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言語学コミュの言語と抽象 (1)

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 言語は概念という抽象の産物による表現であり、抽象という精神活動の理解なしに言語を論ずることはできません。しかし、現在の言語論は形式と機能による現象の説明の段階に終始、停滞し、それに対する自覚も反省も全くありません。

 大塚, 望

「動詞の形式性について―橋本、山田、松下、時枝―」
    https://soka.repo.nii.ac.jp/records/37092

では、形式用言,形式動詞,補助動詞を取り上げながら抽象については、

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 さらに,「ある」や「する」はこれまで筆者が研究したところ(大塚2002,2004,2007,2010)では,その補充する語の意味内容が具体的なものから抽象的なものまで,あるいは,状態性のものから動作性のものまで,非常に多様な語が見られた。
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と一言述べるに留まり、「ある」「する」という語自体の抽象性ではなく、「その補充する語の意味内容」の「具体的なものから抽象的なもの」について論じている。「ある」や「する」自体については「実質的意義の稀薄さあるいは文法的機能の専用さ」を論じ、更に

 そして,包括的な形式性動詞の研究のまとめに向けて論を進めていきたい

ともっぱら形式/機能だけを論じ、博士論文

『現代日本語における多機能動詞研究―「する」と「ある」―」』
       https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/50766

を提出するに至っています。

 こうした言語学の現状に対し、既に70年代に高度に抽象的な内容の語に付いて考えながら、抽象をどう理解するかの問題を論じたのが、

 三浦つとむ 「言語と抽象」(『試行』NO.43;1975.7.)

です。最初に「あり」を取上げ抽象について具体的に論じています。上記を典型とする「形式用言,形式動詞,補助動詞」論の誤り、非科学性が明らかにされています。長くなりますが、以下にこの最初の節を引用しておきます。


  言語と抽象      三浦つとむ  

 一 <形式動詞>の「あり」と万物流転の世界観

 「人間」「生きる」など、ごくふつうの<名詞><動詞>でも、そこに示されているのは話し手・書き手の概念で、抽象とよばれる精神活動の所産である。語の中には高度に抽象的な概念を示すものがいろいろあるし、それらはそれぞれ独自の重要な役割を担っているから、言語を学問的にとりあげる者には当然この精神活動の理解が求められることになる。けれども言語学者の著作をしらべてみると、その中のもっともすぐれた人びとですら抽象についての理解なしに高度に抽象的な内容の語を論じており、しかもそれを自分ではすこしもおかしいと思っていないようである。形式主義的な言語学では、研究の対象は形態と機能であって、内容が抽象的であるかないかはどうでもいいことであるから、抽象に関心を持ち抽象を理解しようとする学者にしても、その理解を援助してくれる文献にめぐり合わないために、右のような事態が生じたのである。この小論では、高度に抽象的な内容の語について考えながら、抽象をどう理解するかの問題にも触れてみよう。

 抽象の無理解は、言語について考える人びとを、大別して相反する二つの方向へ導いていく。一方は表現と対象を【直結する】タダモノ論的解釈の方向であり、他方は概念を対象から【切り離す】不可知論ないし観念論的解釈の方向である。前者が唯物史観をなまかじりして左翼的ポーズをとると、現在の社会は資本主義で貨幣すなわち抽象的人間労働が人びとを支配しているから、上部構造に属する言語も当然抽象的になるという解釈も生まれてくる。フランスにこの種の珍説が出現すると、さっそく尻馬に乗る日本人もいる。後者を具体的にいうと、唯名論やカント主義や論理実証主義者の「意味論」(Semantics)の方向であるが、直結では説明できないと気づくと切りはなしにとんぼがえる者もいて、ここでもタダモノ論は観念論に通じている。後者の方向をとると言語にありもしない機能を押しつける妄想に行きつくし、あとでとりあげるように鈴木孝夫の『ことばと文化』(岩波新書)も自分で実証してくれている。

 現実の世界には普遍的なものなどありはしない、普遍的なものは概念として・言語として・存在するだけだ、という唯名論の見解が正しいなら、科学の範疇や法則なども言語としての普遍性以外のものではないことになる。こんな見解を、理論の正否を現実とつき合わせて証明する実証科学者が認めるはずはない。しかし現在でも、論理実証主義者は彼らの「意味論」に基づいて、科学とは科学言語のことで科学の創造とは言語による命題や定式の創造である、と主張している。この発想は、諸科学の用語を統一するならばそれは諸法則の統一になり、諸個別科学を統一することもできるのだという、「統一科学」(the unity of science)の妄想にも発展した。個別科学はいずれも抽象の産物である。個々の分野のそれぞれ特殊な運動形態を持つ対象から、それぞれ特殊な内容を持つ抽象として成立している。科学者たちは、それらの特殊な諸対象が客観的な結びつきを持つことを認め、そこから諸個別科学に対象のありかたに対応した理論的な関係が生まれ、体系化されていくのが科学の統一だと理解しているから、哲学者の「意味論」に基づいたこんな妄想が説得力を持つはずはなかった。

 高度に抽象的な内容の語は、われわれが日常それと意識せずに習慣的に使っている。<形式動詞>とよばれる種類の語もそうなのだが、中でも昔は「あり」と言い現在では「ある」という語は他にくらべてさらに抽象的で、この語の性格や内容を言語学の観点から検討しているのに、何か哲学上の問題でも扱っているような気がしてくる。事実、哲学者たちは、何かが「ある」という問題を、昔から哲学の一環として論じて来た。たとえば、ヘーゲルの論理学にしても「純粋な有」(das reine Sein )からはじまって、次第に具体化され体系化されていく。これは絶対概念のありかただと説明されているが、「有」というだけでそれ以外の性質をまったく持っていないものがそのままポコンと現実の世界のどこかに存在するという発想は、なかなかのみこめないし、それを展開するヘーゲル哲学も難解に思われる。これは、数学で扱っている、位置しか持たない「点」だとか、長さだけあって幅を持たない「線」だとかいうものが、そのままポコンと現実の世界に存在していないのと同じである。【これらはいづれも、現実の世界に存在はするが現実には切りはなすことのできない一面が、抽象によって観念的に分離されて扱われたもので、その意味では人間の頭の中にしか存在しない】。「有」は人間の抽象活動のいわばどんづまりの産物であるが、ヘーゲルは観念論的に、その頭の中の存在を現実の世界に持ちこんで解釈したのである。われわれにしても、数学や言語学などで、ヘーゲルのやったのと共通したまちがった解釈をする可能性があるし、近くはフランスの構造主義者たちの中にもそれをやった者があることを、心えておく必要がある。

 <形式動詞>の「ある」にしても、ここでとりあげられた内容がそのままのありかたでポコンと現実に存在しているわけではない。現実に存在する個々の特殊な具体的な属性が、同時に特殊性を超えた普遍性を持つことを認め、その普遍的な側面を抽象において観念的に分離して扱っているわけである。別のいいかたをするならば「ある」が直接扱っているのは人間の頭の中にしか存在しない対象の観念的な加工物であるから、現実の具体的な事物について「ある」と述べたときにも、それは対象のこのような一面をとりあげているとはいえ、【そこで捨象された他の一面が存在することを否認しているわけではない】。紙の上に描いた建築物の設計図は、直接には対象を線や面で把握したものを表現しているけれども、その対象が木材や鉄やガラスとしてそれぞれ特殊な性質を持っていることを何ら否定するものではないし、「ある」の場合もこれと共通しているのである。言語も設計図と同じように、対象から認識へそして表現へという過程的構造を持つと理解した学者なら、言語規範としての「ある」はこれに直接表現される抽象的な属性概念を規定しているにすぎないが、この規範に従った言語表現としての「ある」の抽象的な属性概念は実は【止揚されたもの】であると気づくのも、それほどむずかしいことではない。具体的な属性認識は表現にあっては欠けているが、その表現の背後に存在する話し手・書き手の対象認識にはふくまれている。

 金田一春彦は<動詞>をさらに分類して、<状態動詞><継続動詞><瞬間動詞><特殊動詞>とし、<状態動詞>を「状態の不変化を表す動詞」と規定した。「ある」は<状態動詞>の一つだという。このような「ある」の受けとりかたは別に新しいものではない。昔から「あり」の分類について学者の間に意見がくいちがいがあったのも、内容から見て状態の不変化を示す語と受けとったからである。不変化の属性をとりあげる<用言>は<形容詞>であるから、「あり」を内容から考えると<形容詞>に属しているようにも思われてくる。おまけに、<動詞>の活用の終止形はふつうウ段で終るのに、「あり」はイ段で終る点も<形容詞>と共通している。それで鈴木朖は、「あり」を<作用の詞>ではなく<形状の詞>に入れていた。しかしながら、「あり」を形式から考えると、変格ではあるがラ行変格活用であって、<形容詞>には存在しない命令形の「あれ」を持っている。そして<動詞>と同じように<接尾語>や<助動詞>が直接に結びつく。これらの点では<動詞>に入れるのが妥当だと思われるし、内容よりも形式や機能を重視する学者は、「あり」を<動詞>と受けとることになる。「あり」をはじめて<動詞>に入れたのは富樫広蔭であるが、それ以来明治時代のいわゆる「旧派」の学者もヨーロッパの文法論を模倣した学者もこれにならって、今日なお定説になっている。しかし、山田孝雄は<動詞>と<形容詞>をその内容で分類し、<動詞>は属性を流動的推移的に把握するものと見たから、「あり」は<動詞>でないと確信していた。『日本文法学概論』はいう。

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 こゝに古来その所属の不定なる「あり」といふ用言を見るに、これは【動詞の一類にあらぬことは明らかなり】。然らば形容詞に入るべきかといふにこれ亦その理なし。「在り」は実に形容詞にも動詞にも属すべきものにあらずして、二者に共通して兼ぬる点もあり、しかもその意義は【属性と名づくべきものを全く有せずして、ただ存在を示すのみのもの】なるが、用ゐ方によりては存在の意もなくなりて、ただ陳述の力のみをあらわすに止まる場合もあるなり。しかもこの「あり」はその活用所謂動詞に似て亦一種独特の趣ありて、古来変格と呼ばれたるものなり。かゝれば、上述の種々の点からしてこの「あり」を先ず他の用言と区別することとせば、古来の難点を処理するを得べし。(傍点は引用者)
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 こうして山田は、「あり」をその内容から<存在詞>と名づけ、<動詞>とは別に一品詞として立てたのだが、彼以後の形式主義者がこれを無視したのはいうまでもない。

 結論だけを見れば形式主義者の<動詞>説が妥当である。山田はせっかく内容をとりあげながら、そのとらえかたが誤っていたために、「あり」を<動詞>から追放する結果になった。問題は、【存在するということを属性から除いた】山田の属性観にある。キリスト教的世界観からすれば、万物は造物主である神の創造物であり、髪の毛が一本ぬけ落ちるのも神の意志によるものであるから、事物の存在を事物それ自体の属性と見なすことはできない。山田の属性観が、神学の影響を受けたヨーロッパの哲学から受けついだものか否か、それは不明であるけれども、【唯物論的な世界観からすれば事物の存在は事物それ自体のもっとも普遍的な属性である】し、科学も自然成長的にこの属性観をとって造物主の存在を認めない。「あり」は哲学者のつくり出した用語ではなく、自然成長的に生まれた語であるから、われわれの祖先が特殊的な属性と統一されている普遍的な属性をどう考えていたか、ふりかえってみることにしよう。周知のように、古代の人びとの素朴な世界観は、【万物流転】であった。文化の程度の高いところでは、この世界観は思想となり、哲学となり、「生者必滅、会者定離」と説かれることにもなったのだが、文化の程度が低く思想や哲学のかたちをとらないところでも、この世界のありかたは人びとの生活経験を通じてその認識を規定していた。万物流転という事実は、思想や哲学とよばれるイデオロギーをつくり出す以前に、言語規範とよばれるイデオロギーに無自覚的にとりあげられ、万物創造の神話とは独立して維持されていた、と見ることができる。「あり」が実体の状態の不変化をとりあげていても、その不変化は形而上学的に【固定化されたものではなく、万物流転の一つのすがたとしての不変化であり、変化と統一してとらえた不変化】であった。
 
 「あり」を<動詞>と見るならば、こんどは、<動詞>は属性を流動的推移的なものと把握した語であるという、山田の規定のほうが疑わしくなってくる。時枝誠記が「あり」を<動詞>に入れ、山田の<動詞><形容詞>の内容による区別を意識的に拒否したのも、一つの理由はここにあったと推察できる。これは、古人の世界観が弁証法的で不変化と変化が弁証法的に統一して把握されていたことを理解しない限り、解決は不可能である。この統一は、現に【属性の発現や消滅など変化を要求するところの命令形】がここでも「あれ」というかたちで存在することで、実証されているのである。

 【「あり」は、このようにもっとも普遍的な属性を抽象したからこそ、無生物と生物との区別もしなければ動かぬものと動くものとの区別もしないで、あらゆる事物の存在の表現に使われていた】。属性の運動が継続・進行することは、その流動的推移的な変化の一つのありかたであるから、具体的な属性は<動詞>で、継続・進行は「あり」でとりあげて、「水流れて【あり】。」のように表現した。現在では、かつて「あり」が使われていた分野に「いる」が侵入して、継続・進行も「水が流れて【いる】。」と表現している。それで、【「ある」を論じるには、まず「あり」の性格を理解してから、使いかたの歴史的な変化を追跡する必要がある】。「ある」と「いる」とを、対象と直結してちがいを論じる学者の一人に、三上章があるが、『現代語法序説』はつぎのように哲学を持ち出して論じている。

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 自動詞同士の「ヰル」対「アル」でも、能動所動の区別に拠って説明するのでなければ、理解が徹底しないだろう。「ヰル」は履歴を背負った有情者が或る場所を占めることを表す。それまでに或る場所を占めていた者だけが、新に或る場所を占めることができるので、忽然と「ヰル」ことはできない。「アル」は哲学でいう所与(ドイツ語の es gibt etwas)で、むしろコツ然と「アル」方が普通であろう。所与と所有とは、我々の言語心理の上では紙一重であって、

  マあ待テ、私ニイイ考ヘガ【アル】
  昔々、或ル所ニオヂイサントオバアサンガ【アリマシタ】

の二文はパタアンを等しくするのみならず、動詞の意味もほとんど同じだと考えられる。近頃の小学読本に、この「アリマシタ」を「ヰマシタ」に改めたものがあると聞いたが、ほんとうなら嘆かわしい改悪である。
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 学者が言語論の中で哲学を持ち出しても、別に感心する必要はない。哲学者たちの主張をよりどころにして言語を解釈するのは、哲学の信仰から生まれたまちがったやりかたである。実は逆に、言語表現の過程的構造、その中でも無自覚的になされている<形式名詞>や<形式動詞>の使いかたを明らかにすることが、ひいては哲学者たちの主張の正しいか否かを明らかにすることにもなるのである。それにしても、これまでは存在していなかった「イイ考ヘ」が、頭の中に「コツ然と」生まれるように、これまでは存在していなかった「オヂイサントオバアサン」が「コツ然と」どこかの場所を占めて、「アリマシタ」といわれることになったなどという珍説は、観念的所産を現実の世界に押しつける観念論哲学者でもなければ持ち出さない。われわれは、同一の対象でも、そのとらえかたいかんで「ある」を使ったり「いる」を使ったりしている。この使いかたのちがいについては、本誌38号の論文で説明しておいたから、参照していただきたい。//

注 38号の論文:「日本語の表現構造」

コメント(11)

上記で明らかなように、

 大塚, 望

「動詞の形式性について―橋本、山田、松下、時枝―」
  https://soka.repo.nii.ac.jp/records/37092

は、「抽象についての理解なしに高度に抽象的な内容の語を論じており、しかもそれを自分ではすこしもおかしいと思っていない」典型ということになります。■
Topiの論から明らかなように、<形式動詞>という名称は不適切であり、正しくは<抽象動詞>と呼ばれるべきものです。

大塚論文は、<形式動詞>の判断基準について次のように述べています。

 また,一考すべきは,「なる」と「言う」を形式動詞に入れていいかどうかの判定である。「ある」「する」についてはこれまで形式動詞から外れることはなかったが,「なる」と「言う」については判断が一様ではない。意味論だけでなく,統語論的な観点からも確認する必要がある。//

ここでは、意味論と統語論が対比的に論じられていますが、正しくは語の意義と文での意味の関係であり、この相違と関連が全く理解できていないことが明らかです。さらに、

 したがって,「です」「だ」は実質的な意味は無く,ただ文を成り立たせるためだけに存在する文法機能専らの形式だと言える。一方,「である」の「ある」は実質的意味は無く,ただ文を成り立たせるためだけに存在する文法機能専らの形式動詞と言える。その違いは,動詞の用法を持つか否かという点のみである。//

と、<「です」「だ」は実質的な意味は無く」>、<「である」の「ある」は実質的意味は無く,ただ文を成り立たせるためだけに存在する文法機能専らの形式動詞>とされ、「その違いは,動詞の用法を持つか否かという点のみである。」としています。

これらの語には意義が存在せず「文法機能専ら」の存在という奇妙な結論が導かれています。語が意義を持たずに、文法機能を如何に発揮することができるのかを説明できなければ全く無意味な論であるという他ありません。■
この大塚論文では、単に抽象に対する無理解だけではなく文法、意義、意味、そして根底にある言語表現の過程的構造が全く理解されていないため、機能を実体視することになってしまっています。

言語は規範を媒介とした表現であり、語の意義もまた、形式と内容が規範により結び付けられています。

さらに、文規範を媒介として話者の認識が文に表現され意味が生まれるのであり、文法は媒介でしかなく、それを実体視するところに「文法機能専ら」の語などという理解、誤認が生じたものです。

助動詞「だ」は肯定判断を表し、「です」はさらに丁寧形である。これらを付属語と機能で分類し、その意義が理解できずに「文法機能専ら」の語などというのでは科学的、論理的な日本語文法論の展開など望むべくもないのは火を見るより明らかということになります。■
>>「である」の「ある」は実質的意味は無く,ただ文を成り立たせるためだけに存在する文法機能専らの形式動詞と言える。その違いは,動詞の用法を持つか否かという点のみである。


は、正しくは指定の助動詞「だ」+肯定判断辞「ある」で、肯定判断の重加による判断の強調です。これは、さらに抽象名詞「の」を介し、

 であるのである。
 であるのであります。

のように累加し強調されます。

「ただ文を成り立たせるためだけに存在する文法機能専らの形式動詞」というのでは、何故このような表現がなされるのかを解明、説明することができないのは明らかです。■
>>[4]

>指定の助動詞「だ」

誤りです。

「だ」は動詞を助けていませ〜ん笑い。指定するのは「だ」ではなく、話し手です。正しくは、「だ」は肯定判断辞です。

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