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真宗大谷派コミュのこんなこと聞いてもいいですか?(気軽にどうぞ)

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はじめまして、go.と申します。

散発的にちょっとしたネタのQ&Aがトピ立てされるのはどうかなぁ?と思って
こんなタイトルでトピック立ててみました。

コミュニティ内のやりとりが見える&コメント数が増えるのでは、と思っております。

なにか、きっかけになると幸いです。
(管理人さま、気に召されなければ削除くださいませ)

go.

コメント(47)

Res.くださった皆様、
多くを即時にいただけたこと、びっくりしておりますと
ともに、有り難く頂くしだいです。

>真 さん、

>私は aの生き方もbの生き方もいいと思います。社会の中で真面目に働くこと そして 仕事がすめば
>ゆっくり体を休める。これらは社会に生きる人間として 大切なことだと思います。
これは、本人の「真面目に働こう」という意思のもとであれば、結果(周囲からの見え方)が
a/bいずれでもよい、という解釈でよいでしょうか?
(本人も受け止めている必要がありますが)
>私は 社会の中の一員として 自分の役割を真面目に果たさなければいけたい と同時に 私も人間
>本当にいくら善人のようにしても真実な清浄な行いなどはできない。何か雑毒なものが混じっている。
>しかし そう自己を否定されつつも自分の勤めをしなければいけない。
ここは抑もの自分の解釈と共通するところです。
真さん記述の「勤めをしなければいけない」という強いメッセージに照らしたときに
b)の「のほほん派」の他から見たときのGapをどう捉えるのか、
「他からの評価云々はどうあれ、自らの意思にしたがって真面目に働いた」
その一瞬を認めればよい、と感じ始めております。

>蒼・ω・人 さん、
歎異抄については、まだ訳文を1度読んだ程度です。
さらに読み返してみます。

>次郎 さん、
>「行為」には「善行」もあれば「悪行」もあり、
>「よい行い」をすれば「よい結果」があり
>「悪い行い」をすれば「悪い結果」を蒙ります。
ここの部分、
「善い」「悪い」について、特に世間の付き合い上
「善かれとおもってしたことが、相手から悪く解釈される(相手の気を害してしまう)」
ケースもあり、この場合(善かれと導かれた)自らが前提であれば
「善行」でございましょうか?
それとも、相手の害された気持ちを考えれば「悪行」でございましょうか?
ここに非常に迷うところがありまして
「業」=「悪」と定義しているのですが、それは早計すぎますか?

>成果の為に、日々【殺生】という業(行為)を積み重ねる極悪人です。
この記述の「成果の為に」に惹かれてしまいました。
b)のケースを考えたときに、仕事はこなしているものの、それ以上を
していないのは「成果はある」、の、かな?
真さんの返信にも書いてますが、b)であっても
「自らの取り組みに対する真面目さ」
さえあれば成果あり、と捉えるのかな??

>Bee-chan さん、
>それは、答える者のその時の心根次第でもあると思うのです。
>赤であろうが青であろうが、それさえも私に取って本来は関係の無いことなのだと思います。
>その極端を選択しないよう教え導いて下さり、両の極の外にはみ出さないようにお護り下さって居るの
>が(表現ベタでスミマセン)佛様なのでしょう。
私の「ステレオタイプ的な」質問の仕方が問題外、ということですね。
>法とは佛であります。
>自分如きの凡夫の尺度で測ったところで、答えは出るはずもありません。
答えはない、と。
ただ、
>其の佛が寄り添って下さるのですから、より良い方法は百者百様、千差万別ではないでしょうか?
仏様が寄り添ってくださるからこそ、導かれるままに進めば(真面目に考えれば)、その時々の
より善い方法が出てくる、という理解をすればよいのでしょうか?

いただいたRes.を読み返しながら、なんだかa)b)のケースを提示している自らそのものが
誤りだったのかもしれないと思い始めておりますが、

自らに気づかせるべく、もう少しお付き合いいただければ幸いでございます。

go.
今日自坊にて、虫供養がありました。昨日に続き2日間を毎年しています。年々お参りされる方が減り、今日のお参り(ご懇親を持ってみえる方)の数が、8名でした。虫供養って、必要な法要だと思われますか?自坊では住職とおくりとの意見が分かれています。私は在家出身で、何が正しいのかわかりません。
>真さん
うちは岐阜県の浄土真宗大谷派です。
昔、養蚕が盛んだった頃に始まったと聞いています。
今は虫を殺すこと、殺生のための法要だという風に聞きました。
が、門徒さんの新しい世代には、「虫供養」そのものが伝わっていないようで、年々減少している参拝の数、住職は2日間昼からをやめて1日だけにしたいように言ってました。

お参りが少ないとご法話に来ていただくお説教者の方にも申し訳ないようなことのようです。
喜んでご法話を聞きに来てくださる門徒さんのことを考えますと、2日から1日に変えるのも可哀想です。

ほかの寺院では、虫供養はされていないのでしょうか?
> 雪見月さん
私は真宗大谷派のお寺ですが、虫供養はしておりません。そちらさんは養蚕をされていたという土地柄の歴史的なものなのではないでしょうか?その歴史的なものを現代に捉え直して、殺生せずには生きられない我が身に気付かせてもらい、だからこそ、生きとし生けるものが共にありたいと願う法要として、ご案内されてはいかがでしょうか?私ならそんなふうに思います。
自坊では全戦没者追弔会を、全ての戦争でなくなられた方の声なき声に耳を傾け、その願いにどう応えていくのかを問う集いとして、お勤めしています。
>雪見月さん

はじめまして。 私は寺族ではありませんので、お寺での法要の内容は存じ上げませんが、お聞きするに雪見月さんのところであげられます「虫供養」は、養蚕業の盛んなお土地柄から起こった法要のように思います。
「虫供養」の供養という言葉も、言葉だけが残り心持ちまで追善に傾いてはいないと感じます。
何分にも、人間の都合によりまして命を失う蚕達です。 そのものに感謝の気持ちを込めて行われた法要ではないでしょうか?
多分、当流の教えですので追善供養などの要素は入っていないと思います。
また、入っていたとしても、それはそれで良いのだと思います。
「こうでなければならない。」と云う感じではないと思いますので!

他の者の命を取らなくては生きては行けないのが、自分達人間の姿なのでしょう。
本来佛教は、命の大小に関わらず他の命を奪うのは破戒であります。
それを根本から破っているのが私達。 助かる謂れなど、微塵もないのです。
以上の様な事を知らされながら、そんな中で色々な事に気付かされる法要でしたら、充分に有意義な内容かと思います。
「その破戒しかしない者目当の当流の教えですよ。」というのをお伝え下されば良いのではないかと思います。

>お参りが少ないとご法話に来ていただくお説教者の方にも申し訳ないようなことのようです。
喜んでご法話を聞きに来てくださる門徒さんのことを考えますと、2日から1日に変えるのも可哀想です。

とのことでありますが、その部分はご住職の裁量であると考えます。
ただ、御聴聞の方が少人数であっても、法を伝えていくのが僧の役目だと思いますし、説教下さる方もそういった心構えで出向かれると思います。
法を請われる方が居れば、何処にでも出向いて行って、それが例え一人であってもお話をされる。
聖人も、お釈迦さまもそうされたと思います。
ましてや、「時代が進むと法に耳を傾けなくなる。」という経の内容が証明されたようなもの。
それを知らされただけでも、この法に巡り遇えた所詮があるというもの。 喜ばしいことです。

上記は理想論です。 現実はそう簡単には行きませんが、折角の特殊な法要ですから活かして頂きたく思います。
生意気なことを申しました。  合掌
築波華雄(かをす)さん
宗旨は浄土真宗で宗派は真宗大谷派だと聞いています。ただこれは国に登録された宗派名です。お西が先に浄土真宗本願寺派と届けたので、こちらは、真宗大谷派になったとか聞いています。
親鸞聖人が浄土真宗とおっしゃったことを重んじておられるんだと思います。それはわかります。では、浄土真宗 真宗大谷派と書かれてはどうでしょうか?
はじめまして。
あたしの父の実家が真宗大谷派の寺です。
石川県の田舎の寺です。
がしかし父親は次男なので家を出て東本願寺で働いています。

ふと気になったのですが、真宗大谷派と名乗っている寺は、どーいった経緯でそうできたのでしょうか?血縁とか師弟の関係でなのでしょうか?

> Takakoさん
経緯は様々だと思います。血縁も師弟関係もあるし、開教された方もあると思います。他の宗派、宗旨から転派されたり、村、町の説教所から寺院ってのも聞いたことあります。
阿弥陀さまに『お任せする』のと『依存』とはどう違うのでしょうか
弥陀にお任せするのは「救われるか否か」です。
弥陀の本願を信じて念仏申すわけですが、結局のところ
救われるかどうかの結果は私にはわからない。
わからないことは弥陀にお任せするということです。

これを敷衍しますと、
生活の折々に自分のできることは自分で淡々とこなし、
「結果」にあれこれ悩まず、お任せする。
すると余計な気苦労や力が入らず無心にやるべきことを自然できる

依存は本来の自分のすべきことがおろそかになる
という問題なのではないでしょうか。
弥陀にお任せするとして、本来の活動がおろそかになれば
それもまた依存でしょう。
私のモットーは「どうせ、いつかは、死ぬんだ、モンキー野郎ども!、だからせめて俺達は明るく楽しく愉快に生きていこうぜ!」という、「ふざけた」ものなのですが、これは浄土真宗の教えに反するものでしょうか? よろしくご指導ください。

余談ですが、同じ質問を「本願寺派」のコミュで尋ねたら、問答無用で記事を削除された上、強制退去させられました。間違いであるならば、正しい道へ導いてくださるものと期待していたのですが・・・ やはり私の業が深いせいでしょうか?
>24
はじめまして こんにちわ

浄土真宗の教えは、ただひとつです。
「お念仏しましょう」
これだけです。

「どうせ、いつかは、死ぬんだ、モンキー野郎ども!」は
この世の無常の様を見据えた仏教の理に通ずる視点です。

ある人の中で
「明るく楽しく愉快に生きていこうぜ」と
「お念仏申す」が両立するのであれば、
浄土真宗の教えに反しないと思います。

本願寺派は真面目な方々が多いので
イレギュラーな質問は大谷派向きかもです。
>HALさん

あえて言いますと、教えに反するとかではないと思います


具体的に申しますと、我々は明るく楽しく愉快に生きていけるかということだと思います
今はできていても今後それが永遠にできるのか?
続けていけるのか?

できないのが我々であり、多くの悩みを抱えそれに苦しむのが普通です
それではダメだったと思ったときに教えというものと出会うと思っております


明るく楽しく愉快に生きている人にとって教えは必要とされないでしょう
あえて言葉を使うなら「自力」の人です
もしくは本当に悟った人なのかもしれません。

明るく楽しく愉快に生きていこうというのは特別な願いではなく、誰もが潜在的に願ってることであると思います。
それができる方は稀であり、できない方が大多数です。
できないということから教えが見えてくるのではないでしょうか?

教えに出会い、どんなことがあっても楽しく愉快に生きていける力を頂くこと
これが願いではないかと思っております


ちなみにわたしは決して「ふざけた」モットーであるとは感じません





25 2012年05月13日 23:40
真〔まこと〕さん

26 2012年05月14日 15:22
次郎さん

凡夫のたわけた問にも怒らずに念仏者として応えてくださり、ありがとうございます。
業のゆえにふざけたモットーを持つことに甘んぜず、誓願信じて念仏申せよとの御言葉
を頼りに生きていきたいと思います。己の悪も省みないのは良くないとは思いつつも
本願寺派の学識高き人々の冷淡さには人の悲しみを感じます。

重ねてお礼申し上げます。
はじめまして、チビモンキーと申します。どこでお尋ねして良いのかわからずここでお尋ねすることにしました。もし場違いでしたら削除してください。
私は五年前に在家から大谷派の寺に嫁ぎました。恥ずかしながら結婚する前も今も真宗の事は何も分からず、仕事を理由に触れようともしなかった私ですが、これでは…と思い職を離れたのを機に少し触れてみようと思います。そこで、私は母校を訪ね、仏教の勉強会が月1あることを知り通おうと思います!そこで、悩んでいるのが…学ぶ内容について…本当に何もわからないので…基礎講座からと思い、1つは「浄土」「慈悲」などの意味、教えを聞く講座でこれ位は知っておかないと思い、受ける予定ですが、これからの2つを悩んでいます。1つが正信偈、もう1つは歎異抄です。正信偈は身近に感じていて入りやすいと思っていましたが主人の友人から歎異抄が良いんじゃないかと教えてもらい…揺らいでいます。皆様はどう思われますか?よろしくお願いします。
真〔まこと〕さん
ありがとうございます。参考になりました。コンパクトにまとめてあるんですね…初めて知りました…そう聞いたらワクワクしてきました!ありがとうございました。
ヤーさん
ありがとうございます。
仏教って奥が深いとよく耳にします。どれだけ勉強しても答えがなくいろんな人と出会うとまた新しい発見に繋がると言うように、ヤーさんみたいに思ったことを素直に言ってみるのも良いですね!!わからなかったりしたら講義の後とかにも聞いてみよう!ありがとうございました。
> 20 チビモンキーさん

go.と申します。よろしくお願いします。
特に大谷派の寺の者でなく、在家の同朋として
週1回、近隣のおあさじに勤めておリます。

>正信偈は身近に感じていて入りやすいと思っていましたが
>主人の友人から歎異抄が良いんじゃないかと教えてもらい…揺らいで
チビモンキーさんのお立場をあまり識らずに申しますが、
(1)在家の同朋の方々とお話するために学ばれようとしているのであれば
おあさじに照らして...
「正信偈」
「回向」
「御文」
かなと思います。

a)正信偈は、最初から中身を知らなくても
  「まずはリズムに合わせて唄うのだ(中2時代の私はそう感じた)」
  からカラオケ感覚でアプローチできますし、
  「書いて学ぶ親鸞のことば(正信偈)」(東本願寺出版部)
  など、平易な訳のついた書籍もございます。値段も600円と手頃。
b)「御文」
  についても、正信偈よりももっと文章(古文ですが)になっており、
  またこちらも現代語訳がついた書籍が多数ございます。
  私が読んだ本ですが
  「蓮如五帖御文 (現代の聖典)」(法蔵館)
  は読み易かったと認識しております。

(2)真宗の教義を究める方向であれば...
「歎異抄」「教行信証」ですすめるものかと思います。
 ただ、自分は、これらに対し少し難しいかな?と捉えております。
 またチビモンキーさんのご主人様が、おそらく大谷のご住職orお坊さんで
 いらっしゃることでしょうから、メディアに頼らずとも、
 ご家庭での普段の会話の中からも鍛えていただけるのではないかな?
 と思っております。
 
いずれにせよ、「どれが最適」とはいえません、
まずは自らとっついてみる(手を出してみる)のが大事ではございませんか?

go.

go.さん
はじめまして。よろしくお願いします。的確により親切な助言をありがとうございました。在家の方なのに詳しいですね。出版の方も調べてみたいと思います。ありがとうございます。日常の生活の中から鍛える事が良いのかもしれませんが主人と義両親の会話を聞いていると全く分からないことだらけで自分の中に入ってきません…主人との会話だったら納得いくまで聞けるので良いんですけどね…なので、小さな一歩を踏み出してみようと思っております。参考になるご助言をありがとうございました。
>29
はじめまして。よろしくです。

もし九州大谷の公開講座だと昔受講したことがございます。
講座名、講師は別です。

HP検索しますと、今年の『正信偈』講座担当は古田先生です。
中国仏教学がご専門で、愉快な先生ですので楽しい講義となるでしょう。
ちなみに先生は元在家の方で九州に来られてから得度されました。

『歎異抄』担当の三明(みはる)先生は、一旦関東で量深学場を主宰され
九州にこられたようです。
曽我量深を慕う九州のお寺は多いのと法蔵館から『歎異抄講義』上下巻を
出版されておられますので三明(みはる)先生の講義もわかりやすい上に
中味も濃くお勧めです。

うーむ…。甲乙つけ難いです。
両方はダメ? 古田先生の方がお年寄りなので(笑)
今年、古田先生。来年、三明(みはる)先生とか(笑)
次郎さん
はじめまして。よろしくお願いします。
よく分かられましたね。九短だと…ビックリしました。
次郎さんも昔、受けたことあられるんですか?しかも古田先生と三明先生のことをよくご存じで…
お二人とも皆さんの評価が高く意見が割れるんですよね…私が欲張りすぎなんでしょうか…ただ、三明先生の歎異抄が今年八年目なので第八段からとなっているようでずいぶん進んではいるようです。途中から入っても大丈夫かな?という迷いもありまして…(・・;)そうですね〜次郎さんがおっしゃるように今年古田先生、来年三明先生という手段もありますね。考えてみます。ありがとうございます。
下世話な話で申し訳ありませんが、「真宗は、特に大谷派は、他の宗旨より良心的だ」と言われていますが、どうなんでしょうか?がま口財布
真宗大谷派の門徒です。
我が家の仏壇にお参りくださってるお寺があり、どの寺からしたら、わたしは門徒と呼んでよいのですか?また、我が家にきていただいてるお寺の事はなんというのでしょうか?
担当寺でもなく、檀家寺でもないとおもうのですが。。。
教えていただければ、幸いです。
>>[40] こんばんは、香を供えるやり方にニ通りあります。一つは焼香、炭を熾して沈香などを焚きます。もう一つは燃香と言って、抹香や、十種香などの粉末を長時間燃えるように、らせん状やジグザクなどの形に整え、これの一端に火を付け徐々に燃えるようにします。この燃香をやり易く、また燃える時間を把握できるように、棒状にしたのが線香です。ですから、いつから、と言われると、線香ができる前から、というのが正解でしょう。
関東だけでなく、どこの地域でも、大谷派でも、本願寺派でも、寝かせるのが正式です。
上の理由から、線香を焚いてその上に焼香するのは正式な作法ではありません。
>>[42] こんばんは、なんでも、どうなんだろうと思うのがご縁ですね。なまんだぶなまんだぶ。
>>[044]

縁は因果、、、どういう脈絡でそういう言葉をお聞きになったかはわかりません。今書き込む時間がないので後ほど
>>[44] 、その言葉を、どういう脈絡でお聞きになったかわかりませんが、それだけでは不十分です。因は、原因、果は結果のことですが、それだけでは物事は成立しません。同じものを見ても、人それぞれ感じ方は違いますし、同じ人が、再び見た時も違って見えることもあります。お腹が空いていたり、急いでいたり、誰かと一緒だったり、眠かったり、同じ因も、同じ結果にならない。そうさせる物や事を縁と言います。
そして、ある人が亡くなったときに、どんな病気で亡くなったとか、事故や災害を、一般的には「死因」と言いますが、仏教ではそうは言いません。「死」の原因は「生まれてきた」ことです。病気や事故や災害は「縁」だというのです。
43の発言は、al-tarfさんの疑問が、私と出会わせていただいた縁であり、仏教に興味を持ってもらう縁になった、と喜んでいる、という書き込みでした。

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