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東洋医学で人を診るコミュの伴先生と一緒に! 東洋医学で人を診る

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東洋医学で人を診よう!


 Facebookに引っ越しました。http://www.facebook.com/1gen.jp?ref=hl です。
 よろしくお願いします。


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東洋医学で人を診る、さまざまな事柄を伴先生のお話中心で
進めていくトピックスです。

ガイド役のはつきが、伴先生が書かれたものを少しづつアップ
させていただきたいと思っています。

質問など、お待ちしております(*^^*)

コメント(52)

「三つの清浄」のあたりに書かれていることです。
まぁ、この姿勢が全編に流れているということが
『鍼道秘訣集』の特徴であるわけですけれども・・・
先生 お返事ありがとうございます。

鍼道秘訣集の特徴ですか・・・・。
私には、まだ鍼道秘訣集がそういう姿勢で全編が貫かれているという
ことがわかりません。

三つの清浄だけが突出している感じがしちゃうのです。

もう一度鍼道秘訣集を読み直して見ますので、
そのあと再度質問させてください。

鍼道秘訣集を読んでいますが、修行の足りない私には
どうもこのおっちゃん(って、鍼道秘訣集の作者はおっちゃんだと
決め付けているのです(^^ゞ)の勢いある主張ばかり
目に留まって、三つの済ましが不思議な感じなのです。
これはもう少し時間をおいて読んでみたほうがいいのかなと思うので、
この問題はペンディングにさせていただいて、次にいきます(^_^)
◇観るということ


私のパソコンの壁紙には少し前まで銀河系群が貼ってありました。そして、それが地球に変化し、今は馬込のお寺に鎮座しているお地蔵さんになっています。

宇宙。限りなく美しく悽壮な宇宙。それを観るとき、私は時空を超え、生命原理を超えて飛翔していきます。人の意識は、日常のすべての問題を飛び越えてこのような宇宙の生成にまで伸びていくことができます。

そして宇宙船から見た地球の映像は、それはそれは美しく、生命の溢れかえるこの惑星を見せてくれます。なにものにも換えがたいこの地球。その美しい星の上に、無数の生命が繁茂し、与えあい、死と誕生とを繰り返してきました。何億年もくり返されてきたこの生命活動の、なんという美しさでしょう。なんという激しさでしょう。なんという残酷さでしょう。そしてなんという喜びでしょうか。生命がここにあることの奇跡!これはまさになにものにも換えがたいものです。まさに神がこれを望んだのであるとしか言いようのないような奇跡が今この地球上に現れているのです。

大宇宙の中に銀河系群があり、銀河系群の中に、この太陽系を宿した銀河系があり、その中に指先で押しつぶされそうな太陽系が育まれ、太陽を周る軌道上の闇の中ににぽっかりと浮かんでいる芥子粒のような地球がある。そこに宿されている生命!これこそが無限の時間を経てようやく誕生した奇跡と呼んでもいいでしょう。生命の奇跡、神秘が今ここにあるわけです。

その地球上で生命を分かち合いながら動物と植物とが何億年も葛藤してきました。せめぎあう生命、それは別の角度からいえば、生命を与え合う関係でもありました。自らのもっとも喜びとするもの、喜びの源泉である生命を分かち、与えることによって今、生を続けている生命があります。今ここに生かされてある奇跡を、私はなんと表現すればよいでしょう!この生命の中には、数多くの分かち与えられた生命が宿り、一つになって生命活動を行っています。今、ここに生きている私は、まさにその無限の時間と無限の生命を宿した統一体です。

この統一体こそが、気一元の生命と呼ばれるゆえんです。

鍼灸師は、その一つの生命に対して、さらにその生命の中のツボの一点に向かって処置を施していきます。一点を探るわけですから、観方は非常に詳細になります。鍼灸師の勉強会で望まれることの多くが、この症状を取るにはどこに処置すればいいのか、経穴名を教えてほしいという質問であるということも、むべなるかなと言わなければなりません。

しかし、病むということ、症状を呈するということはどのようなことなのでしょうか。この生命の奇跡の中に生き生かされている一人の人が癒されるということはどのようなことなのでしょうか。


それはともかく、ここまでの話しの中で、視座の変化が見て取れたのではないかと思います。大宇宙から人という微小宇宙まで、何段階にも別れています。何を観ようとしているのかという観点(視座と観る対象の設定)、がいかに大切であるということは、ここからすぐに理解できることと思います。

大宇宙を思うとき、人の生死などというものは顧慮することもできないほど微小さなものです。いわんや病気など、生きているという厳然たるこの事実に比較すれば、埃のようなものです。

医療というものはこの埃を掃う技術のことをいいます。そして、少なくとも一元流鍼灸術は、生命の側に立って、生命力を活性化させることによってこの埃を自らの生命力で掃えるようになることを目指しています。

◇人間理解としての気一元の観点


一元流鍼灸術というのは、気一元の観点に立って人間を観、治療していくということを基本姿勢としています。

この「観点に立つ」ということはどのような意味か、ここが意外と問題になるようですので説明しておきます。

一元流鍼灸術というのは、東洋医学の観点に立った治療技術です。その基本は人間理解にあります。この際、気一元の観点に立つということはどういう意味かというと、生きて動いている生命そのものの観点に立って観るということを意味しています。

患者さんは治療院に来院される際、多くの場合、病気や苦痛を訴えています。治療院に対して求めるものがそれに対する解決なのですね。その訴えをそのまま聞いていると、病気の側に立ち病気に対決する治療姿勢が出てくることとなります。病気の原因を探求しそれがその人の心身の中でどのような位置づけがあるのか。これを解決するにはどうすればよいのか。これを悪化させるにはどうすればよいのか。というような東洋医学的な観点、全人的な人間理解の観点はここからは出てこなくなってしまいます。

このことを戒めるために、気一元の観点という言葉がひとつおかれているということを押さえておいていただきたいと思います。

伴先生 こんにちは

東洋医学の範疇で語っている治療の説明などを読むと、
「全体観」とか、「人体は小宇宙」とか、「全体のバランスをとる」などの
観点から説明がなされていることが多いですね。

でも、結局、持ち込まれた主訴に引きずられ、注目するところが、患者さんの訴えるものになってしまうことはよくあることですし、私も注意しなければと
自らに戒めているところです。

私はこれらのことは、結局、治療そのものではなければ、言葉で語られるのではなく、その観点を明示したもので語られるしかないと思っています。
私はそれを、弁証論治を書き上げるということで自らに課していますが、なかなかそういった観点で挑戦なさる方は少ないようですねえ。もっと観念的な言葉で語らずに、症例で気一元の観点、小宇宙の観点で語れるかということをやっていきたいと思うのです。

私自身、書くたびに、ひーひーと泣き言をいうことも多いのですが、苦労して生み出すと、ひとつひとつ自分の視界が開けてくる気がするのです。

◇気一元の観点が基準点


人の生命というものは、部品の組み合わせではありません。腎臓だけを取り上げても、それを人の生命とは言えません。肺だけを取り上げても、それを人の生命とは言えません。いわんや血管や眼球や歯だけで人が生きているわけではありません。内臓とそれを盛り立てる皮肉筋骨がそろって初めてこの生がありうるわけです。

気一元の観点というのは、この丸ごと一つの生きている生命を理解しようとする観点です。それよりも微細ではなく、それより大きくもありません。


学ぶというとき、初発の意思は生命そのものへの疑問あるいは興味というところにあるでしょう。しかし、学ぶことが深まっていくとき、ある陥弊にはまることになります。

東洋医学には汗牛充棟と呼ばれるほど多くの著作があります。そして、言葉を知る民族の癖として、多くの言葉が並べられていることに価値を見い出すというところがあります。そのため、上に述べた気一元の観点を離れて、言葉に言葉が重ねられてさらに無数の書物がものされることとなりました。学ぶ際に迷うことは、どの言葉を取りどの言葉を捨てるのか。どれが無駄な論であり、どれが貴重な論であるのかを判断する基準がないというところにあります。

一元流鍼灸術は、気一元の観点から観て取捨選択するのであるということを主張しています。その方法論と学ぶべき基礎の概略をまとめたものが「一元流鍼灸術の門」です。賢ければ賢いほど、学べば学ぶほど東洋医学は深く広い情報を提供してくれます。けれどもそれにつれて迷妄もまた深くなっていきます。言葉の端々にとらわれて全体の論を忘れたりもします。そのような時に再度再度「気一元の観点」に舞い戻り、何を観ようとしているのか、どこから見ることへの好奇心が始まったのかということを確認していただきたいと思います。

.◇気一元の観点とは何か


言葉で「気一元の観点」という文字を理解することは簡単なことですけれども、それでは実際にその観点ですべてを統一的に把握するように自身がその観方を研ぎ澄ましていくことは、非常に難しいことです。

この難しさの原因のひとつには、「一」として括ることのできる「場」をどのように設定するのか、それがそもそも難しいということがあります。この裏には、「一」として括り観る対象の不完全さをどこまで見切れるのか。概念そのもの哲学そのものが流動的な現代において、その理解が無前提で行われなければならないということがあります。

古代であれば、天地一体その間(あわひ)に棲む動植物とその代表としての人間ということで天下を一体として理解することが可能でした。その大いなる一を、一人一人の人間そのものが体現しているとして、小さな一すなわち「人身一小天地の論」が生まれることとなりました。

天地に比して圧倒的に未熟な未完成な不完全な人間。その不完全な中に天地が存するという概念は、今も私を魅了しています。人間に比して動物や植物は偏頗なものと呼ばれました。小宇宙たる一角を占めてはいるけれども、人身におけるような完全さを持たず偏った位置での濃度を表現していると考えられたためです。

しかし、生命機能を持つという観点からみるならば、動物や植物などもそのそれぞれの個体において一を体現していると考えられます。大切なことはそのバランスがどこで不足しどこで過剰になっているのかということを理解しておくことが必要です。


いや〜

漢字が読めませんでした(^^ゞ

偏頗 へんぱって読むんですね。
考え方や立場などが一方にかたよっていることとヤフーの辞書にはありました、
また不公平なこと。また、そのさまと。

知らない言葉がいっぱいでつ。
◇気一元の観点で把えた四診


さて、小天地として一括りとして観る位置を与えられている人間の中には、更に小さな小天地が存在しています。これが診断点です。一小天地である人身の、さらなる集約場所。それには、顔面・舌・腹・脉・手のひら・足の裏・耳・目・背部などがあります。このさらなる一小部分がそれぞれの特性に応じて一括りの生命の表れと認識されたものが診断点です。これらは、天地に対する小天地としての人間のように、いちおうバランスよく気一元の生命が表現されている部位とされています。

これに対して原穴診などは、全身に充満している三焦の気=先天の腎気の現れである腎陽が発条したものが、十二経脉を通じて発現しているものです。ということは、原穴診はすべて併せて小天地のバランスのよい表現であると考えることができます。

考えてみると、人身は一小天地なわけですから、人身そのもの全体を一気に観ずるということが最もリアリティーのある具体的な診断方法です。これがより細かい部位にその全身が集約されていると観るということは、冗漫でかつ曖昧なものとなります。このような診難いものがわざわざ提示されている理由は、人間がその感性において偏跛で、目で観たり皮膚に直接手で触れることの方が、より詳細な理解を進めやすいためです。

これがより言語表現に依拠したものとして表されるものが問診です。問診においては時間の流れの中へと人間理解の可能性が広がっていきます。人という生命は空間の中に突然出現してひとり佇立しているものではなく、さまざまな関係性の中で生かされて今存在しているものです。そのことへの理解が問診によって一つ広まります。また、その人間の生命の流れがどのように時間的に流れてきたのかを見て取ることも問診によってできるようになります。あるいは、飲食労倦の状況についての情報を得ることもできます。

このようにして、時間と空間を獲得している人間の状況をありのままに把握していこうとする行為が、四診と呼ばれる東洋医学独自の診察法となります。そこにいる人間そのものをどうすれば理解できるか、それへのひとつの回答がここにあるわけです。人間を一として把握しようとするとき、この時空という宇宙を生きる人の有様そのものを「一」として観てそれを把える。これが東洋医学を行ずる者の人間理解の方法となるわけです。

天地から人身へ、人身から診断部位へと「一」の観点が変化することによって、情報は詳細になるとともに曖昧になり、まとめやすくなるとともに不完全になっていくということが理解されなければなりません。リアリティのある場所から抽象的な場所へと一段下るところに混沌から離脱する鍵があるということは非常に不可解で興味深いところです。

これは、見えにくいものは抽象化しやすく、見えやすいものは具体的な現象に流されやすいということを意味するものです。人生において翻弄されているとき、大きな流れが見えなくなり目の前の混乱した渦巻きに心を奪われ、ますます迷いの淀みに入っていくようなものです。


気一元の観点とは、このような迷いの中にあって、抽象化する際のよりどころ、バランスが取れた思考をしているか否かという判断をするための明澄な鏡であり、確かな杖となるものです。

この杖にしっかりつかまっていると、より微細なもの〔注:経穴など〕の評価においてもそれを全体の中に位置づけながら、その一点を気一元の観点でさらに分析しなおし、評価していくことができるようになります。

「一」と一言でいいますけれどもこのように、空間的にも時間的にも非常に多くの段階においてそれを把えることができるということ、その観点から多元的に観ることによって、多くの視点を獲得することができ、存在そのもののより正確な理解へと進むことができるということが理解されたことでしょう。

.◇ちょっとぴんぼけ


西洋医学では患者さんの身体について理解する方法論としてさまざまな検査方法が用意されています。

それに対して、東洋医学では四診〔注:望診・眺める:聞診・声を聞く匂いを嗅ぐ:問診・状態を聞く:切診・直接触れて観察する〕という方法を用います。

西洋医学が実験室的であるのに対して、東洋医学は生きてそこに存在する患者さんをありのままに把えようとするところに特徴があります。

西洋医学は数値として検査結果が明確に出るのに対して、東洋医学の四診は、その判定があいまいな個人技の範疇に停まってきました。

その理由は、東洋医学の四診が個人の技量に任されている面が強いため、その力量によって判定が左右されやすいということ、これまで一元の気の中でそれぞれの四診を位置づけて考える方法が明確に提示されてこなかったため、脉診や望診などの得意技だけで診断を決定してしまうことが多かったことがあげられます。


一元流鍼灸術は、古典に基づいて四診を行います。患者さんの現在の状態をどのように判断するかに置いて、患者さんの身体に現在最もよく現れている徴候をまず取り出し、確かなものを軸として他の観察を組み合わせ組み立てていくようにします。

そのため、技量が劣っていれば見え方そのものがあいまいにはなりますけれども、大枠をはずすことはなく、見えていけばいくほどきめ細かに患者さんの状態と未来とを予測することができるようになります。言ってみれば、写真の焦点がだんだん合ってくるようなものです。

戦場カメラマンのロバートキャパの本に、ちょっとピンボケというのがあります。そこにはピューリッツアー賞をとった写真が掲載されています。ピンボケであっても内容がしっかりしていればそれでいいわけですね。一元流鍼灸術でもそのとおりで、ピンボケであってもきちんと治療できればそれでいいわけです。

...◇混乱しないための提言


四診を行い問診を整理していく際に混乱しないためには、まず、物事を思いっきり単純化することによってその全体像を把握し、徐々に肉付けを行なっていくようにするとよいでしょう。そのために必要なことを述べておきます。
....1 自身の安定的に発揮できる能力の範囲内で見れるものを観、
  それを判断基準とする決意をする。
  また、そのようにして判断しているのであるということを自覚する。

どのような技術でもそうなのですが、それを取得するためには努力が必要です。ところがこの努力というものが曲者で、体表観察などの微細な技術を習得する際、診えていないものを診えているとしたり、わからないことをわかった振りをすることがよくあります。その時その場で見栄を張っているわけですけれども、これがまずい。これをやっていると技術は向上しません。勉強の場は恥をかく場だと心に定めて、見えないわからない自分自身を受け入れ、少しでも見えることができたときにそれを感じ喜べるようにしましょう。

診えることわかったことを積み重ねていくしか成長はありません。あせらずたゆまず継続してください。


....2 全体観を保つことにより大きな遺漏がないようにする


患者さんを診るというときにもっとも大切なことが、この全体観を保つということです。持つという文字を使わず保つという文字を用いている理由は、詳細に見ていくうちにこの初心、全体観を保ってみるということを忘れ、一芸に頼りがちになるためです。ある人は望診だけで判断し、ある人は脉診だけで判断し、ある人は腹診だけで判断し、ある人は経穴診だけで判断するなど、得意分野診やすい分野に偏って特化し、得意になってそれを探求します。現在の探求心の向かう場所はあるわけですが、その際にもけっして忘れてはいけないことがこの全体観を保つということです。

この一点を保持する限りにおいて、患者さんを探求の道具にせず、治療の対象としてみることができるわけです。


....3 四診を合参して組み立てる

2、につながることですが、得意分野の探求ということは必ず行われるものであるということは、少しでも臨床を行ったことがある方であれば理解できるでしょう。2、では全体観を保持するということを中心として述べましたが、ここでは、四診をつなげてみるということを述べています。

なんとなく四診を合参するわけではなく、得意分野で診たものが、外の診察位置ではどのように現れているのかということを意識的に確認していく作業を怠らないということをこれは意味しています。外の部位に対応して現れている場合もありますし、ぜんぜん現れていない場合もあります。対応して現れている場合はその理由を考え、現れていない場合にもその理由を考えていくことによって、いつの間にか古典の記載を超えて独自の身体観を把握することができるようになります。

簡単に納得するのではなく、どこまでも深く気一元の観点に立って考えていくということが、道を切り開いていく大いなるポイントとなります。


....4 処置には凝らない。凝る場合にはその理由を厳しく明確にする。

鍼灸という治療道具は非常に面白いもので、さまざまな使い方ができます。身体を診るという感覚をつかんでくると、鍼灸の治療道具ではないものも自在に使えるようになります。まずいことに古典には、鍼灸とくに鍼の道具として微細な使用方法が事細かに書かれていて、治療かを躓かせる大きな石となっています。

また、鍼灸という道具を通じて集中力を鍛錬していくと、外気功などの能力を持つようになり、それが治療効果を高めるために使われるということもおこります。それを全面的に否定するわけではありませんが、そこに依拠しだすと、この全身を診て四診を地道に行なっていくという道から外れることとなります。他者の追随を許さない治療ができるとともに、誰も継承することができない治療となるわけですね。ここは一元流鍼灸術の目指すところではありません。

一元流鍼灸術では、体表観察にしたがって、そこに単純な処置を施すことにより、その体表の異常がなぜそこに出ているのかを明確にし、人間理解をさらに深めるために使えるようにするということを目標とします。これによって、誰でもできる継承することができる治療技術を構築していくことを目指しているわけです。


....まとめ


身体は、気一元の身体としてゆるやかに統合されて存在しています。すでに統合されている存在の微妙な狂いを調整することを目指しているわけですから、東洋医学の臨床家はこの統合された身体の概念を把持していなければなりません。

この統合の方法論として、一元流鍼灸術はその技術を提供しているわけです。
.◇指尖の声を聴く


体表観察を実際に勉強をする時が来るまでに、自分でできることについてお話しておきます。それは表題のとおり、指尖の感覚を作るということです。

指というのは、手の先に存在していて、自分の意志で何かの仕事をする道具として用いられます。人生のほとんどの期間、そのように指尖を使ってきた人にとって、その指尖が何かを感じ取り、それを脳に伝えているということを受け入れることは意外と難しいことです。

そのため、体表観察として提供された身体に、何の用意もなく指を突っ込んでいってしまうということが起きます。とりあえず指を突っ込んでみれば何かわかるのかもしれない>わかるって言われてるし、みたいなね。

けれども、指尖が何を感じているのかその声を聞く心を持っていなければ、経穴に触れても、そこで何を自分が感じるているのか理解できないものです。


そこで、指尖の声を聴く練習をしておきましょう。

金属の鍋と、プラスティックのケース、それにティッシュの箱を用意します。

20度前後の気温では、金属とプラスティックと紙では、その冷たさの質が違うことがわかるでしょう。金属は熱を吸収するように冷たいですが、プラスティックはそんなことはありません。紙は人のぬくもりをそのまま返してくれるような暖かさがあります。こういうのは、同じ温度の中に置かれていて感じる違いです。

自分の指尖が、その違いをどのように感じるのか、実際に触れて聴いてみましょう。

触れるということを、赤ちゃんが世界を探検するのと同じように、初めて世界を感じ取るというつもりで行います。布や毛布の包み込むような暖かさ、ガラスの金属のような冷たさ、そのようなものを初代探検隊の隊長として楽しんで味わっていくわけです。

歩いているときには、風が指尖に触れています。どんなふうに指尖は感じているでしょう。大きな樹のぬくもりはいかがですか。まるで生命を返してくれるような力強さです。

太陽のぬくもりを感じてみましょう。陽が射して暖かくなっている場所と、日陰の違い。コンクリートのざらつきと樹の肌との違い。様々なものに触れるという冒険のはじまりです。

こんな風に指尖で感じている声を聴くような訓練をしてみましょう。楽しいでしょ。


で、いざ、患者さんや体表を提供してくれる人に触れるときには、まず指尖の感覚を思い出させ、その感覚を失わない程度の速度で触れます。硬結を探すのではなく、経穴の表情をなでるという感じです。やわらかく全体に触れていくと、わかりやすい経穴がありますので、その内容をさらに深く感じ取ります。

深く感じ取るといっても、強く押すわけではありません。その経穴の表情が壊れないように用心しながら気持ちを深くめていって感じ取るわけです。そうやって深く感じとろうとすると、指の感覚が自然に伸びていって、そこにある生命(経穴)の構造を感じ取れるようになってきます。

このようにして指尖の感覚を作っていくと、実際の臨床で患者さんに触れて診えるものが徐々に多くなってきます。
指尖の声を聴くというファイル、実はすでにアップしたと思っていたのに
登録されていませんでした。ごめんなさい。

私は、このファイル好きです。

臨床を日々していれば、結局信じるところは自分の感覚しかなく、
指尖の声を迷わず聞けるように訓練するのが一番だと感じます。

最近、三陰交をすうっと触れて、その深浅を感じるようにしています。
すると、また新しい声が聞こえてきます。

楽しいですねえ。

...◇一元流小里方式について

参考にさせていただいたものが、東洋はり医学会で使われていた脉診の指導方法「小里方式」ですので、その名前を使わせていただいております。けれども、実際にやっていることはかなり異なります。そこで、一元流小里方式と呼ぶことにしています。

◇一組に4〜5人ほどが適切です。


◇まず最初にモデル患者さんを決めます。指ができた人から順番に、脉を取った後、経穴を探り、これと思う所にしるしをつけていきます。経穴を探る際には、選択した経穴の感覚をつかむように集中します。同じ経穴でもいくつか選択してみて、どれが一番かということも感じ取れるようになると非常に勉強になります。そして、脉状がもっとも大きく変化した場所に印をつけておきます。選択する経穴は、太白・陰陵泉・三陰交・太衝・臨泣・陽陵泉・足三里あたりがよいのです。全員が診終わったら、経穴を三穴ほどに絞り、どの経穴がもっとも脉状を変化させやすいか検討します。


◇脉の変化を追える人が一人以上は必要です。モデル患者さん一人と、片手の寸口の脉を取る人一人づつで計二人。そして、経穴を探る人が一人。最低四人で行います。頭にまわって側頭動脉を触れる人がいてもよいです。

◇経穴を探る人が場の動きの中心です。たとえば、太白を選択して、どれが太白穴として採用して一番効果が高そうかということを検討します。太白の周辺。緩みや硬結湿り気や乾燥などに注意して、手で探っていきます。位置が明確になったら、深さを探ります。圧するレベルでもっとも脉状が変化する深さが、その経穴の深さであろうと考えます。

◇経穴に触れる際は、経穴がある皮膚面に対して指を垂直にして、十センチほど離れた位置から徐々に五センチ、二センチ、一センチ、五ミリ、触れる、深さ一ミリ、深さ五ミリ、緩みが取れる程度、それぞれの位置で停止して、脉状を語ってもらいます。その際には、どれくらいの位置に移動させるか移動前に宣言した、その後に実際に指を移動させたことを宣言するようにします。かなりの集中力と時間を必要とします。指の代わりに鍉鍼を用いてもかまいません。

◇脉の変化を追える人は、経穴のそばに指頭が来ると脉が変化していきますので、その変化を口で表現します。脉が強くなってきたとか、弱くなったとか、きつく搏っているとか渋りだしたといった、脉状の変化を語るわけです。この人が第二の主役です。

◇脉診の不得意な人は、その脉の変化の言葉を聴きながら、自分がどのように脉を見て感じているのかということを調べます。極めて内省的な行為となります。また、自分自身で感じたところを声に出して表現してもかまいません。左右で脉状は異なる場合もありますけれども、変化することにおいては左右差はあまりありませんので、その変化を互いに確認しあえると、いい勉強になります。

◇最後にもっとも変化が出た経穴の形状を全員で確認し、その状態を表現します。これが一ラウンドとなります。

◇モデルさんは触れられませんので、全員がモデルになれるように時間を配分します。
つまり、四から五ラウンドできるとちょうどいいということになるわけです。
.◇脉を診るということ


脉という部位を、気一元の場としてみます。

全身状況より脉状は速く大きく変化します。

黄帝内経には、寸口の脉は百脉(全身)を朝(ただ)すところと書
かれています。「朝」というのは、朝礼の朝と同じで、これをただ
すと読むのは、全身に命令するという意味を訳者がそこに含めてい
ることを意味しています。しかし、これは実は、もう一つの読み、朝
(あつ)まるとした方が、実際の臨床には合ってくる言葉ではない
かと思います。小学校の朝礼のように、校長先生が集まってきた生
徒たちの顔色を見て、その学校の運営がうまくいっているかどうか、
どうすればみんなより元気になるのかを考える。集まってきた子供
たちの状態を見るわけですね。で、集まる、と。

胃の気が通るというのは、それぞれがそれなりに元気があってなお
かつ全体の調和が取れているということです。

この朝礼に出てくる子供たちは身体という全国からの使者で、その
地域の生命力を代表していると考えます。

治療という、全国の地域への、余計なものを取り除き、貧しいとこ
ろを支援し、敵の侵略を防ぎ、道路を治して流通をよくする、など
の処置が、国王の命令か、神なる手である術者の処置によって施さ
れます。その処置で、地域の状況がどう変化したのか、国家(身
体)の運営がうまくまわり始めているのかどうか、全身の調和が取
れているのかどうかという連絡が、それこそ光の速度のように速く
朝礼の会場に届けられます。

術者はその様子を脉をとることによって診て、自分の処置がうまく
いっているのか否かを判断しているわけです。

脉状の表現というのは、その朝礼の場所の全体の状態をどのように
表現すると他者に伝わるのだろうかと工夫されたものにすぎません。
伝え方は独自性がいろいろあって当然であろうと私は思います。要
は、その場の状況をきちんと伝える、あるいは伝えようと努力する
ことが大切なんですね。

これを、最近の流行でいじめがあったよなぁとか、校長先生が謝っ
ていたようなぁとかという憶測でその場を見回して、寂しく怒りに
満ちた朝礼でした。などと報道することをステレオタイプと言うわ
けです。これがつまり、弦に入れておけとか、濡弱でいってみよう
かとかという発想になります。

また、弦と緊との違いに悩んでみたり、脉状の細部に拘わってあく
までも脉状で取穴を決めようとしたりすると、全体の生命力すなわ
ち胃の気を見る姿勢を見失ってしまいます。

.◇胃の気の脉診


胃の気の脉診というのは、生命力を診る脉診方法です。

基本的には、生命力の一番枯れている寸関尺の脉位の浮中沈の部位を定め、そこを治療効果を判定する部位として用いていきます。たとえば、尺位の沈位に弦濇を感じる場合に、処置後にその脉状がどのように変化したかということを、効果判定の一つとして使用するわけです。〔注:一部位にのみ存することも、他の部位にまで波及していることもあります〕

胃の気の脉診といいますと、六部定位を習った方は、右の関上の中位の脉状について診るのではないかと考えるかもしれませんけれどもそれは違います。全体を診ます。全身の生命力の状態がこの寸口の部位に表現されているとして、それを診るわけです。

上記のように特定の位置に現れている場合には、それに着目しますけれども、全体のバランスが崩れている感じで出ている場合にはそれを対象とします。また、生命力がどうかという思いで診ると見えてくる、脉状の艶や柔軟さ堅さや脆さといったものから胃の気の状態を判断することもあります。


一元の気の小さな発現場所として寸口の脉処を設定しているわけです。ですから、寸口の脉処全体が、一元の気である身体全体を集約している場所であると覚悟して見切るということ、そこに診脉の本道があると考えています。

実はこれは他の診察部位についてもいえることです。

この一をもって見切っていくということは、一元流鍼灸術の特徴の一つです。

疾病について

人の身体は、自然にバランスが取られることによってその生理的な活動を営むことができるようになっています。これをホメオスタシス(生理的な均衡)とも表現します。一般的に疾病と呼ばれているものは、身体の均衡が劫かされている状態のことを意味しています。

身体の均衡が破られている状態には、より健全な心身を獲得するために、「固定化している現状を手放している状況が表面に現れている」生理的な不安定状態のものがあります。

また、健全な心身を劫かしてその均衡を破壊し、時には生命の危機にまで至る、非生理的な不安定状態のもの、すなわち病理的なものがあります。

このあたりについてのより大きな生成病死については、テキストの一元のところで詳細に述べられていますので、まずはそちらをお読みください。ここではそのうちの病の内容について述べています。

この両者は同じように心身の均衡が破られているため、ふだん元気に生活を営んでいる状態とは異なる、なんらかの違和感が身体に表れてきます。


病者は身体に違和感があることから治療を求めます。素人ですからこれはどうしようもないことです。けれども治療家の側も患者の訴える症状に振り回されて、この両者を同じように「疾病」とし、否定して解消するべき課題としてしまうと、ここに非常に大きな問題を生ずることとなります。

この問題の小さなところでは、根本の問題を理解することができないまま対症療法が積み重ねられることによって、実はその患者さんの生命力が損傷され、寿命を短くしている可能性があるというところにあります。またこの問題の大きなところでは、歴史的に蓄積されたと言われている東洋医学の治療技術が、実は単に対症療法の積み重ねにすぎないものとして把握される可能性があるというところにあります。

もともとは人間をいかに理解しいかに生きるかという人間学として構想された東洋医学を換骨奪胎し、東洋医学の積み重ねを単なる大いなる人体実験として捉えて、対症療法的な治療技術を秘伝と呼んで盗み集めようとする人々が出てくるわけです。


けれども東洋医学の実に面白いところは、この対症療法という「民間療法的なものを積み重ねてもその東洋医学的な人間観が構成されない」ということろにあります。すなわち古代、東洋医学を作り上げた人々は、単に対症療法を蓄積しただけではなかったということです。彼らは、より深く、人間をどのように捉えるべきか、人間とはいかなるものであるのかといった、その生理的な状況・病理的な状況を、生きて働いている人間のありのままの状態を観察することを通じて把握しようと試みてきました。そのような姿勢を保持することによって初めて、東洋医学の人間観ができあがっていったわけです。


この東洋医学の人間観を築き上げていく際に使用した基本的な概念は、天人相応に基づく―人身は一つの小天地であるという発想に基づく―陰陽五行理論でした。この発想を積み重ねていくことから生まれたもっとも大きな成果が、人間の生理的な状態についてまとめ、病理とは何かを明らかにしている臓腑経絡学説です。これを通じて東洋医学は、人間の生命がどのようにして養われているのか、なぜ病むのかということを明らかにしました。


生命とはいかなるものであるのかという問いこそが、東洋医学を深化発展させる鍵となったわけです。

そして、病を治療する方法のもっとも広く深いものとしてまずその人間の生き様としての養生があり、次に鍼灸があり、湯液があり、最後に治せないほど深い病があると古人は考えました。

そしてまたここにおいて疾病の二重性すなわち生命を維持していくために一時的な矛盾として起こる疾病と、生命が毀損されている状態としての疾病とがあるということが明らかにされていったわけです。


ですから、現代において東洋医学と称して対症療法のみを行って平然としていられる人々―漢方薬や鍼灸という道具を使用しながら、古人の身体観に則ることなしに、症状を目標として治療を行っている人々―は、この古人の姿勢を裏切るものであると言えます。伝統医学を自称しながら伝統を裏切っているわけです。

東洋医学は単なる病気治しの医学ではありません。その人生を応援するための養生術をその中核としている人間学です。これこそが、東洋医学がまさに「未病を治す医学」と呼ばれているゆえんであるわけです。
生死と病むということとは異なるフェーズにある

生死、生きているか死んでいるかということは、人間存在がそこにあるかないかという、きわめて根本的な問題です。

それに対して病むということは、生きている中でしか起こりえない現象です。このことにもっと注目を払うべきです。

病の中には死にゆく病もありますし、生き直すことのできる病もあります。

死にゆく病はできるだけ苦痛なくすなわちバランスを崩すことなく死への道筋をつけるということが大切になります。これはつまり、今、いかに生きるかという生の質を語る必要が出てきます。

病気治療を目的とする人々の思いの多くは次の、生き直すことのできる病に注がれています。


...穴性について


穴性学は、これから日本で重要視されていくであろうし、そうでなければならない考え方であると私は考えています。

けれどもそもそも穴性学が発想されてきたのは、中国においても長くとも百年ほどの歴史しかありません。それ以前は、鍼灸歌賦とか経験方(そして局所あるいは循経施術)によっていたものです。

ですから、穴性を踏まえて配穴する、と言っても、鍼灸歌賦にしたがって配穴するといっても、経験方にしたがって配穴するといっても、そのどれに優位性があると判ずることはまだできないのではないかと私は考えています。

つまり、穴性の概念は鍼灸歌賦によるものや経験方によるものと同じように、まだまだ検証する必要がある概念であるということです。

そして、その検証を行うためには、人間そのものを包括的に把握する概念体系が必要なわけです。それが一元流鍼灸術になります。

体表観察をして、何故その経穴にそのような反応が出ているのかということを判断するには、相手の身体に対する認識と、穴性に対するある程度の知識が必要となります。それがおおきく気一元の身体観で統一されたとき、はじめて経穴に関する判断ができるわけです。

この積み重ねによって、穴性に関するしっかりとした検証体制ができあがってくるであろうと私は考えています。


....穴性学の基本は経絡学説

『穴性学ハンドブック』という書物を作成したとき私は、繁雑となることを避けるために穴性についての常識的な部分を採用せず、主に弁証論治で使用することのできる経穴の特殊性の部分についてのみ採用しました。

先日ある勉強会で、「穴性は経脉理論とは異なる」と話し、それにもとづいて中医学を批判している人がおられました。けれどもそれは、繁雑となることを避けて経脉の疏通という経穴の大きな作用を省略した私に責めがあると思いますので、ここに反省を込めて穴性について再度述べてさせていただきます。


そもそも穴性は基本的には臓腑経絡学に本づくものです。ですから当然経絡学説を基本としていて、疏通経絡とか温通経絡とか通経活絡という方法によってその経脉上の虚実を整え病証を取り去るという経穴の作用についての記述が中心となります。穴性を考える場合の大きな基本が、ここにあるわけです。

そしてさらに経穴独特の使用法によって特殊な効果を得られた治験が記録されているものが、弁証穴性として記載されることとなりました。これはいわゆる特効穴治療の抽象概念とでも呼ぶべきものです。『穴性学ハンドブック』では、この部分を中心にすべて採録してあります。

どうしてかというと、循経取穴による経穴の作用というものは、鍼灸の免許を持っている人であれば誰でも最初に当たり前に思いつくことができることだからです。鍼灸師は学校で経絡の循行を叩き込まれますものね。そのことを今更書籍で触れる意味はありませんし、ハンドブックですから、この部分を簡便にしたわけです。

ところがそのせいで、穴性学には経脉理論というものがないらしい、などという俗説が広まったのであれば大変申し訳ないことであると思います。

ただ、経穴に触れもせずに穴性概念だけで何事かを語ろうとする中医学には非常に失望していることも併せて述べさせていただきます。穴の状態を理解できずに穴性を語り処置を施すということは、傲岸不遜であり、毎瞬息づいている人間の生命に対する無知のなせる技であると言わなければなりません。


十二正経と奇経


十二正経とは、五臟六腑に一臓である心包を加えたものです。これによって、天の気と地の気とに充足されている人身の全体像すなわち気一元の身体が表現されます。それに対して奇経と絡脉とにはどのような位置が与えられているのでしょうか。

この問題について考えていくことは、正経についての理解が問われることとなります。《難経》には、正経と奇経とは拘わることがないと述べられています。その言葉に拡大解釈しすぎると、正経と奇経とがあたかも別の身体について述べているものであるかのようにバラバラに考えていくことになります。これが現在の東洋医学の基本的な水準となります。ここに疑問を持つ、ということが私の姿勢です。私はこれを統一的に関連づけて考えていくべきだと思っています。

気一元の観点から、一として把握された身体を、陰陽の観点、五行の観点から見つめていった果てに東洋医学があります。それは先秦時代のもっとも科学的な視点でした。この存在そのものに対する把握方法こそが、先秦時代から漢代初期にかけて《黄帝内経》が発想されまとめられた時代の基本的な思想です。

古人は、気一元の身体を観てそれを五臓六腑とその生命力の流れである十二経として把握しました。ところがここに拘わると、あたかもそれぞれ独立した五臓六腑が存在しそれぞれ独立した十二経脉が身体の中に溝のように存在するという観念が生じてしまうため、あらかじめ十二経の表裏を繋ぐものとしての十二絡脉と後天の生命力の表れである胃の大絡と脾の大絡、そして先天の生命力の表れであり全身を陰で支えているものとしての奇経八脉を定めました。後天の生命力は生命活動の源泉でもある心臓の動きと関連しているために大包と虚里という心臓に近い部位に定められました。また奇経八脉は、十二経を大きく構造的に繋ぐものとして、あたかも人体における気の骨格でもあるかのように深く構造的に位置づけられることとなりました。これがすなわち清代初期にいたって喩嘉言が開示することとなる奇経の概念です。


忘れてはならないことは、十二正経こそが基本であるということです。そこに現されている一元の気の升降出入とその表現こそが生命を支える最も基本的な構造です。脾の大絡 胃の大絡はそれに比すると心臓を動かし生命そのものを活動させている今生きている生命の表現であり、奇経は十二正経を網羅しその繋がりを表現しているものということになります。いわば、生命の骨格を網羅して大きなまとまりとしてそれを表現しようとしているわけです。陽経を外から網の目のように繋いでいる陽維脉、陰経を内から網の目のように繋いでいる陰維脉、全身の生命活動の胆経の側面すなわち外側から表現している陽蹻脉、全身の生命活動を腎経の側面すなわち内側から表現している陰蹻脉、体幹部の中心を気海丹田から立ち上がる生命力の流れとして観たとき、その中心の生命力が衝脉であり、その背側に現れているものが督脉であり、腹側に現れているものが任脉であるということになります。網として陰陽を網羅している陽維 陰維だけでは地および気海丹田から上る生命力にまとまりを付けるのには不足しているため、帯脉がちょうど全身の中心を横に束ねるように引き締めています。正経という大きな生命力の流れのアワイをこのように想定することによって、全身の気一元としてのまとまりというものがより明確に表現されているわけです。

五臓六腑の概念と比すると生命力の流れである経絡あるいは奇経の有り様というのは不安定なものです。その存在が五臓六腑の生命力の充実度に依存しているということは《難経》に『然なり。聖人は溝渠を図り設けて、水道を利し、不然の時に備えました。天から雨が降下して、溝渠が溢れ満ち、この時に当って霶霈は妄りに作ります。こうなると聖人といえども復び図ることはできなくなります。このようにして絡脉が満ち溢れます。諸経がこれに拘わることはできません。』と述べられているとおりです。そして不安定なるが故に病みやすく治りやすいとも言えます。

生命力を賦活させるということはその場に生命力を集めるすなわち気を集めるということがまずあります。気が集まることによってその場の生命力が流れやすくなるわけです。そこには前提としての寒熱はまだありません。寒熱が現れるのはその場がある程度の生命力を持ちそれを表現できるようになった後のことです。

奇経の治療

李時珍の《奇経八脉考》には、それぞれの奇経に割り当てられた経穴が、その奇経を治療する経穴としてその主治効能も含めて掲載されています。

奇経はそもそも正経とかかわることのないものであって、正経の経穴を借りてその表情を表しているに過ぎないわけです。

ということは、自身を表現している場所がそのまま奇経の治療場所となるということだけではなく、病処そのものが治療場所になると述べられていると考えるべきです。

これが、局所治療の奇絡的な位置づけとなります。そしてその治療法は、葉天士によると温通法が中心となってくるわけです。


臓腑経絡が充実し、次の段階である生殖の基盤を保持できるようになることを現代では、第二次性徴期と呼んでいます。古来の東洋医学ではこの時期のことを、腎気が充実し盛んになることによって、天癸―すなわち生殖機能を発することができるようになると説明しています。いわば臓腑経絡が充実することによって新たな機能を人は獲得することができるわけです。そしてそれは、それまでの涸としての存在形態を脱して、よりおおきな種あるいは民族あるいは家族の一員としての自己の位置を獲得するわけです。成長に伴い臓腑経絡がこのように充実していく上で欠かせないものは、臓腑経絡それぞれを互いに結びつけていく絆の存在です。この絆を絡脉と呼びます。これは従来の絡脉という概念よりも少し広く捉えるべき所のものですので、これを葉天士の言葉を借りて奇絡と呼んだ方がよいかもしれません。

すなわち成長し身体が大きくなり機能の分化が進んでいくにつれて、その相互をふたたびつなぐ媒体として奇絡が充実していくこととなると古人は考えたわけです。これはまるで発展するにつれて専門分化が進んでいった企業や大学や学問が、そのままでは分離しすぎて発展を危ぶまれあるいは全体的なも表を喪失してしまいどこに行くかわからなくなるために、総合的な戦略機関を設けて横のつながりを回復させようとするようなものです。

奇絡は、主流をなす臓腑経絡をつないでいる媒体ですから、生命力が低下していくと奇絡から先に枯れていくこととなります。後から充実し先にやせ細っていくわけです。これが葉天士のいわゆる奇絡論、奇絡は肝腎に隷属する、深い病 慢性の病には奇絡を用いなければ治すことはできないと喝破したところとなります。

この奇絡を治療していく上で葉天士が指示している基本的な方法が温養であることは注目に値するところでしょう。緩み鈍っているところ、生命力の薄い部分を見つけ、温めることを中心としてその部位を養うということを、治療の基本としているわけです。

このように書いてくると、これは鍼灸師の非常に得意とするところであるということが理解できるでしょう。体表観察をし、皮膚の異常を通じて臓腑経絡をかみ分け奇絡をかみ分けて全身に対する影響を考えながら手を入れていくという行為は、東洋医学を修めた鍼灸師の独壇場であると言えます。


.....明代の中風学説二題

明代の医家による中風の理論では、繆希雍(びゅうきよう:1546年〜1627年頃)の「内虚暗風」説と張介賓(ちょうかいひん:1563年〜1640年)の「非風」説が最も大切です。

......内虚暗風説

繆希雍は、中風には内外の論があることを踏まえ、劉河間の火熱の説と朱丹渓の湿・痰・熱の説を基礎として、「内虚暗風」説を提起しました。天地の風気の違いによって人の稟賦にもまた違いがあり、東南の場処は『剛猛の風は絶無であり、湿熱の気が多い』(《先醒斉医学広筆記・中風》)ため、真中風となるものは非常に少ないけけれども、突然僵仆(きょうぼく)〔注:卒倒〕するような類中風の証が一般的で、真に風に中(あた)ったものではないとしました。東南の人は『その性質は柔脆(じゅうぜい)〔注:軟弱で脆い〕なものが多く、熱が多く、痰が多く、真陰がすでに虚しています。内熱が甚だしくて津液を煎熬(せんごう)して〔注:煮つめて液を少なくすること〕凝結させて痰とし、気道を壅塞させてしまい通利させることができなくなります。そのため、熱が極まって風を生じ、突然僵仆するという類中風の証となります。人事不省となり、言葉を発しにくくなり、あるいは口眼喎斜となり、半身不随となるわけです。〔訳注:これを予防するためには、〕まず内熱の徴候があるかどうかということを明らかにしなければなりません。口が渇くとか、舌に苦味を感じるとか、大便が出にくいとか、小便が短赤であるとかといったことがその験(しるし)です。劉河間が、水が火を制することができないためにこの証が起こると述べているのは間違いです。丹渓が、湿熱の相火が痰に中(あた)り気に中ると述べているものがこれです。これがすなわち内虚暗風ということで、陰虚に偏った陰陽両虚のものが多く、外来の風邪とは全く異なるものです。』(《先醒斉医学広筆記・中風》)

治療において繆氏は、『法は清熱・順気・開痰によってその標を救い、ついで本を治療します。陰虚であれば血を益し、陽虚であれば気を補い、気血両虚であれば気血をともに補います。長期にわたってこの治療を行います。』と述べています。また『痰を清火より先にし、清火を養陰より先に治療して、燥剤をもっとも忌みます。真中風を治療する風燥薬を用いることがもっとも大きな誤りとなります。』と述べています。(《先醒斉医学広筆記・中風》)用薬においては、その初期には清熱を、次にその陰を養い、あるいは陽を補うということをその本治としているわけです。


繆氏の「内虚暗風」の説は、後世の医家に大きな影響を与えました。たとえば葉天士の「陽化内風」の論は、これを受けたものです。繆氏は中風の類を治療する際に甘寒の品を用いました、陰虚内熱の人にはこれを持続して用い、平淡〔訳注:の薬剤を用い続け、〕〔注:寒熱に偏らず淡白な味〕の薬剤を軽んじてはいけないとしています。
.非風説

張景岳は類中風の証と外風とは関係がないと考えていました。そこで「非風」という言葉を創り出すこととなります。『非風の証は、人々の言うところの中風の証のことです。この証は卒倒することが多く、卒倒は昏憒〔注:こんかい:頭昏心乱〕によるものが多いもので、内傷 積損 頽敗によってなるものです。外感風寒によって起こるものではありません。相伝されてきた中風という名前によって大いなる誤解が巻き起こされていますので、私はこの中風の二字を去り、風に類する名前をつけることをやめたいのです。』(《景岳全書・雑証謨・非風》)と述べています。

張景岳は非風が主として真陰の虚損・元気の虚脱によって起こるとしました。彼は『これを病むものは慎むことができないものが多く、七情内傷や酒色の過度によって五臓の真陰が傷られることがこの病の本となります。そこに内外の労症が加わることによって、元気が一時的に損傷されたり、加齢による衰えのため、気血がまさに離れようとするといった、損傷が積み重なり頽敗することが発病の原因となります。陰が先に虚して陽が後に損なわれ、陰が下陥し陽が上に乏しくなって陰陽が失調し、精気が交わらなくなったために突然昏憒し突然卒倒するわけです。これはまさに陽気が暴脱する徴候です。』(《景岳全書・雑証謨・非風》)と述べ、また『非風で眩暈 掉揺〔注:ちょうよう:揺れ動くこと〕 惑乱するものは、すべて気が上に虚したためになっているものです』。(《景岳全書・雑証謨・非風》)と述べています。その治療においては『非風の証は、表裏ともに虚して病となるものです。外病は病が経にあり、内病は病が臓にあります。この治法はただ培補元気を主とします。』(《景岳全書・雑証謨・非風》)と述べています。

張景岳の非風の説は、清代の王清任(1768年〜1831年)によって尊崇されました。王氏はその《医林改錯・半身不随論》で、『ただ張景岳だけには立派な見解があります。半身不随のだいたいを気虚に属させ、中風の名前に変えて非風の論を著しました。』と述べています。王氏は中風の病理を気虚血瘀として論じ、補気活血の補陽還五湯を創設して半身不随の証を治療しました。

以上『中医学術史』上海中医学院出版社の390ページ
       第八章 雑病論治の発展一、中風より

◆補陽還五湯


【出典】『医林改錯』王清任著

【組成】黄耆(甘微温:脾肺:補気昇陽・固表止汗) 4 当帰(甘辛温:肝心脾:補血・活血・散寒・止痛) 2 赤芍(苦微寒:肝:清熱涼血・活血散瘀) 1.5 地竜(鹹寒:胃脾肝腎:清熱息風・安心止痙・通絡)・川芎(辛温:肝胆心包:活血理気・止痛・去風湿)・桃仁(苦甘平:心肝大腸:破血化瘀・潤腸通便)・紅花(辛温:心肝:活血化瘀) 1

黄耆は初め10〜20gとするが次第に増やして40gまで用いる。
少しでも効果があるなら一日二剤づつ、5,6日間用い、以後は毎日一剤とする。

【効能】補益元気・活血通絡

【主治】半身不随・口眼歪斜・言語がもつれ、口角から涎を流し、
    大便乾燥・小便頻数・遺尿不禁。

【加減】半身不随の初期には +防風1銭 とし、4〜5剤で取り去る。
    前医が寒凉薬を多く用いていれば +附子4〜5銭。
    前医が散風薬を多く用いていれば +党参4〜5銭。

【方解】黄耆が主薬で、元気を補益し、気を盛んにして血の巡りをよくする。当帰(帰尾)・赤芍・川芎・桃仁・紅花は輔佐薬で活血和営。地竜は通経活絡。
一元流鍼灸術での考えかた

.....病因による分類について


◆真中風と類中風について

真中風は風寒の外邪によるもので、類中風は内生の邪である湿・痰・熱によるものとされています。相方とも生命力の虚損が基礎となって起こっているということは同じであり、症状ではなく病因で分類しているものです。

このような哲学的な操作による病因分類よりも、現代医学における病因分類を用いる方が実態に合っていますので、それを東洋医学的な解釈にもとづいて用います。


◆脳出血

脳出血は、高血圧や加齢などにより脳の血管が長い時間をかけてもろくなった結果、脳の細い血管がやぶれて出血するもの。

脾腎の両虚肝鬱系


◆アテローム血栓性脳梗塞

動脉硬化によって頸動脉などの血管壁内部に「アテローム(脂肪のかたまり)」による血栓ができ、血管が詰まってしまうもの。

生命力の虚損を基盤とし、それに内湿が中心としてからんでいるもの。脾腎の両虚内湿系


◆心原性脳塞栓症

心房細動や心筋梗塞などによって心臓にできた血栓が脳にまで運ばれ、脳の血管を詰まらせるもの。

生命力の虚損を基盤とし、それに瘀血が中心としてからんでいるもの。腎虚肝鬱瘀血系


◆ラクナ梗塞

高血圧などを原因として脳の細い末梢血管に梗塞ができるもの。

生命力の虚損を基盤とし、それに肝鬱が中心としてからんでいるもの。
腎虚肝鬱気滞系

.....病情による分類について

......脱証と閉証について

閉証はまだ亡陽までは至っていない段階であり、脱証は亡陽となった段階で生命を保持する危機的な段階であると考えます。症状には大きな違いがありますけれども、病因に違いがあるわけではなく、病程の深浅に違いがあると考えます。

もしこの閉証と脱証に大きな違いがあるのであれば、西洋医学的な報告がなされてもいいところだとは思うのですが、ありません。梗塞巣の位置による違いだけのことなのかもしれませんが、予後を考えるとかなり異なることと思いますので、中医学の論をここでは持ってきています。
病程について

西洋医学の隠れ脳梗塞で見られているように、無症状な脳梗塞があるわけです。これが軽いとは言っても非常に重要なものとしてあげられます。
一元流鍼灸術ではこれを中医学の分類に従って中経絡の範疇に入れています。

症状としては未病の範疇とも言えますけれども、CTでみると梗塞巣があるわけですから病態としては非常に重症であることに間違いはありません。四診においても何らかの問題がここに出ていると考えるべきでしょう。今、大きな問題が起こっていないのは、単にラッキーなだけと考えるべきです。

これ以降の病態の重症化過程は、いわゆる中医学で言われている症状が出ている中経絡→中臓腑の内の閉証→中臓腑の内の脱証となり、この順に予後が悪くなります。


以下に西洋医学で観察された脳卒中の前徴症状一覧を掲載しておきます。東洋医学を行ずるものにとっては、このそれぞれの症状がかなり重篤な状態を示しているということが理解できるでしょう。

一応、五臓の弁別を入れておきますけれども、これは確定項目ではありません。全体の生命力の状態の流れから再検討されるべきものです。


◆前徴症状一覧◆

* 簡単な計算ができなくなってきた。◆腎虚
* 記憶が飛んだり、物忘れをするようになった。◆腎虚
* 文字が思うように書けない。◆腎虚
* 人が話していることをよく理解することができない。◆腎虚
* 早口で話されていると理解できない。◆腎虚
* 一時的に意識が遠くなることがある。◆気虚・内風
* 突然ろれつが回らなくて喋ることができないことがある。◆内風

* 頭痛や肩こりが何の前触れもなく起こる。◆気虚
* 視野が欠けたり、物が二重に見えたりする。◆肝虚
* 時々顔や唇がしびれる。◆経絡の虚
* 水や食べ物を飲み込みづらくなったり、むせやすくなり、痰がからみやすくなった。◆脾虚湿盛

* 急に手の力が抜けて、持っているものを落としてしまう。◆経絡の虚・気虚
* 以前に比べ、指先が思うように使えなくなったり、字が下手になった。◆経絡の虚
* 常にめまいや耳鳴りがし、片方の手足のしびれや震えが起こる。◆内風腎虚

* めまいがして真っ直ぐに歩くことができない。◆内風
* 歩いていると、何もないのにつまづいたり足がもつれる。◆気虚
* 力はあるのに歩くことができなかったり、立っていることができない。◆力はあるということから経絡の虚損ではない。内風
* 階段や段差をまたぐとき、片側の足をいつも引っ掛ける。◆胃経の虚

* いきなり冷や汗が出たり動悸が起こる。◆心
* 声がかすれる。大声を出そうとすると息切れする。◆肺
* 少しのことで泣き出したり、大声を出して笑いだす。◆心
* いきなり気分が落ち込んだり、うつ状態になることがある。◆心脾の虚

まとめ


この中風の論考には、一元流鍼灸術の発想の特徴がよく出ていますので、最後にまとめておきます。

先ず一番目に、古典を大切にし古人の考えの過程を踏襲するということです。伝統という経験の積み重ねの上に現在の東洋医学があるわけですから、これまでの発想法を整理しないでいることは、宝物を自ら放棄するような行為です。

二番目に、現代中医学の論考をおろそかにしないことがあげられます。現代中医学に敬意を払っているのは、そこに伝統の成果を積み上げまとめ直そうとしている意志を感じるためです。繁雑になりすぎる傾向がありまた独善的となって西洋医学と治効を競うような向きもありますが、語り過ぎられている言葉に注意を払うことができれば、さまざまな洞察を得ることができます。

三番目に、西洋医学の視点を東洋医学の発想で整理し治すということです。このことによって伝統医学の至らない部分が明確になれば、それを改変しながら、新しい東洋医学を築いていこうとしているわけです。


基本的な姿勢として、実際の患者さんの状態こそが古典そのものの場であると考えます。ですから古人と同じようにその場をよく観察し、その観察結果を大切にします。そしてその観察方法として西洋医学の視点と伝統的な東洋医学の視点を排除せず整理しなおしていきます。その東洋医学の観点とは何かというと、天人相応の気一元のものとして人間を把握し、それを陰陽の観点五行の観点か多眺めなおしていくことです。

学校レベルの中医学は伝統的な東洋医学の歴史を、ばらばらの観念のまままとめなおしたものなので、その記述が詳細であっても非常に多くの深い内部矛盾があります。実際の状態はどうなのかと考え、実際の状態をイメージしながら、用心深く読んでいく必要があります。

鍼のくたびれとは:夢分流


さて、ここでのポイントは、夢分流は病人をくたびれさせないことであるに つきると思います。

この「くたびれる」というのは、どういう状況をいっているのでしょうか?
いわゆる瀉法によって、生命力が損なわれる問題なのでしょうか?


....ここでは


他流派との違いを際だたせると、自流派の特徴が明確に提示できるので、それも一法ではあります。いわゆる比較広告の手法です。

けれどもこの方法は、和の国である日本では、評価されないらしいですね。現代でも。そのおかげで、いい加減な理論で適当に実績を積んでいるところがいつまでもはびこる事態となっているわけですが、それもやむなしというところなのでしょう。


さて、ここでは手技の違いを中心の述べています。そして、この後、腹部のみを使うということを強調していますから、これは鍼の用い方とか手技すなわち瀉法や補法について述べているのではなく、腹部打鍼術における処置位置について述べているものです。つまり、臓腑がある場処に近い位置に処置をし、そのバランスを整えようとすることの長所を述べているわけです。

このことから類推するならば、手足の末端などを用いる治療は、全身の生命力が充分にない場合、臓腑の生命力が手足の末端に引き出されてしまうこととなり、中心である臓腑の生命力が奪われてしまいます。

これに対して臓腑の力を上げバランスを整えることから全身の生命力を立ち上げていく腹部打診術の方法は、「くたびれ」を起こさないと述べているわけです。

末端の治療をすると、生命のバランスを強く大きく動かすことができますので、生命力の状態を大きく変化させるためには有効ですが、やり過ぎたときや継続治療を行っているときなどには、臓腑の生命力が引き出されて「くたびれ」の問題を引き起こすことがあると述べているわけです。


...肝木の人間観


これが、気一元の観点に立って全身をまるごと一つのものとして患者さんをみていく方法となります。現時点でのこの診方のおおきな手がかりとなるもののひとつが、一元流鍼灸術における肝木を中心とした人間観となります。この生理的な人間観をもととして臍下丹田の充実に向けて治療法を組み立てているわけです。


....充実した肝木とは


東洋医学をかじったことがある人の中には、肝気というと肝鬱の大本であり邪気の一種であると述べる人がいます。そのような人は、この肝木が充実するという言葉でいったい何を表現しようとしているのか疑問に思うことでしょう。

けれども一元流鍼灸術では肝木を「邪気の一つであり刈り取るべきものである」とは一概に考えてはいません。それどころか、肝木を充実してしっかり立たせることこそがその患者さんの人生を応援することであり、治療の目標とすべきであると考えています。

そのような充実した肝木のイメージとはどのようなものなのでしょうか。それは、広々とした丘の上にすっきりと立って枝葉を茂らせている一本の広葉樹のイメージです。充実した大地が脾であり、大地を潤す水が腎、輝く太陽が心であり、広々と広がる空が肺です。気負うこともなく卑下することもなく、ただ己の位置に気持ちよくあることを喜んでいる姿。これこそが、充実した肝木のイメージです。


人生の目標を深く潜在意識の場にまで浸透させて立ち上げるものが腎であり、その目標を達成するための戦略を練るところが肝です。この肝を充実させることこそが、人生を充実させることにつながるのではないかと考えているわけです。
治療と速度:生命力の強弱、治療の強弱とは何か



治療が治療として成立するか否かということは、大きくは患者さんの生命力をどれほど動かすことができたかというところにあり、小さくはその焦点となっているひとつの経穴の表情がどのように変化したかというところにあります。

小さな経穴の表情の変化が全身の生命力の変化を呼び起こしうるかどうかということは、選穴における重要なファクターになります。そしてこれこそが、鍼灸における弁証論治がいかに重要かということを教えてくれるものとなります。

一元流鍼灸術の基礎では、大きな病因病理を通じてその患者さんの弁証論治をたてるということに集中してきました。

ここでは、外界からのアプローチとしての鍼灸と経穴の状況とをどのように整理すべきなのかということをまとめていきます。


外邪が侵襲するということは、治療が入るということと基本的には同じことです。ただし外邪の場合は、突然何の前触れもなく、身心の弱みを突いて入ります。治療の場合は身体において矛盾が集中している場所をあらかじめ定めて、そこに適切な量の刺激(強弱)を適切な角度(補瀉寒熱)で与えていきます。そのため基本的にはその生命力に寄り添い、生命力を高める方向に向かおうとします。


ですから治療をする際には、患者さんの身体の言葉を聴き、その無言の言葉を身体に返すという、橋渡しを行う感覚が鍼灸師には必要です。そこで私は「きちんと聴いていますか?」「ちゃんと伝えていますか?」という言葉を自らに問いかけることにしています。

治療効果が定まるための三つの要素


治療として経穴に刺激が入る際、次の三点が重要な観点となります。これがしっかりと定まると、治療効果が最も高くなります。この三点とは、方向と速度と質量です。以下そのそれぞれについて解説します。

.....方向

方向には、経穴の位置も含まれます。経穴の位置ということには、一穴の定め方という問題と、その経穴を選択するという問題とが含まれています。違わない弁証論治をしようとすると、一点を定めるのではなく、面あるいは部位としての虚実がその問題の中心として浮上することがあります。そのような際、面としてアプローチするのかあくまで点を定めてアプローチするのか、その判断が問われます。面としてアプローチすると、治療がぼやけます。点としてアプローチするには焦点が絞りにくく、へたをすると刺激がしっかりと入らないというきらいがあります。

選穴においては、対象となる身体の敏感さを加味しながら、どの部位を用いるともっとも効果的かという発想が問われることとなります。そこには、体幹を用いるのか末端を用いるのか、両側でいくのか偏側でいくのか、といった、気一元の身体へのアプローチの仕方が問題となってきます。これは言葉を変えると、その気一元の身体に対して動きの方向をつけるということですので、これを方向の範疇に入れています。


この施術者側の治療処置選択に対する身体のありさまが密度となります。方向には、伝統医学の言葉における補瀉と選穴および治療技術が含まれます。密度には、伝統医学の言葉における虚実と経穴の表情という診察技術が含まれます。

.....速度

速度とは親和感です。胎内におけるお母さんの心臓の拍動速度を基準とします。これがもっとも親和感のある速度です。この速度を保つことは、人間の身心に深い安定をもたらします。それに対して、速くても遅くてもそこには違和感が発生します。

換言するならば、速度がある範囲内であれば身体を養います。これは養生や、器の範囲内での生活というアドバイスの存するところとなります。

器を越えると、身体を鍛えることになります(治療:健康回復への道:身心の鍛錬)。

違和感が大きすぎると、身体を鍛えるよりも破壊するほうが強くないます(事故:ストレス:疾病への転落の道:内傷:外感)。

   これに対応する身体のありさまを表現したものが、敏感さになります。

.....質量

その状態にある時間と深度。治療においては頻度と量と質。病気においては深さと生命力との違和感(加齢によって原因がわからずに発症するものは、たとえ骨節であってもほとんど違和感がありません。それに対して、事故や風邪ひきなどは違和感が多いものです。総じて内傷病は違和感が少なく、外感病は違和感が大きいものです。)。

   生まれてから今まで生き続けているわかえですから、生命が圧倒的に勝っていると言えます。

   これに対応する身体のありさまを表現したものが、器の大小になります。


生命力の厚さは何によって保証されるか:生命の側の構え


・反発力(汗吐下によって支援される)
・受容力(消化吸収能力:器を大きく強くする)
・回復力(上記の処理を行う能力:継続的にやり続けること)



◆鍼灸治療の範囲内でこれを考えてみると・・・


攻撃するものとしての

鍼:細い太い:捻鍼が速い遅い:穴が当たる外れる

灸:時間が長い短い:温度が高い低い:大きさが大きい小さい(穴が当たる外れる)

これが受け手としての経穴に対して行われる相互関係が治療

経穴の状態としては、
   狭い広い:深い浅い:変化しやすいしにくい:鈍い敏感:硬い厚い柔らかい薄い:という器の問題と、
   熱い冷たい:湿る燥くといった機能の問題とがある。
生命力の強弱

・打撲の到達力を奇縁としての考察


生命力の強弱は、その生命の強弱と、その置かれている環境の順逆とのバランスという観点から考えなければなりません。すなわち

1、環境の順逆に対する評価方法と、

2、生命の強弱に対する評価方法、そして

3、相互の関連の密接度

という三点から眺める必要があるわけです。
この三番目に、意思をもつ人間の環境への取り組み方の自由度が存することとなり、ここにおいて精神世界やビジネスマンの能力開発といった多様な側面へと人生を導いていく方法論が思考される可能性が出てくるわけです。


環境の順逆と生命力の強弱は同じ評価方法で考えることができます。ただベクトル(方向)が異なるだけです。このため、環境には順逆というアナログ的な評価が与えられています。つまり、環境が順となるか逆となるかということは、その生命力の順応性によるものであり、その順応が肯定的なものであるか否定的なものであるかということは、よりおおきな思想的観点を必要とするということとなります。言葉を換えると、すべての環境は自身のかかわり方によって自分自身を成長させるものとなり、また、破壊させるものともなるということです。多くの場合、このアワイ、曖昧な位置を人間は生きています。さまざまな妥協を行いながら。

密度  方向=位置と歪み(多いとぶれる:一点だとぶれない:肝気を張るということはこの一点を作ること)至誠通神

敏感さ 速度(違和感を感じる能力とレベル)速度が遅いと違和感に気づきやすい。速度が速いと違和感を感じにくい。

大きさ 質量(重さ)


  ※外邪の侵襲力=治療が入る力


生命の厚さとは生体側の生命の構えである

  反発力 汗吐下によって支援する

  受容力 消化吸収し生命を大きく強くする

  回復力 反発と受容を適宜適切に行うことのできる能力
腰痛考


腰痛を起こす理由にはたくさんの原因が基本的にあります。そしてその多くのものは、内因、すなわち体質によっています。そのため、腰痛を治すということがそのままその体質を治すということにつながることがあるわけです。

たぶん西洋医学で明確に対処している腰痛の原因としては、打撲や捻挫や使い痛みということになるのではないでしょうか。

東洋医学ではこれ以外に、風邪、食べすぎ、全身の疲労、ある種の疲労物質の蓄積、先天的な弱さ、精神的な問題などを考慮に入れます。

そのため、腰痛という症状を呈して患者さんが来院された場合、その腰痛になった時系列(個人史)の問題と、現状把握(現在における問題に深さの表現)がなければ、腰痛に対処することはできないと、まず第一に考えます。

そしてそのような初診をくり返しているうちに、本当にこの腰痛がこの患者さんの主訴なのだろうか。とか。この患者さんの身体が本当に訴えたい問題は腰痛なのだろうか。という疑問がわいてくることがあり、全身の状況の中で主訴などを位置づけなおした方が、より根本的な治療となると考えられます。この方法論が確立されたものが書物となり、「一元流鍼灸術の門」ができています。

腰痛という疾患があるのではない。その患者さんの生命が病んでいるのだ。ということでしょうか。そして治療に当たっては、病気を治療するのではなく、生命を励ましていくということが大切な根本的な概念となります。



...中耳炎の膿


膿、耳だれから内湿を疑うということは間違いです。
これは、その局所の病理を考えると理解できるでしょう。

器官が損傷されるということは、その場所の秩序が破壊されるということです。

秩序が破壊されると、争乱が起こります。これを正邪の闘争といいます。
正気とは再度秩序を立て直そうとする勢力、邪気とはこれを阻止し破壊し尽くそうとする勢力です。
その際に討ち死にした正気と邪気とが死屍累々と堆積して流れ出したものが膿、耳だれです。

ですから、生命力の状態を表現する内湿云々と、局所から出てくる膿とは、直接の関係はないわけです。

実実の体質は存在しない


先日の勉強会の帰り際にある人から「実実の状態というのは存在するのでしょうか」という質問を受けました。私は即座に「存在しません」と答えました。彼は重ねて「外邪によって侵襲されている場合でも実実の状態というのはないのでしょうか」と質問されました。私はやはり即座に「ありません」と答えました。ただその理由について明確にしきれていない気がしますので、ここで述べておこうと思います。


教科書的な実実の人というのはいわゆる体力が充実し筋骨隆々とした状態のプロレスラーのような人が描かれます。このような人は生命力が充実しきっているように見えますので、実実の人と呼んでいるわけです。

けれども生命力が充実している人というのは、内部に蓄積する力だけでなく排泄する力も充実している人のことを意味しています。新陳代謝が活発に行われている生命こそがまさにもっとも充実している生命です。そしてそこには排泄能力が当然含まれるわけですから、上記したような実実の人というのは、その筋骨隆々とした外見だけでは、充実した生命力を持つ人と呼ぶことはできないわけです。


では外邪によって侵襲された時は実実の人にならないのでしょうか。傷寒に補法なしと言い、汗吐下という瀉法が傷寒の病を治療する方法となっていることからも、この考え方は支持されるように思えます。

けれどもよく考えてみると、生命力の弱りがなければ邪気が入ってくることはありません。これが東洋医学の基本的な考え方です。ですから、邪気に侵襲されるような人は生命力がどこかで虚している人であると言えます。ということは邪気に侵襲されているという点ですでに、実実の状態ではないと言えます。


充実した生命というものは、淀みなく流れ続ける生命の状態のことです。邪気に侵襲されても、その邪気を払いしなやかに流れ続けるものこそ、充実した生命なのです。

刺鍼法や手技、使用する鍼について


「この本には刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はないのでしょうか?
一元流は中医学の流れのようなので太い鍼で鍼管を使わずというのが通常なのでしょうか?それとも手技や鍼はどのようなものを用いてもいい、ということなのでしょうか?先生方は通常どのような鍼をどのような刺し方をされ、どのような手技を加えておられるのでしょうか? 」


一元流鍼灸術は、東洋医学のオーソドックスな見立て方を探求しているものです。普通に四診合参して見立てて治療しているわけです。けれども気一元の観点に立って見立て方を統合しているというところが不思議なことに現代の東洋医学の研究家の間では重視されていないようなので、敢えて名前を「一元流鍼灸術」とつけているわけです。


私が鍼灸師なので「鍼灸術」という名前をつけているわけですけれども実は、単に東洋医学の見立て方を提供しているに過ぎません。診るということを徹底していくとどうすれば治っていくのか、治らないのか、治せないのか、ということが見えてくるのです。

私は鍼灸師ですので基本的に経穴にアプローチしようとします。一次的な目標は、目標とする経穴の状態を変えることです。それを通じて全身の状態の変化を主に経穴診と腹診と脉診で点検しています。


経穴の状態を変えるための手段は何でもかまいません。指を触れるでも良いし、お灸をするでも良いし、鍼をするでも良い。方法には拘わりません。けれども四診に基づいて患者さんを診る理論を練り上げることを基本としているので、小難しい手技を用いることは極力避ける方向にあります。手技が練り上げられてしまうと、手技に頼ってしまって、なぜ治ったのか治らなかったのかというところが曖昧になると考えているためです。

二次的な目標として四診の地点の変化を診ていくということの他に、筋肉の状態の変化を診ていくということもあります。それによって骨格が大きく変化することもあるためです。このあたりのことを考えていくと、手技療法へと視点をもっていくということも可能で、そのあたりの探求のために一元流鍼灸術で提供している見立て方法を使用することもできます。


そのため『一元流鍼灸術の門』には、刺鍼法や手技、使用する鍼などの記載はありません。

まとめますと、

1、東洋医学に基づく患者さんの見立て方を中心課題としている。

2、見立てをすると何をなすべきかは自然にわかる。

3、何をなすべきかがわかれば、鍼の番手や手技などは小手先の技に過ぎないことがわかる。

4、また、刺鍼法や手技などは、個人の能力によって大きく異なる

5、人によって見立てに関係なく治療効果を挙げることができる場合があるが、そのような属人的な能力によらない治療法を目指している。

6、逆に言えば、上手な技術者でもこれを基礎とすればさらに誤治のない名人になれるところのものがこの見立てである。

7、手技に拘わらないことを基本としている。見立てが正しいかどうか、その論理を探求しようとしているため、手技という個人技が入る余地がないように工夫している。そのため鍼は置鍼、お灸はせんねん灸程度。

8、東洋医学的な見立てができれば、鍼灸に拘わらず、手技治療全般に応用することができる。

といったことが挙げられます。
処置とその変化について


八月の勉強治療会は、触れるということを通じて体表観察をし、背部兪穴を選択してそこに温圧灸器で処置をし、どのような変化を得ることができるかということを手眼として行いました。

ネットを通じて配布したファイルにあるとおり、温圧灸器のいいところは、選択した経穴に対して温補にしか効かないということです。弛みや陥凹や冷えといった、虚が深く問題の多い経穴に温補の処置をすることによって全身状態がどのように変化するか観察するうえで最適の道具である、という風に課題を言うことができます。

基本的に温補を加えているわけですから、顔色が良くなり・舌の赤みは増し・脉幅が広くなり滑脉が増えるという風に想像することができます。皆さんは体表観察をしていてそのような変化を見つけることができたでしょうか?それとも意外な変化を得ることになったでしょうか?ここからが勝負所なんですね。温補を加えると常識的な変化の有様は上記したようなもののはずです。

経穴の戻りが良いにもかかわらず変化が少ない場合は、全身の生命力が充実しているか湿痰や瘀血が強くて気の疏通が悪いために生命力の変化を得にくいと考えられます。

経穴の戻りは悪いのに全身状況の変化が大きなものは、内傷病で生命力の巡りがよい敏感なタイプであるということが考えられます。いわゆる気虚気滞で肝気を張ってがんばっている人にもこのような傾向があり、経穴の戻りが悪いどころか経穴反応がかえって深くなり、悪化しているようにみえることもあります。

背部兪穴を温補して脈の力が弱くなったと感じることもあったでしょう。浮いていたものが納まるだけならまだしも、中位にあるように見えていたものが沈濡弱といったまるで内傷病の代表のような脉状になったものもありました。これは本来の生命力が現れたものです。本来的に内傷病なので、肝気の張りが弛みあるいは疲労が取れると、裏を養うために生命力が裏に納まりかえるわけです。同じことは舌診にもいえます。このような人は温補しているのに舌の赤みが消えて白っぽくなったり弱くなったりします。

以前の定例の勉強会で、脉状というものはその人の生命力に応じて決められなければならないものであって、術者の指に受ける感じだけで決めていると間違えることになるということを述べたことがあります。そこに至る初期段階の反省項目として、今回の勉強治療会は大きな問題提起の場となったのではないかと思います。

一歩一歩、生命を観、その変化を観るという面白さ不思議さを味わえるようになると嬉しいです。

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