現実の世界には普遍的なものなどありはしない、普遍的なものは概念として・言語として・存在するだけだ、という唯名論の見解が正しいなら、科学の範疇や法則なども言語としての普遍性以外のものではないことになる。こんな見解を、理論の正否を現実とつき合わせて証明する実証科学者が認めるはずはない。しかし現在でも、論理実証主義者は彼らの「意味論」に基づいて、科学とは科学言語のことで科学の創造とは言語による命題や定式の創造である、と主張している。この発想は、諸科学の用語を統一するならばそれは諸法則の統一になり、諸個別科学を統一することもできるのだという、「統一科学」(the unity of science)の妄想にも発展した。個別科学はいずれも抽象の産物である。個々の分野のそれぞれ特殊な運動形態を持つ対象から、それぞれ特殊な内容を持つ抽象として成立している。科学者たちは、それらの特殊な諸対象が客観的な結びつきを持つことを認め、そこから諸個別科学に対象のありかたに対応した理論的な関係が生まれ、体系化されていくのが科学の統一だと理解しているから、哲学者の「意味論」に基づいたこんな妄想が説得力を持つはずはなかった。
高度に抽象的な内容の語は、われわれが日常それと意識せずに習慣的に使っている。<形式動詞>とよばれる種類の語もそうなのだが、中でも昔は「あり」と言い現在では「ある」という語は他にくらべてさらに抽象的で、この語の性格や内容を言語学の観点から検討しているのに、何か哲学上の問題でも扱っているような気がしてくる。事実、哲学者たちは、何かが「ある」という問題を、昔から哲学の一環として論じて来た。たとえば、ヘーゲルの論理学にしても「純粋な有」(das reine Sein )からはじまって、次第に具体化され体系化されていく。これは絶対概念のありかただと説明されているが、「有」というだけでそれ以外の性質をまったく持っていないものがそのままポコンと現実の世界のどこかに存在するという発想は、なかなかのみこめないし、それを展開するヘーゲル哲学も難解に思われる。これは、数学で扱っている、位置しか持たない「点」だとか、長さだけあって幅を持たない「線」だとかいうものが、そのままポコンと現実の世界に存在していないのと同じである。【これらはいづれも、現実の世界に存在はするが現実には切りはなすことのできない一面が、抽象によって観念的に分離されて扱われたもので、その意味では人間の頭の中にしか存在しない】。「有」は人間の抽象活動のいわばどんづまりの産物であるが、ヘーゲルは観念論的に、その頭の中の存在を現実の世界に持ちこんで解釈したのである。われわれにしても、数学や言語学などで、ヘーゲルのやったのと共通したまちがった解釈をする可能性があるし、近くはフランスの構造主義者たちの中にもそれをやった者があることを、心えておく必要がある。
…………………………………………………………………………………………………… 自動詞同士の「ヰル」対「アル」でも、能動所動の区別に拠って説明するのでなければ、理解が徹底しないだろう。「ヰル」は履歴を背負った有情者が或る場所を占めることを表す。それまでに或る場所を占めていた者だけが、新に或る場所を占めることができるので、忽然と「ヰル」ことはできない。「アル」は哲学でいう所与(ドイツ語の es gibt etwas)で、むしろコツ然と「アル」方が普通であろう。所与と所有とは、我々の言語心理の上では紙一重であって、