということでしょう。この次元では、民族の間に分け隔てはなく、生業の無事と繁栄、という観点からみながひとつの場所を宗教的に共有している状況が見渡せます。このような山の上での多民族共存状況は、ホァリのほかにも化隆や貴徳、夏河などのアムド辺縁地域で普遍的に見られる光景となっています。

 ラツェ・トパの儀式全体はこのあとも数日間にわたって続けられます。隠居した年寄りなど、特に用事のない人は一週間も続けて山の上でのんびり過ごすそうです。もっとも最近は、この地域にも近代化の波が急速に及んできており、町への出稼ぎや運転手などの副業にいそしむ人も多いため、特に若い人を中心に、ヤンダーだけをラツェに収め、人々との交流もそこそこに下山して都会に帰っていく参加者も多く見られます。彼らは普通の村人と違って、むしろ都会での自分の商売がうまくいくように、そのための縁起かつぎの一環として山に登ってくるように思えます。村人の生活が近代化の中で多様化していくと共に、神様に捧げられる祈りの内容もさまざまに分岐していくことは避けられない事態です。アムドの他の地域の事例として聞いた話ですが、最近ではラツェ・トパの際に、ユラに古いバイクや車の部品を備えたりする人がいるそうです。村人の願い事が多様化し、人の移動も激しく、広域化しているため、昔のように馬に乗っているのでは間に合わない、神様にも便利な近代科学の恩恵を享受してもらわなければ、というような考えの表れなのでしょうか。あるチベットの友人は、それならラツェに使わなくなった中古の携帯電話を供物として捧げればいい、そうすれば神様同士連絡が取れあって、助けの必要な人のところにスムーズに駆けつけてくれるだろうから、と冗談をいって笑っていましたが、あながちそのような感覚で供物を捧げる日も近いのかもしれません。

 考えてみれば、このラツェ・トパをはじめとする山の宗教儀式自体が復活してまだ20年ほどしかたっていません。文化大革命の時期には、村人の一部が率先してラツェを山から撤去し、ユラ・カルト自体を愚かしい迷信として排撃した経緯があります。改革開放後、ふたたび宗教信仰に一定の自由が与えられてから、ラツェを土台から新しく作り直し、そこにアニ・ラプザンを迎える儀礼を、村人総出で執り行ったということです。ラツェを土台から作り直す場合には、これまたたくさんの供物とさまざまな宗教的手続きが付随するのですが、これについて書くにはまたかなりの長い説明が必要になってくるので、また別の機会にゆずります。

 以上のように、ラツェ・トパは初夏の楽しいピクニック、といった雰囲気を横溢させつつ、生業活動の無事成功という祈願をこめて行われるものであることが見て取れると思います。六月は甘粛のはじっこから青海黄河源流域の奥の奥まで、あちこちでこの儀式が執り行われます。ゴロクやジェクンドにいっても、タイミングさえあればラツェをお色直ししている場面に出くわすことができます。本来競馬祭りの最初に行われるものですから、注意深く地元のひとたちの動きを見ていれば、これから彼らがひとところに集まって内輪で盛り上がろうとしている様子が察知できると思います。個人的には、郷単位以下の小さな集団で行われるラツェ・トパに参加すると、組織化された大規模なそれよりも小回りの効いた交流ができて楽しいと思います。現在あちこちでやっている競馬祭りに付随するラツェ・トパは、どうも政治的に組織されすぎているような気がして、かえって興ざめな部分が無きにしもあらずです。無論、政府主催の競馬祭りにはそれはそれで豪壮な魅力があることも事実ですが、ローカルな文脈でひっそりと営まれている小さな集まりに参加してみるのもなかなかオツなものです。持ち寄られるお酒や食べ物も、自家製のどぶろくやここだけの郷土料理、といった種類のものがあって、その素朴なおいしさに感動を味わえること確実です。

 とりあえず、山の上を見て、木のポールをたばねたような妙なオブジェがあったら、そこがチベット人が住んでいる土地、ということになります。アムドをあちこち旅していて、平地の都市から高地へ移動したりするときに、どのあたりからラツェが山の上に現れ始めるか、逆に平地に降りるときにどの地点から山の上にラツェが見あたらなくなってくるか、を観察していると、ただ単にバスにのって移動している時でも、車窓からみえる限りの景色の中に、モザイク状になって広がっている多民族状況の仮想地図を思い浮かべることができます。車がひた走る幹線道路からはるか見晴るかす谷向こうの村では、今まさに山の上の見晴らしのいい場所に以前のラツェを復活させようと、村人たちが神の山から切り出したご神木を削っている最中かもしれないし、あるいは逆に向こうの痩せ細ったハゲ山の上では、村人に見限られた非力なユラの古びたラツェが風に吹かれて朽ち果てていっている最中かもしれません。茫漠と連なる峰々の頂に結び合わされた民族間のダイナミズムと文化的興亡の「対局譜」、それがラツェという天地の狭間に置かれたモニュメントが全体として表象する意味であり、現在的な民族関係のひとつの構図なのです。





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