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ルイ・アルチュセールコミュの国家のイデオロギー装置

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アルチュセールについては、初期のヒューマニスティックなマルクスと、後期の科学的なマルクスの間に、認識論的切断があるんだという主張も気になりますが、もうひとつ、彼がその後行っていたオリジナルの思想、特に国家のイデオロギー装置という考えが気になります。
この国家のイデオロギー装置(AIE)の考え方は、フーコーの権力装置や、ドゥルーズ=ガタリの国家装置に考え方として似ていると思います。
そして、国家のイデオロギー装置(AIE)の考え方は、現代社会の分析に応用すれば、管理社会の欺瞞を暴くのに鋭利な刃物として機能させることができるのではないかと思います。
というのは、世の中が円滑に動いているのは、宗教とか公の美徳(国に殉ずるとか)といった美しい言葉によって、矛盾や無理が見えなくなっているわけで、それを国家のイデオロギー装置だよと指摘すれば、本当の問題点が見えてくるし、逃げではない抜本的な解決を考える第一歩になるからです。
国家のイデオロギー装置という考え方について、どう思われますでしょうか。

コメント(10)

邦訳出るんですか!ありがたい!

すんませんはじめまして。

フーコーの翻訳での「装置」は確かdispositionだったと思うのですけど、その点からすると両者にニュアンスの違いはあるんだろうとは思います。
ただ、いずれにせよ、漠然と「イデオロギー」(虚偽意識みたいな意味で)を語るのではなく、物質的に身体に働きかけてくる社会的な力、その形を、具体的にみていこうということだと、私は受け取っています。
そうですね。AIE論はリベラルな公/私の分離の欺瞞性を暴くという点でフーコーの先鞭をつけたんじゃないかと思ってます。
でも『国家」に収約されるイデオロギーなのかと疑問に思うところもあります。このグローバリゼーションといわれる時代にイデオロギーがあるとしたら、むしろ脱国家的な志向をもっているようにおもうのですが、、。(あるいはそれが国家イデオロギー装置の狡知なのかもしれません)
あと、主体形成の具体的な場面を描写しているところが、フーコーよりも応用性があるかもしれません。それも精神分析のパクリと言ってしまえばそれまでかもしれませんが。
できればフーコーに詳しい方にフォローしていただきたいところです。曖昧で申し訳ありません。

appareilについては、アルチュセールはこのように書いていますね。

「apparat[壮麗さ](あるものを、徹底して飾り立てて外面的に展開させること)に通ずるappareil[装置]は、辞書によれば、「一つの全体を形成し、同じ目的に向かって協働する諸要素の集合」を意味する」(「自らの限界にあるマルクス」in『哲学・政治著作集?』邦訳p.410)

アルチュセールのイデオロギー論が精神分析、というかラカンから来ているのは言うまでもないので、その元ネタに依拠するジジェクのアルチュセール批判は真っ当であり、同時に無意味でもあるように思ってしまいます。

アルチュセールは、『マルクスのために』『資本論を読む』以外では、厳密な議論を放棄してるように見えませんか?いや、全てではないですが。IAIE論文も、基本的なラインを示しているだけですよね。だからケチもつけやすい。バトラーの議論も、少し見た限りではおもしろそうだったし、ジジェクは言わずもがなですが、アルチュセールの議論があってこそでしょう。たたき台ですね。どうしても彼をひいきしてしまいますが。

IAIEのポイントは、イデオロギー的なものがあるとして、それがどのような場において、どんな手段で、どんなプロセスを経て作動するのかを分析しなければならない、ということを示していることだと思います。それが身体にかかわる力の問題だというところで、フーコーの議論にリンクするのではないかと。ジジェクはイデオロギーの様相について鮮やかに分析してくれますが、(受け売りですが)「装置」という問題についてはあまり手をつけていないような気がします。また、イデオロギー的なものが資本主義の再生産にどのようにかかわるのかというのも、もう一つの大きな問題ですね。だいぶ長文なので、ここらでいったん切り上げます。
すいません、どうやらdispositionではなくdispositifが正しいようです。いいかげんなことを書いてしまい申し訳ありません。言葉としては近いということでお許しを。(原文を確認したわけではないので,dispositionも用いているかもしれません。)

イデオロギーの作用がいかにひねくれたものかという話はジジェクの得意とするところですね。スターリニズムは,誰もそれを本気にしていないがゆえに機能する,というような。
フーコーの『監獄の誕生』でも,イデオロギーの話ではないですが,似たような話が読み取れたように思います。監獄は,犯罪の減少に役立たない。しかしその「失敗」が織り込まれた上で機能しているのではないか。それは「活用可能な非行者を生み出している」ーーこういうところで警察とアンダーグラウンドの世界との結びつきがつくられる?――,という話でしたが。

IAEA論文のポイントとしてもう一つ,「イデオロギー装置は階級闘争の場である」という指摘があると思います。階級闘争という言葉が古くさければ,コンフリクトと言ってもいいでしょう。アルチュセールの議論に対してはその決定論的な性格が批判されていますが,ここのところにどれくらい重きをおくかということであるような気がします。重層的決定ということを言っているのだから,決定論であるはずがないんですが。
イデオロギーというもの自体にも異なる水準が孕まれており,また常に複数のイデオロギーが併存しており,それらの間の関係も、調和的であったり敵対的であったりと様々ではないかと思います。柏崎商店さんが触れられているウィリスの分析についても,学校におけるコンフリクトがイギリスにおいてどんな帰結をもたらしているのか,という問題として受けとれるのではないでしょうか。いや,まだ読んでないんですけど。
>交換日記

むー(笑)
他の皆さんにも書き込んでいただけたらいいんですが。

だいぶ話は変わるかもしれませんが,イデオロギーは,必然的なものですよね。空気みたいなものというか,それがないと生きてはいけない。「イデオロギーは永遠である」とも言われている。

認識にとってはイデオロギーは障害であり,絶えざるイデオロギーからの切断によってしか「科学」(アルチュセール的意味で)は可能ではない。
一方で,実践についてはイデオロギーは大きな役割を果たすのだろうと思います。というか,不可避なんだから当然ですね。IAEA論文でそういう話はあまり出ませんが。

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