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「ニーベルングの指環」コミュの50人の評論家に聞く「ワーグナー、ここが好き・嫌い」

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この記事は1983年4月号の「音楽の友」に掲載されていたものです。
 ご存命の方が殆どなので版権フリーとなると約100年近く待たなければなりません。
 如何せんそのため無断転載にあたり、思いっきりブラックですので・・・ミクシー内だけに納めください。
 
 とはいえ、大変面白い内容なのでこのまま歴史の彼方に置き去りにしてしまうのは文化的大変な損失ではないかと思い、ここにご紹介いたします。


■■■アンケート■■■

?ワーグナーはお好きですか?
(積極的に聞かない場合は一応「嫌い」にしてください。)

?その理由をお書きください。

?最もお好きな作品を一つ挙げてください。

★アンケートをお願いした50名のうち44名の方からご返答を頂きました。(掲載はアイウエオ順)



皆さんの大好きなコーホー先生や、堀内先生のお答えが面白いですヨ。

■□●○▽◆■□●○▽◆■□●○▽◆

2006年2月9日を持ちまして転載終了しましたので、
最後まで読んで下さった貴方!

貴方ですよ!

何やら沸々と字を書きたくありませんか?

所信表明は如何ですか?

ご投稿お待ちしております。

コメント(44)

 宇野功芳

?好き
?音楽が広々と広がってゆくから好きだ。
同じロマン派でも、ブラームスは息苦しい。
音楽が個人的過ぎる。
彼の部屋の中に通され、それも薄汚れた男所帯で、締め切った室内は暗く、空気は澱んでおり、あまつさえ、彼の愚痴を聴く羽目に成る。
泣き言を言ったり、後悔したり、反省したり、えぃ、うるせぇ!

 そこへゆくとワーグナーの世界は何と広いことだろう。
太陽に当って、思い切り息を吸い込んで・・・・。
彼の魂も男性的だ。
反省したり、後悔したりするひまに先へ進んでいく。
人がどう思うと構わない。
彼は自分の思ったことをドンドン実行してゆく。
そのために人を傷つけようと、人に迷惑をかけようと意に介さないところがある。

 だからワーグナーの作品の中でも、「トリスタンとイゾルデ」は余り好きではない。
あの行き所の無い前奏曲が最たるものだ。
もちろん第三幕で、待ちに待ったイゾルデの母(姿?>村正注)が見え始めるあたりの音楽は胸が弾むが、第二幕などはあまりに不健康だ。
やはりワーグナーは「リング」である。
そう、この作品があるからこそ僕はワーグナーが大好きなのだ。
若し彼が「リング」を書かなかったとした、積極的にワーグナーを好きだ、とは言い切れない無かったかも知れない。

 筋としても実にスケールが大きい。
気が遠くなるくらい雄大である。
音楽も決してそれに負けてはいない。
大管弦楽が使われているが、音色の瑞々しい明るさも信じられないほどだ。
音楽はいつも前向きで、じめつかず、自然に触れているようである。
だから変に理屈っぽい演出で、この作品に現代的な意味を持たせようとするのは誤り。
音楽が小さく限定されてしまうからである。
その点。抽象性に徹したヴィーラント方式が最高だ。

?「ニーベルングの指環」全曲

 
 大木正純

 例えば「ワーグナー大好き」とか、もっといいのは「ワーグナーを聴くと吐き気がする」といった極端な答えの方が歓迎されそうですけれども、現実はなかなかそう都合よくはゆきません。
「どちらかと言えば好きとは言いにくい」というのが、甚だ曖昧で申し訳ありませんが私の回答です。
 
 伝記の類をあれこれ紐解いてみる限りでは、人間としてのワーグナーにはどうも親しみや愛着を覚えづらい所が在りますし、彼の音楽にもその性格的な灰汁の強さがはっきり顔を出しているような気がします。
また、じっと心に秘めてくれれば良かったものを、音楽家が理念だの思想だのを表立って振りかざすのは私はあまり好きではありません。
さらに、いわゆる「総合芸術」に向かって大きく膨らんでゆくよりも、少なくとも今現在の私は、純粋な音楽だけの孤独な世界の中に閉じ篭っていたい気分なのです。
こんな風に書いてゆくと、何だはっきり「ワーグナーは嫌い」なんじゃないか、と言われそうですが、しかし、いやいやしくも音楽評論を生業とする以上、好むと好まざるに関らずこの巨匠を何時も素通りしてばかりいるわけにはゆきません。
そして一旦ワーグナーを聴けばもう、その音楽に他愛無く圧倒されてしまうのはしょっちゅうですし、時には深く心を打たれ、不覚にも涙が零れる事だって無くは無いのです。
ワーグナーの音楽が嫌いとは、だから断じて言えないでしょう。

 一番好きな作品はさてどれでしょうか。
私の体力では「指環」は少々しんどいですし、「トリスタン」は舞台は兎も角レコードでは、聴いていて時々苛々してくる事が在ります。
「マイスタージンガー」は音楽は実に素晴らしいのですが、劇のお終いの所が一寸気に入りません。
まあ「ローエングリン」あたりがすっきりしていて一番好き、というのでは、やはり私はワグネリアンとは言えそうもありませんね。
 金子英男

?最も好む作曲家の一人。

?ワーグナーの音楽の最も魅力に感じるものは、生命の根源を追い求めている事からである。
それは生と愛が何なのであろうかを感じさせ、人の生き様に通じるものを持っている。
その音楽から感じられるものは理屈とか形式美的なものではなく、音楽によって正面から逃げる事無く心理を映し出したものである。
ワーグナーのように、音楽の生命でもある時間空間をこれほど感じさせる作曲家も少ない。
そして、それらの作品ほど人の呼吸を知った音楽も少なく、呼吸は生命に繋がるものであり、その感情の起伏の変化の高ぶりを見事に捉えていく感覚は素晴らしいものがある。
総合芸術とはいえ音楽自体の内容の質が高くなければ、これだけの表現力は生まれない。

 ワーグナーの音楽は、その大要を掴むだけでも膨大なスケールの大きさがあり、総てをぶっつけて聴かなければ到底その一角に辿り着く事も出来ない。
その壮大な山の裾野の周辺を掴むだけでも、かなりの時を要する事であり、その山に登るとなると、その高さは計り知れないものが在る。
しかし、その山の魅力に取り付かれると途中では到底引き返すことが出来なくなる。
それは、その音楽が深く人の心の中に入ってくるからである。

 確かに、現状を見れば国内でワーグナーの音楽に接する機会は非常に少なく、年に一、二度の上演が在ればよいほうであり、それだけ他のオペラなどに比べると出会うことだけでも難しい訳である。

 ワーグナーの作品は総合芸術的な要素の大きいものであるだけに、ワーグナー自身の求めた演奏の方法が現在でもバイロイトでその意志を貫き、百年を超え現存し、理想的な形で演奏が残されている点は最も恵まれていて、オリジナルの感覚に近い状態で接する事が出来るのは有難い。

?「ニーベルングの指環」
 河原晶子

 大変興味が在る、と云う事は、やはり好きである、と云う事になるのでしょうか。
ニーチェにあれほどの熱狂と反撥を引き起こさせ、ルートヴィヒ二世にワーグナー美学の具現化のような幾つもの城を作らせ、この20世紀末になってなお、パトリス・シェローやハンス・ユルゲン・ジーバーバークといった前衛・異端の演出家達にイマジネーションの宝庫を提供しているこの人は、単にドイツ後期ロマン派の作曲家というよりも、19世紀末の怪物的演劇人と呼びたいと思います。

 その上に彼はとても色っぽい人ですね。
先日、カルロス・クライバーの指揮による「トリスタンとイゾルデ」をレコードで聴きましたが、史上最高の“官能のドラマ”とも云えるあの作品を振る事が出来るのは、やはりクライバーのようなエロスの女神の従者になれるような人間に限られているように、ワーグナー自身もまた、飽く事無き情念の世界にとり憑かれた男だったのでしょう。
 
 ですから、ワーグナーの作品の中で最も好きなものは、やはり当然「トリスタンとイゾルデ」です。
ニーチェの謂う“ディオニュソス的なるもの”を当に具現化したようなトリスタンとイゾルデの愛の葛藤と浄化の物語には、愛の魔性と崇高なものが混然と一体化していて、そんな何やら得体の知れない情念の深みに益々魅きつけられてしまうのです。
ワーグナーという人自身も、そんな異様に人を魅きつける魔性を持っていたのではないでしょうか。
 
 そして最後に、非常に個人的なことなのですが、同じ五月生れの牡牛座人間としても、ワーグナーは私にはとても気になる人物なのです。
 木村英二(A2)

 ?近頃は「功、大好き」とU本が売れたり、「荒木大スキ」7んてU野Q選手が¥を積まれてヤ9ると入り、E気なI$だ。
7らば私だって「ワーグナー大好き」って、声O大24てEたい。
先日TVでA画「RIの詩」を見7O4たら、アリ・マッグロー演ずるジェニー(パリ2行って7Dア・ブー蘭J27らうのが夢だった)は、バッ葉と妄ツRト(とBトルズ)でルンルン気分とU。
私と好みがPッタ4カンカン7のはEが、「み73のワーグナー」とまでは言わ7かった。
7面倒9さいワーグナーでは、かわE青春恋IA画が台74だもん。キザ2聞こL。

 ?ジェニーと男の会話。
「私と結婚4たいの? どう4て?」
「どうし4って」
「それだKで10分4」。
そう。
どう4て好きかと訊かれても困っ茶う。
EからEのだ。
理Uは11、YY、Uまでも7い。
「Iするってことは後悔47事4」ってジェニーはUKど、音が9は人間と違って裏切ることも7いから、AQ2好きでいられる。
ワーグナーってU29だから、他の作虚9家では代替がきか7いのデS。
そうYっても4747聴いて身悶SるわKじゃ7い。
724ろNNと7がいから、Hラホッチラ聴9だけでも59労3だ。
45ともRことだ4。

 ?72が一番好きかと言われてもまた困る。
1O「UB環」4部作24てO9か。
7かでも「羅印之O金」「悪Q0」か7。
去年Xマス前にFMで聴いた黴露意図の「鳥酢嘆」はジン・ト2ッ9をWでQッと飲み7がら聴9とGンと9る。
「郎艶具淋」もZ(ズィー)分と昔から好き。
Cて1つを選ぶ7ら、9るCが、やっぱり4妖Nな「鳥酢嘆」でR。
 日下部吉彦

 ?好き。毎年のようにバイロイト詣でを実行するワグネリアンの一人。

 ?まず、ワーグナーの主張する楽劇理論に共鳴する。
音楽を、オトのみに限定しないで、文学や美術、演劇等と関りあう総合的な舞台芸術であるとする、彼の考え方に賛成。

 私自身、日ごろのコンサートを批評する立場として、音楽を”トータル”に聞く、見ることをモットーにしている事からも、ワーグナーの革新的な理論を評価するものである。
彼が創設したバイロイトの丘、森などの自然環境が、凡て、彼の音楽に奉仕するように設計されているのを感じる。
一時間はたっぷりある各幕間に、森を散策し、池の畔のベンチに腰掛けて、次の幕の開始を告げるファンファーレを遠くに聞く、あのムードが楽劇の中身に繋がる。

 それほどに伝統的なバイロイトでありながら、その演劇スタイルを、何年かごとに、思い切って一新する習慣のあることも、素晴らしい。
斬新な演出が登場する度に、賛否の両論が、轟々と渦巻くのは、いかにもワーグナーに相応しい“伝統”というべきだ。
《指環》の演出では、戦後もっとも物議を醸したともいえるシェロー演出が終わって、記念すべき今年から登場する新演出に、また興味が持たれる。

 ?最もワーグナー的、という意味では、やはり《指環四部作》や《トリスタンとイゾルデ》などとなろうが、私は敢えて《ニュールンベルクの名歌手》を挙げたい。
彼の唯一の喜歌劇的作品であり、この中に、彼の様々な要素が包容されているからだ。
音楽の美しさは、言うまでも。
アリアで一曲ということになれば、第三幕、ワルターの歌う《朝は薔薇色に輝き》が最高だ。
 黒田恭一
 
 ?凄く好きなときも在れば、できる事なら聴きたくないと思う事も在ります。
どうしてもどちらかにしろと言う事なら、好きと答える事にします。

 ?ワーグナーの音楽を好きと思い、自ら求めて積極的に聴くときは、必ずといっていいほど、気力が充実しています。
体調を崩していたり、あるいは気分的に落ち込んでいたりする時は、聴こうとも思いませんし、聴いてもろくな事は在りません。
ワーグナーの音楽の一種の圧しつけがましさをうっとおしいと感じてしまうからです。
そういう時は聴き手としてワーグナーの音楽に負けてしまっているのでしょう。
 ただ、こっちの気力が充実している時には、違います。
他では決して味わえない濃密さに触れて、体がぶるぶる震えるような感動を味わいます。
なぜか。
そこに混沌とした侭の状態の人間臭さが在るからです。
様式化される以前の人間臭さと言い直しても構いません。

 ほんの何気無い部分での一寸したオーボエの呟きでさえ、ワーグナーの音楽では尋常ならざる生々しさで人間臭さを発揮します。
そのために、これはたまらんと逃げ出したくなったり、まるで中毒患者が薬を求めるように聴きたくなったりするのだと思います。

 そしてもうひとつ、ワーグナーの音楽が徹頭徹尾エロティックなことも、気力が充分でないと聴けない事に関係しいるかもしれません。

 ?「トリスタンとイゾルデ」です。
お尋ねが無いにも拘らず、付け加えておきますと、最近特に気に入って聴いている「トリスタンとイゾルデ」のレコードは、少し前にでたカルロス・クライバーの指揮したレコードです。
 
 小石忠男

 「毒変じて薬となる」と云う言葉が在ります。
毒もほんの少量なら連日服用してもよく、体に良いものとなりますが、そうした状態では、それは“薬”であっても“毒”とはいえないでしょう。
行き成り妙な話なりましたが、ワーグナーの音楽は大好きです。
しかし積極的にはききません。
そういうと「嫌い」の方に分類されそうですが、そうではなくて、やはり「好きか嫌いか」と問われると「好き」の方です。
ただ、それはしばしば「ワーグナーの毒」といわれる様に、毒の味が好きなので、それを薬に変える様に、しょっちゅう、少しづつ聴くという事はしたくないのです。
つまり、しょっちゅう毒にあたる時間もなければ、健康にも良くないので、レコードで稀に、のめり込む様に聴きます。
それで、なぜ、ワーグナーが毒なのかと言われると、それは私自身そう感じているからとしか言えません。
以前にリストの伝記を書いた時、ワーグナーはひっとすると大悪人ではなかろうかと思いましたが、そうした気性が音楽にも出てしまうのでしょう。
革命運動をやっていたかと思うと、人妻に恋し、最後には国王を誑かすと言う悪い奴でも在るのです。
しかし、ワーグナーは音楽史上、最大の天才であると思います。
一人の音楽家があれほどの多面的な仕事をこなすというのは、大変な事です。
いや、そんな事よりも、彼の音楽の説得力にはほとほと感服しております。
もう、聴き始めると麻薬中毒の状態になります。
神経の弱い人は聴かない方が良いと思います。
初期の「リエンツィ」なども勇ましくて部分的には大好きですが、やはり楽劇以後の作品が良く、中でも「パルジファル」は人が言うほど神聖だとは思いませんし、別な人が言うほど創作力が衰えているとも思えません。
最も好きな作品として挙げておきますが、それ故、尤も稀にしか、聴く気に成れない作品でもあります。
 小林利之

 ?ワーグナーは好きである。

 ?と言っても、それは勿論、ワーグナーの作品―――楽劇を中心とするワーグナーの音楽を好きなのだ、という意味に於て、ワーグナーを好きなのである。
初めて劇場で上演されるオペラを観たのも、ワーグナーであったし、初めて買ったフルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏するレコードも、ワーグナーの作品。
初めて揃えた個人の著作全集もワーグナー全集である。
最初、ヨーロッパへ行こうと考えたのも、トマス・マンの作品の世界に憧れと同時に、ヴィーラント・ワーグナーの演出するバイロイト音楽祭を聞くための衝動に駆られていたからであった。
従って、こういう理由で、ワーグナーを好きなのだ、等と言った理論は、私には、全く無いのであって、お恥ずかしいけれど、唯只、ワーグナーの作品に惹かれて、時には、たった一つのライトモチーフを思い浮かべただけで、我胸は躍るのである。
それを耳にするだけでも、様々なイメージが雲の如く湧いて来て、まだ実際の上演に接した事の無い作品であっても、レコードを聞くだけで、自分だけのステージを想像する事も可能である。
他のどの作曲家のオペラよりも、ワーグナーの作品は、イメージの許容範囲が広い。
だから、あのパトリス・シェローの演出も、今では充分理解できるようになった。
ワーグナーの音楽を好きなのだから、その音楽を歪めるのでなければ、どのように解釈されても、少しも気にならない。
自分だって、随分勝手なイメージを抱いて、それを聴くのだから。

 ?「トリスタンとイゾルデ」が、最高に素晴らしいと思うし、また、幾度でも聴きたい。
もし、時間が無い時には、前奏曲と愛の死だけでもいい。
 小山 晃

 ワーグナーの音楽を大変好んでいるのは確かだ。
楽劇を中心にして在来かなり積極的に見聞して来たつもりだし、これからも、おそらく、それは続くであろうと思っている。
ワーグナーの音楽の何処がそんなに良いんだと訊かれれば、やはり根底にある人間臭さに魅力を覚えるからだ、と言う他無い。
それはもう殆どビョーキみたいなものであり、本能的に惹き付けられるのである。
その端緒を振り返れば、音楽聴き始めの極プリミディヴな時期に仰いだ、その毒が、骨の髄まで染みこんだ様だ。
50年代の半ば、まだ映画少年だった頃にアメリカ映画“わが会いは終りなし”の劇中劇で接したワーグナーの音楽と舞台面からの強烈なインパクトを与えられたのが、そもそもの切っ掛けだった。
メトで活躍したドラマティック・ソプラノの伝統で、ヴォーカル・シーンの吹き替えがアイリーン・ファーレルだったことは的確に憶えている。
断片的ながら楽劇の名シーンが幾つも登場し、ひどく印象的だったのは、“ブリュンヒルデの自己犠牲”で、燃え盛る紅蓮の炎の中に白馬に打ち乗り飛び込んで行く。
演出家と口論の末本番の舞台で長丁場を歌いきった後、白衣白馬が炎の中に翻る様は今も鮮烈に残っている。
そしてラスト・シーンの“イゾルデ愛の死”だ。
そこでは実は奇跡的なアクシデントが起きるのだが、私にはドラマもさることながら音楽が猛烈だった。
身に纏いつき、五体の官能を震わせた。
肉体的な官能の何かを充分に知覚しても居ぬ年端で、だがひどく陶酔していた。
情念の渦の底の澱りにどっぷりと浸っていた。
こんな凄い音楽を創る作曲家が世に在ったとは。
そうして再び、いや、決定的になったのは、ホッター初来日に折に聴いた“ヴォータンの告別”である。
人性と神性を兼ね知らしめさせたその絶唱はヴォータンその人を見る思いを抱かせた。
それが長く尾を引いているのである。
だから「ワルキューレ」全曲をいっとう好み、尚言えば、“第三幕第三場”が永劫となる。
 佐川吉男

 大好きな芸術家の一人である。
その理由としては、先ず、ヨーロッパの近代芸術全般に大きな影響を与えた彼の高踏派的な側面と、極めて人間臭く、しかもしばしば俗物的でさえあった側面とが不思議に上手くかみ合って、音楽を主役とした前例の無い舞台のための総合芸術作品を生み出しているからである。
その意味で、彼のオペラに登場する人物達の中でも、タンホイザーとか、ヴォータンとか、矛盾を抱えた役の性格は特に惹かれる。

 それともう一つ、ワーグナーに強く惹かれる理由は、「タンホイザー」にしても、「ワルキューレ」にしても、また、「トリスタン」にしても、観る度、聞く度に体験する幕切れでのカタルシスは、ヴェルディの「オテロ」の幕切れなど、ごく僅かの例外を除いて、ワーグナー以外のオペラではめったに味わえない種類のものである。

 ワーグナーとの最初の出会いは、戦後まだ間もない一九四七年に帝劇で観た藤原歌劇団による「タンホイザー」の日本初演であった。
開幕前のグルリット指揮による序曲にもすっかり興奮したが、開幕直後の三林亮太郎(装置)と吉本一郎(照明)の美術コンビが作り出す当時としてはユニークな紗幕を使った薔薇色の霧や、その向こうで、オペラをやるために東音教授の地位を棒に振った木下保のタンホイザーが、若くして死んだ美貌のメゾ・ソプラノ、滝田菊枝の膝を枕に、逸楽の日々を送る図なども、当時高校生だった私の脳裏に焼き付いたのであった。
十数年後になって武蔵野美大に勤める事になった私は、一昨年まで舞台美術の学科の主任教授をしておられた三林先生のお世話になり、今も舞台照明の講師をしておられる吉本さんから、直接当時の舞台裏話を伺う事も出来た。
従って、好きな曲を無理に一本に絞れといわれれば、やはり思い出の「タンホイザー」と云う事になろう。
 向坂正久

 ワーグナーの没後百年に寄せて立正大学教授の清水多吉氏が毎日新聞(二月16日夕刊)にエッセーを書いている。
そこではモーツァルティアンとワグネリアンの差異を鮮やかに分析してるのだが、私はどうやら前者の側に属しているようで、ワグネリアンのマニアックな熱狂振りというものが、本当には解らない人種なのだという思いを強く持った。
 実はワーグナーが好きか・嫌いかと真正面から問われると回答に窮してしまうのだが、答えにならぬ答えをすれば、「劇場のワーグナーは退屈だか、演奏会場のそれには、しばしば感動を受ける」というのが自分の正直な体験なのである。
つまりワーグナーの管弦楽曲には好きなものがかなり多いということになるだろう。
 調べれば正確な日時も判る筈だか、今手元に資料が無いので、昭和二十年代中ごろとしておくが、日本交響楽団(現在のN響)の定期演奏会で、歌劇「リエンツィ」序曲を聴いて、大変に興奮した記憶がある。
指揮者は大ピアニストのレオニード・クロイツァーで、その大仰な動作とともにこの曲の持つ雄渾さに驚き、当時はこのオーケストラは日比谷公会堂で2日間だけ同一プログラムで行なっていたのが、翌日も聴きに行ったほどである。
このワーグナー体験から、無論「タンホイザー」や「ローエングリン」の歌劇としての公演にも足を運んだのだが、そこでも管弦楽の目覚しい響きに魅入られながらも、どうも全曲の長大さにはついて行けぬと言う想いも持った。
一応の教養として、例えばベルリン・ドイツ・オペラの「さまよえるオランダ人」とか二期会のワーグナー路線もそれぞれ聴きに行っているけれども、繰り返し通うという事は無かった。
歌劇や楽劇というものを愉しむには資質的に欠ける部分が在るのであろう。
 その代りにワーグナーの管弦楽曲のみのコンサートには好んで足を運んでいるので、初めの回答のような結果になるわけである。
好きな曲を一曲と言うと「リエンツィ」序曲を挙げるのが、故クロイツァー氏への密かな感謝としても当然の事と私には思えるのだ。
佐々木節夫

 ?好きです。

 ?小市民的以上の生活を望まず、音楽の趣味も、大管弦楽よりも古楽や室内楽――――それも次第に無伴奏のものに惹かれています――――、そしてリートなど、押し並べてこじんまりとしたものに傾きがちな、極めて自閉症的な自分の性格が、その対極に、あるものとして、自然に選ばせるものの一つが、ワーグナーなのでしょう。
ちょうど菜食主義者が、健康な生活に満足しながら、頭の片隅で分厚いステーキが忘れられないように。

 そして、ワーグナーの場合、同時にその作品の文学的とも言える側面でも、リート好きの心を惹くようです。
同じく日頃の屈折(と本人は思っては居ないのですが)を発散させるヴェルディには求められないものとして。

 ?「ニーベルングの指環」、中でも「ワルキューレ」が好きです。
前項の答えに矛盾するようですが、ワーグナーを聴いていても、いつの間にかその中に精妙さを求めているようで、作品そのものが先ず最初に来るのではなく、緻密に演奏された作品を聴いて、初めてその曲が好きになる、というのが順序です。
 もとよりスコアから直接感動を得られるほどの読譜力はありませんから、よい演奏に接しない限り、作品の意義は知っていても、それを自分のものとして「好き」とは言えない訳で、ワーグナーに関しては特に、レコードでのカラヤンに大きな恩誼を感じてます。
彼の指揮によるあの緻密な「リング」で、私のような嗜好の持ち主にも、音響的快感を超えてワーグナーと親しめることを教えてもらったのですから。
 そんなわけですから、もし、もう一つ好きな曲を挙げることを許されたら、同じカラヤンの演奏で初めてその真価を知った「パルジファル」と云う事になります。
ワーグナーを聴いていても、自閉的な自分の趣味に引きずり込んでいるようです。
 佐々木綱行

 ?好きな作曲家のひとりである。
但し、ワーグナーの場合には、他の好きな作曲家と異なって嫌いな側面を併せ持っているように思う。
それは、先ず、押し付けがましい執拗さ、程々の場合には効果的だが、時に耳を休ませて欲しいと思う事がある。
次に「ワルキューレの騎行」で聞かれる様な大袈裟さ、その他、「魔の炎の音楽」で聞かれる様な描写の安直さ、また説明的な部分での緩長さなど。

 ?スケールが極めて大きく、聞いていて壮大な気分導かれる事。
次に、男性的な雄渾な印象を受ける事。
その他、ドイツ的な重厚さに充ちている事。
又、技法的には、テクストの内容と、各役の心理が歌唱部及びオーケストラによく反映されていること。
及び、合唱が効果的に活用されている事が挙げられよう。
やはり“ワーグナー体験”には、他の作曲家では味わう事のできない独自の力が存在していると思う。
尚、嘗ては、よく“ワーグナーの毒”という言葉を用い、私もその毒に魅せられた体験は在るが、最近の演奏には毒が薄められてきたように思う。

 ?「タンホイザー」「ワルキューレ」等も挙げたい作品だが、一曲と問われれば「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を挙げよう。
この作品は壮大さと緻密さが共存し、登場人物を見事に描き尽くしている。
特に、ワーグナー自身が書いたテクストと音楽に込められたハンス・ザックスの人間性に強く魅せられる。
レコードとしては、カラヤン指揮の二度目の「マイスタージンガー」、1972年度《レコード・アカデミー賞》を受けたエンジェル盤を愛聴する。
 志鳥栄八郎

 ?大変好きである。
 
 ?ワーグナーは、ごく小柄な、貧弱な体の持ち主であった。
しかし彼は、いつも、途轍もなく大きな構想、実行力を持っていた。
バイロイト祝祭劇場の建設など、その好例である。 
 彼は自分の作品上演が、ありきたりの劇場では、その真価が十全に発揮できないことを知ると、バイロイトに広大な敷地を求め、そこに、自分の考えた、理想通りの劇場を打っ建てた。
自ら東奔西走して資金を集め、かなりの政治力を発揮した。
これには、義父に当るリストも力を添えた。
そして、他人から見ると、狂人としか思えないような理想の花を、ものの見事に咲かせてみせたのである。
私は、彼のような、数十年、いや数百年にも先を見る先見的眼力と、それを逞しく実行に移す偉大なエネルギーに、脱帽せざるを得ないのである。
音楽の上でも、単なる歌劇では飽き足らず、美術と演劇と音楽とを一体化した楽劇を生み出した。
これも、また画期的に大仕事であった。
そして、「トリスタンとイゾルデ」以後、このスタイルによる大傑作を相次いで生み出すのである。
 ライト・モチーフを考え出したのも、恐るべき力である。
これは、彼に続く作曲家達に、やはり大きな影響を与えたのだった。
このように、創作上でも、彼は、他の作曲家達を、大きくリードしていた。
 わたしは、こうしたワーグナーの、祝祭的・神秘的な、壮大なロマンの世界に身を浸していると、妙に凛々と力が湧いてくるのである。
彼の音楽には、何か、人の心を底の底から動かす、不思議な力があると思う。
そこがまた、好きなのである。

 ?楽劇「ニーベルングの指環」全曲
 高橋 昭

 ?嫌いではないが積極的に聴く方では在りません。

 ?その理由は日本ではワーグナーの歌劇が良い条件で上演されることが、少ないことと、レコードで聴くには相当の時間を必要とするからです。
だからその条件が満たされた時には上演に出かけますし、レコードも聴きます。
今までにもベルリン・ドイツ・オペラ、バイエルン・オペラ、二期会の《ヴァルキューレ》には満足しましたし、今度のベルリン国立オペラにも行くつもりです。
レコードでもクナッパーツブッシュの《パルジファル》、カイベルトの《オランダ人》、カラヤンの《名歌手》(1951年バイロイト)などには満足しました。
ただワーグナーの音楽には官能的な要素が非常に強く、女性の愛を通しての救い・・・・・の思想は日本人には観念として理解できても、それを現実に在り得る事として受け取るのは難しいのではないでしょうか。
 また芸術家としての偉大さには脱帽するものの、人間としてのワーグナーにはいささか問題が在ると思います。
両者を全く無関係のものとして割り切ってしまえば、問題は無いのですが、そのような人間からあのような比類の無い芸術が生まれた事に驚異を感じると同時に、惹き付けられるのに躊躇させられるのです。
これは小市民的な人間が超絶的な芸術家に対して抱く「畏れ」の気持ちかもしれません。
 それでもワーグナーを「嫌い」と言い切れないところに彼の魅力があるのでしょう。
ただ私の場合は、官能のドロドロとした絡み合いなどが強調されると、付いて行けなくなる恐れがあります。
そうかといってさらりと演奏されても困りますし、その辺が取捨選択に迷うところでしょう。
その意味で私が理想に近い演奏と思うのは、フルトヴェングラーが指揮した《トリスタン》です。

 ?私が最も好きな曲。
それは《ニュルンベルグの名歌手》です。
その理由はお解かりでしょう。
ワーグナーの歌劇の中で或る意味最もワーグナーらしくない作品なので、素直に音楽の中に入っていけるからです。
 武川 寛海

 ?この頃好きになってきた。

 ?若い頃は所謂「聞かず嫌い」であった。
何と無くその人柄が傲慢不遜に感じられ、そのために積極的にはこちらからは近付く事をしなかった。
それに彼の本領は楽劇にあるのだから、舞台を離れた音楽のみを聴いてみ、本当の評価は出来ない、と理由を付けていた。
 もう二十年も前のことになるが、ベートヴェンのお墓参りに行き、ついでにバイロイトに廻った。
初日は「さまよえるオランダ人」で、強烈な印象を受けた。
そしてこれはやはり「大物」である、と改めて見直すようになった。
 ベートヴェンの調べ始めた頃は、彼の名にはしばしば出合ったが、どうせ作曲家の気侭な感想文に過ぎないだろう、と相手にはしなかった。
所がである。
暫らくして彼が大変な勉強家であり、ベートヴェンの優れた研究家であるこを知ったのである。
大いに啓発された。 
 ついでに彼の小説「ベートヴェン詣で」を訳した。
とても面白かった。
そして彼が傲慢不遜な人間ではない事も悟ったのである。(これは音楽家の書いた音楽小説集《あの世の楽聖たち》芸術現代社刊の中に納めてある。)

 ?「さまよえるオランダ人」
 出谷 啓
 
 ワーグナーの偉大さを充分に承知しているつもりですが、彼の楽劇なるものの積極的な聴き手であるとはどうしても申せません。
第一小生自身、ワーグナー体験というものが甚だしく乏しく、ステージでは「トリスタン」一回、「ワルキューレ」二回、「ラインの黄金」一回というのが、その総てと言うのでは、余り大きな事も言えないというのが実状です。
後はレコードで一通り聴いていますが、はっきり言って余り好きになれません。

 本来好きとか嫌いというのに、理由などある筈も無く、小生がワーグナー嫌いというのも、女の子が“キライ、キライ”というのと、同次元のもので、さて何故かと開き直られても、唯只困惑するのみであります。
無理矢理でっち上げるとすれば、まずそのドラマの途方も無い長さ、こればかりは生理的忍耐力によるもので、湯豆腐や、お茶漬け趣味の小生にとっては、明らかに体力限界を超えています。
また気の利いたアリアや重唱がある訳で無く、とてもプッチーニのようには有頂天にはなれません。

 但しワーグナーの序曲やオーケストラ曲は、少年の頃から愛聴し、今もレコードなどで喜んで聴いています。
従って小生にとってのワーグナーは、管弦楽曲の作曲家で、オペラの作曲家としては縁遠い存在という訳です。
好きな曲を一曲と問われれば、「タンホイザー」序曲と“ヴェヌスブルクの音楽”をただちに挙げます。
オペラではレコードでしか知らない「オランダ人」が、最もオペラらしくて楽しめました。

 こんな体たらくですが、所詮肉やジャガイモをモリモリ食っているドイツ人とは、こちとらは体の出来が違うのです。
聞く所によるとドイツでも「あればかりはかなわん」と云う人が、結構居るそうであんしんしています。
何処の国にも軟弱な人間は、居るものなのですね。
  
 寺崎 裕則

 ?ヴァーグナーは大好きです。
そして大嫌いです。
「功(いさお)、大好き」という本が評判ですが、木村功未亡人梢さんは」、朝から晩まで大好き、と思っていた訳ではないと思います。
時には、大嫌い、と思ったことも多々在ると思います。
でも、梢さんが「功、大嫌い」と云う続編を書かれたら、きっとまた「功、大好き」と同じになってしまうのではないでしょうか。
 それと同じです。

 ?いつか、ウィーン国立歌劇場で久しぶりに《ニーベルングの指環》の新演出が出、運良くプレミエの切符が二枚、手に入ったので得意になって女盛りの美しい歌い手を誘ったら、
「私、ヴァーグナーって大ッ嫌い!!」
「どうして?」
「だって、一晩中、そそられて、焦らされて、その挙句、あの人イカないンだもン。そそられっ放しの私は、どうしてくれんのよッ!!」
 と、ちょっと怒った目で艶然と微笑みました。
 それで私がどうしたかは、読者の御想像に任せますが、これは意外とヴァーグナーの本質をついた言葉かも知れません。

 それにしてもどうしてあゝ長いのでしょう。
でも長く感じ、退屈し、イライラするのは初めだけで、そのうちにヴァーグナーが音楽に注ぎ込んだ毒でいつしか痺れ、陶酔し、まるで狂ったようにヴァーグナー無しではいられなくなるのです。
 そこがヴァーグナーの曲者たる由縁です。
 ヴァーグナーの楽劇は、人間の魂に訴える祭儀であり、彼の創り出した音楽は、何とも官能的で、孤独で、エネルギッシュで、ロマンティックで、熱情的で、神秘的で、悪魔的(デーモニッシュ)で、非常に扇動的で、それでいて宗教的で、求道に満ちたものだからです。
しかも現実感覚に溢れ、確かなリアリテが在ります。
 
 ?《さまよえるオランダ人》
 ヴァーグナー・オペラ、楽劇14曲中、最も短く、もっともドラマティックなオペラだからです。
それはヴァーグナー楽劇の縮図と言われる程、それ以後の楽劇で花開く種が、殆ど総て抛り込まれています。
遠山一行

 ?ワーグナーは好きです。

 ?人間の好き嫌いに余り理由は無い様に思います。

 ?「トリスタンとイゾルデ」
 丹波正明

 ?“好き”という相手ではない。
だが、“嫌い”と言って無視するのには余りに巨大な存在なので、付き合う必要が生じた時には、覚悟を決めて“取り組む”というのが正直なところです。

 ?作者が自我を剥き出しにして迫り来る芸術は疲れます。
ワーグナーが音楽を通じて言おうとした中身は、醒めた目で見れば、存外に、彼個人の特殊世界に係わる範囲の事でありながら、それを恰も天下に普遍の真理であるかの如くに、自らも信じ、他人をもそのペースに引き込んで同調させずには於かないと言った、極めて自己中心的な在り方が、好きになれない理由です。

 ?「ワルキューレ」。
“音楽的”に一番美しいと思うから。  
 野村光一

 私はワーグナーが大好きです。
何故ならば、彼の作品ほど音楽の本質に直截に触れているものは無いと思うからです。

 音楽はその本質としては、リズムの上に乗って感情が自然に流れてゆくものを言うのです。
でも人間は、他面、知性を付与されています。
そして、この知性が、流れっぱなしなる感情に介入して、それを思考に導いているのです。
ですから、それによって音楽に変化と深さを一層齎(もたら)す事になり、さらにそればかりでなく、芸術として一つの纏まった印象を与える形式を付与します。
そのためにソナタのような形式感を持つ作品が出来上がるのです。
でも形式は音楽の本質では在りません。
表現への一つの手段に過ぎないのです。

 ワーグナーは音楽の本質に直截に触れようとして「楽劇」(“Mussik Drama”)なるものを創案したと私は考えています。
一般に、彼は音楽と劇とを結合し、融合して総合芸術を創ろうとしたと云われてますが、そんな事は不可能だったと私は考えています。
彼は戯曲の台詞に節を付けてそれを歌わせたのでした。
その場合彼の節付けは歌詞の言葉の響きや抑揚に合体し、融合して、それで一つの旋律形態を作り上げたのです。
それを称して『無限旋律』と呼んだのでした。
それに依って音楽の形式感からも離脱し、詩の形態をも征服してしまったのです。
だから彼のオペラの声の部分は旋律、それも無限の旋律になり、徹底した感情の吐露だという事に成ってしまったのではないでしょうか。
それが又音楽の本質である「ロマンティック」に他成りません。
それ故、私はワーグナーが大好きなのです。

 尚、彼の作品中最も好きなもの一曲挙げろと謂われるならば、私は「パルジファル」を挙げます。
この作品が私の今述べた事を徹底して実施しているからです。
 長谷川武久
 
 ?好き

 ?父が音楽ファンであり、父の妹がヴァイオリニストであったため、私の家には私が積極的に音楽やレコードを意識する以前に、既にかなりSP盤のコレクションがありました。
従ってワーグナーの作品も、幼時に多分耳にしていると思うのですが、私が初めてワーグナーに夢中になったのは昭和25年、中学二年生の夏の事でした。
恐らくラジオで聴いたのだと思いますが《タンホイザー》の“夕星の歌”が好きになり、ヒュッシュが歌ったレコードを買い、楽譜を手に入れて何度も聴き、避暑に行った九十九里の浜で、夕星を眺めながら心の中で歌ったのが、今、懐かしく思い出されて来ます。
当時の九十九里浜は海岸道路も無く、広々とした砂丘があり、夕方になると人気も無く、スケールの大きなワーグナーを想うには、真に相応しかった様な気がします。

 その後、合唱団で《ローエングリン》の“結婚マーチ”を歌ったり、レコードの方も《タンホイザー》、《ローエングリン》、《オランダ人》、《名歌手》と聴き進み、アマチュア・オーケストラに入って《名歌手》前奏曲の第一ヴァイオリンを弾き、更には同じ曲のヴィオラを弾きました。
特にヴィオラを弾いた時は感動しました。
ヴィオラはオーケストラの中央に坐りますが、各パートの音の渦の中で、ワーグナーの内声に対する思慮深さを識り、益々ワーグナーに惹かれるようになったのです。

 そして《トリスタンとイゾルデ》、《パルジファル》、《リング四部作》と聴き進み、ワーグナーの大きな世界と、その中に存在する様々な哲学を感じ取る幸せを得て来たのでした。
あの温かく和やかな《ジークフリート牧歌》は、かつてプロデューサー時代に、演奏家をスタジオに集めて録音し、放送劇の中で使ったりもしました。

 ?《トリスタンとイゾルデ》
 福永陽一郎

 好きか嫌いか、と問われれば、やはり、いや、勿論、ワーグナーは好きである。
しかし、ではワーグナーならば何でも良いか、と尋ねられたら、返答に躊躇するだろう。
例えば「指環」の四部作の数あるレコードの“聴き比べ”などを依頼されたら、お断りしたい気分が先に立つだろうと思う。
それに、人間的にはいっこうに好きになれない。
また、本を読んで知った範囲だが、その哲学とやらも、共感を覚えると言う訳には行かない。
 
 しかし、好きなオペラ(楽劇を含む)もあるし、曲によっては、その曲がプログラムに入っている、というだけで、このコンサートに食指が動くということもある。
例えば昔の話だが、「トリスタン・・・」前奏曲と「愛の死」がはいっているかどうかで、カラヤンのコンサートの日程を選んだということもある。
 
 音楽から得たいと思うような“興奮”と“官能美”と“陶酔感”をこれほど大量に与えてくれる作品はワーグナー以外には考えられない位だ。
以上の三点が集中して聴き手に迫ってくる時、誰も抵抗出来ないのじゃないか。
しかし、その満足感に達するまでに、かなり長時間待っていなくてはならない場合が在るし、その待ち時間が大層退屈な場合さえある。
オペラ(楽劇)全体に付き合うより、ワーグナー名曲コンサートの方が、ずっとラクで楽しいのも事実である。
 
 最も好きな曲というと「タンホイザー」である。
このオペラの日本初演につぶさに関係していたし、再演の時も練習の責任を負っていたから、詳しく知っているし、親しみや懐かしさの感情も強く、これならば一切の退屈を感じないで聴いていられる。
コンサート用に抜粋できる部分も、この「タンホイザー」が一番多いのではないか。
(私自身その試みを何回もやった。今年ももう一度、「組曲」作りに挑戦する)
私の最も大切なレパートリーの一つである。
 福原信夫

 ?好き。

 ?同時代に生まれたワーグナーとヴェルディが、時代の風潮として「音楽と演劇の合一」を成し遂げた。
それがアルプスを挟んで、風土、民族、言語の差に上にどの様な方法を辿ったか。
また、二人の個性の間にどの様に展開したかを考えるとき、ヴェルディ研究の徒としてワーグナーの作品に深い興味を覚える。

 ?曲そのものとしては「トリスタンとイゾルデ」。
経験した舞台上演ではカラヤン演出の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(ザルツブルグ)とクッファーの「さまよえるオランダ人」の演出と解釈(バイロイト)。
 福本健一

 ?断定的に、好きか嫌いかと言うほど、積極的な思い入れは、ワーグナーに対して持っていないのですが、オペラの作曲家として見る限り於いて、彼の、特に楽劇と名づけられた作品は、聴く度にいつも“どうもかなわんなァ”と思うのが正直なところです。
オペラは大好きなジャンルで仕事を離れてのんびりとレコードを聴く時には、ついオペラのレコードを取り出すのですが、ワーグナーに限って、いつもその仲間外れになります。
無意識のうちに避けていると言う事は、私の好みに合っていない、つまりどちらかと言えば嫌いな方に入ります。

 ?嫌いな理由を聞かれても、困ってしまうのです。
単純に好きか嫌いかと云う事は、極めて感覚的なことで、理由を付ける事はとても難しい。
例えば食物の好き嫌いにしても、他人がどれほど美味だと言おうと、嫌いなものには、とても手を出す気になれない様に、そこには理論的に説明できる理由など無いのです。
それこそ熱烈なワグネリアンにとって、魅力となっているであろう事、例えば緻密で重厚なオーケストレーションとか、尽きる事を知らない様に次々と続く旋律法、或いは殆ど総てに尽いて複雑である事、いや何よりもワーグナーの音そのものが、逆に私にとって押し付けがましいものに思われる等と言うと、嫌いな事を立証する為のこじ付けになるような気がする。
素晴らしい作品と大きな功績を残した偉大な作曲家であることを、頭では理解しながら、感覚的には、出されれば食うが、自分からは進んで食いたいと思わない握り寿司と同じ程度に嫌いなのです。
 
 ?嫌いな作曲家の作品の中から好きな曲なんて矛盾もいいとこで、基本的には在りません。
オペラの中の一部分、例えば「夕星の歌」など好きなうちに入りますが、全曲となると伝統的なオペラに近い「オランダ人」は時には聴きたいという気になります。
藤田由之

 ?どちらかと云えば“嫌い”と言った方が良いでしょう。

 ?私の好きなエピソードにこういうのが在ります。
細かい点は省きますが、要するに、イタリアの作曲家ダラピッコラの弟子が、短い交響曲を書いて師の元に持って行き、余り短いのでと恥ずかしそうな様子を見せた時に、ダラピッコラが、「音楽には、長すぎるものは在っても、短すぎるものは無いものだ」と言ったという話なのです。
確かに、スピーチにしても音楽にしても、“短過ぎる”ものは余り無いようで、私も、これを一つの教訓として忘れぬ様に努めてます。
勿論、“過ぎる”ということは、それを感じさせる要素が在るからこそ成立するのであって、“長過ぎる”という事が、単なる時間的な要素だけに結び付けられた判断で無い事は言うまでも在りません。
本当は、演奏さえ良ければ、長さを感じさせない作品も、かなり在る筈ですから。
それでも、食物以外は概して“長いもの”が嫌いな私は、小品や抜粋は別として、ワーグナーの大作を心から好きになる素質が、やはり欠けているのかもしれません。
実際には、好きでも、嫌いでもないのですが、そうした自分の素質の欠陥から言えば、ここは、どちらかと言えば“嫌い”と言った方が良いと思います。
“好き”等と言って、酷い演奏のワーグナーの大作等を、やたら聴くはめになっては大変ですから。
勿論、良い演奏のレコードでワーグナーの大作を聴くのは、決して嫌では在りません。
自由な姿勢で聴けると言う利点もありますし、多少の不満があったとしても、少なくとも二回目からは安心して聴く事が出来るからです。
そんな時間は幸せですが、それにしても、ワーグナーは、一方で多くの人々を幸せにしながら、又随分多くの人々を苦しめてきた事なのでしょうね。

 ?「トリスタンとイゾルデ」

  
 船山 隆

 ?勿論好きです。
と言うよりも好き嫌いといった次元を越えた存在です。
ワーグナーのなかには、「西欧」と「音楽」の総てが含まれて居ます。
ワーグナーを「嫌い」で「聴かない」と云う人は「西欧」と「音楽
」の双方に対して全くの無知蒙昧の輩という事に成るでしょう。
友人の批評家兼音楽学者のヴォルフガング・ブルデは、そうした典型的な人物の一人です。

 ?ワーグナーのオペラのなかでは、神話を言語と音響が一体に成っているからです。
ワーグナーの実現した「ミュトスとしての音楽言語」、前言語的な内的な身振りとしての音楽――――これは二十世紀の音楽に全く欠落しているものです。
もう一つの世紀末を迎えつつある今日、ワーグナーの「ミュトスとしての音楽言語」は再び大きな意味を持ち始めています。
二一世紀音楽の道を開く人は、ドビュッシーが新しい時代を開く為にそうしたように、もう一度ワーグナーと対決しなければならないでしょう。

 ?『指環』
 堀内 修

 ?愛憎相半ば。

 ?好きだと言えば、思いつめた表情をして、ニーチェやらショーペンハウアーやらのやくざな言葉を頭にしこたま詰め込んだ、典型的なワグネリアンだと早合点されてしまうし、嫌いと言えば「未だ解っておらんな」と軽蔑されそう。
と言って無関心だと言えば、感受性の鈍さを告白するようなもの。
簡単な問いであっても、ワーグナーの場合簡単に答えるのは難しい。
 けれども愛憎相半ばと言うのは、そんな風に周りを慮っての事では無く、正直に自分の気持ちを述べたまでである。
 愛、という方は文字通りの意味。
聴くのが、観るのが、すきなのだ。
モーツァルトもヴェルディも好きだけれど、もし同じ日に全く同じ水準のメンバーで「トリスタン」と「フィガロ」と「オテロ」が上演されるとしたら、躊躇わずに「トリスタン」に行く。
 憎、の方は、ワーグナーへの憎しみと言うより、好きになってしまった自分の嫌悪感である。
透明な美への志向、平衡感覚、節度、これら諸々の望ましい感覚が欠けているのは(生来とは思いたくないもので)ワーグナーに入れあげた御蔭ではないか、と疑っているのである。
過剰を好み、官能性を愛で、夢想を怖れず、道徳感に乏しい。
悪い相手に捕まってしまったと言うべきか。
しかし反省し、改心しようとも、無論思わない。
ああこんなにされてしまったと思いつつ、ずるずると転落している訳だ。
芸術が人を高尚にする等と言うのは戯言で、例えモーツァルトだって、人を転落させるのだが、時折他の方へ落ちていったら如何なのか、と思うのである。
 なんだか酷く性質の悪い相手と深い仲になってしまったような言い方してしまったが、事実その通りなのではないか。

 ?「トリスタンとイゾルデ」。
何故かと聞かれても困る。




 
 丸山桂介

 今はワーグナーを聴かないのは、平たく言えばその音楽がいささか胃に重たいからである。
と言って、別段私はニーチェの様にワーグナーと対決しようとも思わない。
対決するためには、正にニーチェその人がそうであった様に、ワーグナーの音楽世界に深く没入しなければなるまい。
バイロイトにも何回かは足を運んだけれども、私は自分がワーグナーと対峙しているとは到底考えられない。
ニーチェの対決の中に、反ってニーチェ自身がいかに強くワーグナーに魅かれていたかが反映されているのに較べれれば、私は嘗て何と無くワーグナー音楽に傾いたに過ぎない。
要するにワーグナーの音楽は私の存在を左右しない。

 音の重みが意味するものは、然しながら何と無くその音楽を聴きたく無くさせる事だけでは無い。
この場合も重いものは浮かび上がり、軽いものは沈むという指摘が当てはまる。
それがワーグナーの意図する所であったかどうかは措くとしても、今世紀の前半に彼の音楽は、歴史の表面に浮かび上がって世界を重く支配した。
私はその事を忘れる事が出来ない。
ワーグナー的重みは、最早音楽や文化の枠内に留まらず、その本質に於いて物事の在り方に関る。
つまりワーグナー的重みは、しばしば人間的良識を狂わせる。
だから―――――と言うべきであろうか―――――ルートヴィヒ二世の遺した芸術と同様、ワーグナーの作品にも人間的高貴さが欠落しているように思われる。

 だが、それにも拘らず例えばジークフリートの葬送の、或いはトリスタンの夜の音楽の一片が響く時、私はそれに捉われる。
管弦楽を巧に操るその才能は、やはり認めなければなるまい。
 私にはこれと言った作品は無いけれども音楽家ワーグナーの才能が良く発揮されているのは『ローエングリン』であるように見える。
と同時んみ、この作品は思想家としてのワーグナーをも、尚成熟しきらぬ形でではあれ、よく集約しているように思われる。
 三浦淳史

 おっそろしい御質問で痛み入ります。
怪物ワーグナーともなれば、“好き?嫌い?ほんと?うっそ”では回答致し兼ねる、複雑で、ドロドロしたものが、込み上げてきます。
思い返しますると、ぼく等はドビュッシーが新しい音楽思潮の旗頭として、東方の小島に入ってきた頃に青春を過ごしましたので、ろくにワーグナーを聴かずして、アンチ・ワグネリズムの浪に巻き込まれていったのです。
伊福部昭、故早坂文雄といっしょに《ペレアスとメリザンド》の殆ど全曲盤を初めて聴いた晩の感動は今でも忘れる事が出来ません。
夜も更けた通りに出ると、その冬の初雪が音も無く降り頻っていました。
ぼく達は胸が一杯で、口も利けず、黙って、ニセアカシアの黒々した裸木が連なっている並木道を歩いていきました。
《ペレアス》(省略的呼称方です)の、あのほの暗い薄明の王国のあちらこちらに、ワーグナーの不気味な亡霊を垣間見るようになったのは、戦後完全な全曲盤が出揃った頃の事でした。
アンチ・ワグネリズムの開祖の残した唯一のオペラの中に、ワーグナーの、あの無様な顔がちらつくなんて、何たることだろう。
ぼくは自分の音楽人生が間違っていた事を嘆き、それから心してワーグナーを聴く様になりました。
「ワーグナーはお好き?」と訊かれたら、フロイト流の用語を使って「アンビヴァレント」だとお答えするしかありません。
つまり、同一の対象に対して、愛情と憎悪の相反する感情同居していることです。
“愛”の方の代表は《トリスタンとイゾルデ》で、“憎”の方の代表は《リング》といえるかも、しれません。
強烈なエゴで貫かれているワーグナーの生涯については、故二宮尊道教授がT・S・エリオット論のタイトルにされたのをパロディー化して「いやな人だな、ワーグナーさんは!」の一句でぼくの万感の思いを象徴させる事が出来るんじゃないかな。
 皆川達夫

 ?大変すきです。とお答えするより、好きを乗り越えて熱愛している、或いはその毒にドップリ浸りきっている申し上げた方がより適切かもしれません。

 ?好きな理由はとお尋ねになられても、好きだから好きとしか、お答えの仕様はありません。
もしたってその理由を述べよと仰るのでしたら、〈音楽の友〉一か月分のスペースを全部頂いて〈わがヴァーグナー愛の総決算〉という論文を書かせて下さい。
 
 正直申しまして私の青春時代にはヴァーグナーの音楽を聴くチャンスは窮めて乏しく、従ってそれ程好きではありませんでした。
しかしその後アメリカやヨーロッパに留学するようになって本物のヴァーグナー演奏に触れ、すっかりヴァーグナー中毒者になってしまったと言う次第です。
 今でも少なくとも一週間に一回はヴァーグナーを聴かないと、一種の禁断症状に陥ります。
そして機会さえあればどんなに無理をしてもオーケストラ(私が奉職する大学の学生オーケストラ)を指揮して、ヴァーグナー作品を演奏しないと気が済まないという、全く我ながらお恥ずかしいのめり方であります。

 そうした事の次第は最近当社より出版されたました〈西洋音楽ふるさと行脚〉にもやや詳しく記しておきました。
とにかく初めには辟易したあのヴァーグナーの長大さも、今では大切な魅力の一つとさえなっているのです。

 ?どの曲も大好きですが、ただ一曲と言われればやはり〈トリスタンとイゾルデ〉でしょう。
一九世紀の音楽史はこの作品の方向に収斂され、そして二十世紀の音楽史はこの作品から拡散されていったと思っております。
 宮沢縦一

 ワーグナーは、無論嫌いでない。
では、何処が好きかと言われると、正直なところ答え難い。
 絵の場合も同じで、どこが好きといわれ、あの色彩感覚がとか、あの構図がとか、色々並べ立てる事は出来ようが、そんなのは理屈の為の理屈ではなかろうか。
 ある絵に感動した場合、無条件に全体として良いというのが本当の所だろう。
 此処が良い、あそこが良い、という言い方は、この点に感心する、あの点も上手い、というようなもので、我を忘れて魅せられ、生涯忘れ得ない深い感銘を得たようなものでは無い。
 それにワーグナーにしても、幾つも作品があるし、こちらも三十代、四十代、五十代で、同じ作品にしても、その作に接し、ある時代は、こんな所に興味を持ったが、今は別な点に、という様なことが、小説の場合と同じで、在る訳である。
 それに歌劇とか楽劇とかいう綜合芸術なる舞台作品であってみれば、ワーグナー等、演奏、演出、何にせよ、出来映えが悪ければ、長大な作であれば在るほど、退屈で適わない。
 四半世紀昔に、クナッパーツブッシュの指揮で、バイロイトの音楽祭で、徹底的に単純化され、照明効果見事な舞台、ヴィーラント・ワーグナー演出の〈パルジファル〉に接したが、その時、初めて〈パルジファル〉という作品が真に傑作である事を確認した。
 ところが、その印象が忘れ難いせいか、その後、何度か〈パルジファル〉に行ったが、夢よもう一度は現実とならず、失望落胆、期待外れの繰り返しである。
 国宝級の本物の美術品に接したあと、複製品で物足りなさを感じたとしても、これはどうも致仕方無い。
 恐いのは、紛い物を観たり聴いたりして、良し悪しを簡単に言う事と、部分に拘り、全体を見ないで、大まかな譜面面の分析程度であれこれ末梢的なことを、衒学的に論う事。
私はいつも本当に良い上演に接したいと、心から念願している。
 三善清建

 ワーグナーは音による執拗な愛撫。
完遂の一歩手前で身を翻し次の頂上を目指す、何とも不安定な和声進行、又複雑な深層心理学を梃子に、それらがうねうねと濃度を高めていく時、ネットリした官能性愛の糸は、耳を入り口にして身体を包む。
 つまりはタンホイザーにおけるヴェーヌス逸楽の臥所で、これはこの歓楽の渕からタンホイザーを救い出す、一見対称的なエリーザベトの清浄な愛にしても、結局同じことだろう。
 かくて幾重にも張り巡らされた知的な愛の諸相、好きでない筈が無い。
 いかもワーグナーは、その音楽を文学と造形芸術、即ち巨大な舞台による楽劇と言う形で発表した。
 従って現今の日本では滅多にこの法悦に恵まれず、私自身も経験に乏しいが、中では一九六七年、大阪国際フェスティバルに来日したバイロイトには惑溺した。
 これは光と影によるヴィーラントの演出によるものであったが(この直前に亡くなった)、その時行なわれた「トリスタン」と「ワルキューレ」でいえば、私はこれ以上の演出があろうとは思われない。
何故ならこれらの音楽は、結局愛の媚薬に犯された細胞の増殖であり、従って耳共に働く目は、人や巌や樹を舞台に見るのではなく、音のうねりと幽暗の中に、そこはかとなく浮かぶ一つの翳、幻影、暗示を知覚するのであって、それにはこの方法のみが、聴き手の思念と欲求の糸を無限に繋ぎ得るからである。
 私はこの生と死の地平を炎で赤く染めたワルキューレと、青暗の闇の中で、死によってのみ完結し得たトリスタンとイゾルデの愛を決して忘れる事は出来ないが、今唯一つを選べと云われれば、それは「パルジファル」。
ワーグナー自身「世界の精霊(デーモン)」と呼んだ二律背反の女性クンドリーの怪しい愛に、最美の演出によって包まれてみたいのだ。
 村田武雄

 ?非常に好きです。
歌劇と楽劇のこれまでじ上演されたものは、殆ど観て聴きました、レコードでも、大部分は聴いてます。

 ?私がワーグナーを無上に愛する所以は、ワーグナーが執筆した台本の文学性を非常に高く評価するからです。
邦訳も出ましたが、文学としての「ワーグナー全集」に強く惹かれるからです。
 第二には、バイロイト祝典劇場での上演が、毎年魅力在るものだからです。
あそこで、毎夜、一週間ばかり、ワーグナーと共に過ごす事は、最上の幸福だからです。
 第三には、フルトヴェングラーやベームを初め、多くのワーグナーの指揮者と歌手のレコードが、日常豊かに聴ける事です。
そして、優れた声と管弦楽が創り出す、大きなメルヘンの中にすっぽりと浸かり切れるからです。

 ?「ニーベルングの指環」
 これは「前夜祭」の「ラインの黄金」を初めとして、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」の全四曲からなってますが、それらをその筋や変化と発展に随って、ライトモティーフにもよく注意して聴いてゆけば、おそらく場面は、自然に想像できるでしょうし、ワーグナーの楽劇とはどんなもので、又彼が何を表現したかったかが、よく解ると思います。
私は、この楽劇が、ワーグナー音楽の出発である共に、終結であると信じてます。
 もしこれに、最後の舞台神聖祭典劇「パルジファル」を加えれば、ワーグナー思想の理解も完全になると思います。
 門馬直美

 ワーグナーの有名なオペラだけを取り上げた場合、ワーグナーは、やはり小生にとっては欠かせない作曲家だと言う事に成る。
この「欠かせない」というのは音楽史的に重要な人物だからと言うのではなくて、自分自身の音楽生活にとって必要であり、聞き惚れてしまう事が少なくないからである。
その意味では好きな部類に属する訳である。
 確かに、ワーグナーは英雄的な旋律を作る才能を持っているし、ただ感情だけで音楽を創り上げているのではなくて、入念な網の目のような音による織物をつくっているし、クライマックスの設定にも巧さを魅せる。
しかし、その反面で、舞台に接しても音楽だけを聴いても、だらだらと進んでいるといった印象を受けない訳ではない。
これは、特にワーグナーが「トリスタン」以後に楽譜にテンポや表情の変化を細かく指定しているにも拘らず、もっと大局的に見て、大体同じようなテンポが延々を続く事にあるようだ。
この様な事は、他のオペラ作曲家では、まことに珍しい。
そして、こうした事が在るからこそ、時にはワーグナーに近づくのを敬遠したい気持ちになってくるのである。
 よくワーグナーは音楽での麻薬みたいな存在だと言われる事が在り、この例えが理解出来ないではないが、敬遠したい気持ちになったりする人にとっては、これはやはり麻薬と云うべきものでは無いだろう。
 好きな曲を一曲挙げるとすれば、「神々の黄昏」ということになりそうだ。
極めて人間味の濃い物語と、精妙な音楽の創り方があり、しかもそこの音楽にも人間感情が豊かに込められているからである。
 横溝亮一

 ワーグナーを好きか嫌いかと問われて、嫌いだと答えるのは職業上いささか沽券に関る、との感なしとしない。
しかし、然らば好きかと重ねて問われると“ウーン”と唸って暫し絶句と言うのが正直な所である。
 かつて、ショルティ指揮、ジョン・カルショー録音の“リング”全曲盤が出た時、一通り全部聴いてやろうと決意して、一週間程掛けて兎も角全部聴いた。
が、残念ながら深い感銘を受けて、益々ワーグナーが好きになるとは参らなかった。
以後、二度と“リング”全曲を聴いていない。
といえば、およそワーグナーに対して如何であるかを物語っているだろう。
 
 彼の演劇的要素と音楽的要素を一体化する所謂“総合芸術”の理念には共感するところが大きいし、舞台芸術の歴史に記した彼の足跡、功績は真に大きいものがあるとは思う。
従って、ドイツ・オペラ、あるいはドイツ演劇を課題として何某かを考える時、ワーグナーを避けて通る訳にはいかない。
その意味で彼の楽劇は常に巨大な研究対象として聳え立っている。

 しかし、個人的趣味を先に立てて云えば、余りにも大風呂敷で、胆汁質で、生理的に受け付け兼ねる面も大きい。
それに、彼のユダヤ人を排斥しようとする人種差別的思想にもついて往けぬものを感じる。
 
 そうした中で、楽しみつつ聴ける作品を考えると、“指環”以前の方に傾いてしまう。
視覚的な要素を加えると、ベルリン・ドイツ・オペラの日本公演での「さまよえるオランダ人」の印象が強く残っている。
しかし、音楽的には今一つ物足りない。
音楽面での歴史的意義を考慮すれば、当然「トリスタンとイゾルデ
」と云う事になるだろう。
しかし、好みと言う事で一曲を選ぶとなれば「ニュールンベルクのマイスタージンガー」と言う事に成るだろう。
ここにはもってまわった“救済思想”とやらも無いし、明朗で健康なドイツ中世の職人世界が描かれて楽しい。
ウェーバーの「魔弾の射手」に始まるドイツ・ロマン・オペラの伝統を最も良く継承しているのはこの作品だと思う。
 吉井亜彦

 ?嫌いではありません。
というと好きと言う事に成ってしまう訳ですが、僕の場合、厳密に考えてみると、この言葉が持つニュアンスが、もう一つしっくりこないように思えないではありません。
「関心がある」、「惹かれる」、「興味がある」辺りが、最も相応しいのではないでしょうか。
僕にとってワーグナーは、いつも「気になるアイツ」でした。

 ?僕が考えている「芸術上の表現」と、ワーグナーのそれとが正反対のものだからです。
僕にとって表現と言う行為は、果てしない自己否定によって常に検証され続けねばならないものです。
自己否定によって簡単に否定されてしまう様な物は、表現には所詮価しません。
自己否定を繰り返し、それでもどうしても否定し切れない物だけが、辛うじて表現へと昇華して行き得るのです。
つまり、表現と言う行為は、表現の否定という矛盾するような行為を、絶えず内包していなければなりません。
その結果、表現され得るものはどうしても限られたものとなってしまいます。
それが「芸術上の表現」なのです。
僕はこのことをリルケの詩法から学びました。
ところが、です。
ワーグナーの音楽には、こうした事がま る で 当 て 嵌 ま ら な い のです。
彼の音楽にあっては自己否定などという古典的なアスケーゼが占める割合は可能な限り少ないものでしか在りません。
形而上的、かつ高尚なものから、形而下的、かつ安っぽいものまで、さして選択された跡も無く、ゴッタ煮風に混ぜ合わせられているのが、正に彼の音楽なのです。
だからと言って、それが芸術的に詰まらないものかというと、そんな事は在りません。
比類が無いほど魅力を持ったものなのです。
とても僕等の手には負えないようなものが、そこには山積みしています。
ワーグナーが「気になるアイツ」である所以です。

 ?「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 渡辺学而

 ?どちらかと云えば「好き」の方に属する作曲家です。

 ?ワーグナーの序曲や前奏曲を含むオペラの中の管弦楽曲や「ジークフリート牧歌」の様な作品は、早い時期から比較的好んで聴いていました。
ワーグナーのあの独特のダイナミックな、しかも粘り在る表現は、聴いていて圧倒されるものが在ったからです。
しかし正直言って、オペラ全曲となると中々取り付き難く、余り聴きませんでした。
 
 ところが、一九六七年に大阪フェスティヴァルでバイロイト音楽祭の引越し公演があり、それを聴きに行くことにしました。
出し物は、ブーレーズ指揮、ホッター、ニルソン、ヴィントガッセン等ヴェテランの歌手による「トリスタンとイゾルデ」、シッパース指揮、シリア、トーマス、デルネッシュ等の若手を中心とする「ワルキューレ」の二つでした。
 
 入場券は現在に比べても相当高額でしたし、それに大阪まで出掛けて行くからでもないのですが、これを機会にワーグナーの音楽を真面目に勉強してみようと思ったのです。
そして、ライトモティーフを中心とするワーグナーの音楽の緻密な構成に驚嘆すると共に、その情緒表現の見事さを知り、ワーグナーはやはり大変な作曲家なのだとつくづく思うようになりました。

 その後ワーグナーのオペラもかなり聴く様になりましたが、レコードでは仕事で必要な時以外は、余程の事で無ければ全曲を通して聴く事は在りません。
好きな幕や好きな部分を拾い出して聴くという、ワーグナーには叱られそうな聴き方をしています。

 ?楽劇「ワルキューレ」
 特に第三幕のヴォータンが自分の立場と心情の葛藤の末、娘に対する愛を独白する部分は感動的です。
 
 渡辺 護

 私は唯今ワーグナーの伝記を執筆中です。
ワーグナーの作品についての著書を出した頃は、彼の伝記だけは書くまいと思いました。
それは彼の性格や言動に反発を感じる事が余りにも多かったからです。
しかし彼の生涯に深く入っていくと、正にその点こそ、伝記を書く者にとって異常な魅力である事が判って来ました。
今私は、殆ど他の仕事を総て打っ棄って、彼の伝記に取り組んでいます。
これほどスケールが大きく、これほど変化に富んだ生涯を送った音楽家は他に在ったでしょうか。
これほど人間臭く、しかもこれほど超人間的で、そして時には非人間的でもあった芸術家が他に在ったとも思われません。
その作品が巨大であったと同じ様に彼も巨大な生涯を送りました。

 「ワーグナーの何処が嫌いか」という御質問に対しては、二十年前の私なら、彼の作品のこういう点が嫌い、彼の性格のこういう点が嫌い、と述べる事が出来たかもしれません。
しかし今の私には、ワーグナーについての嫌いの点も好きなのだと言わざるを得ません。
このHassliebe(憎悪愛)こそワーグナーの人と作品の本質を成すものではないでしょうか。

 例えば、私が調べている彼の反ユダヤ主義についてです。
その思想は、乱暴な短絡的推論に基づいた感情論です。
こんないやらしいものも余り無いでしょう。
だがワーグナー自身、自分はユダヤ人の血を引いているのではないかという懐疑に悩まされていたという事実を知る時、彼の反ユダヤ主義は異常な人間性を以って我々に訴えかけてきます。
彼の意識下の苦悩の中に、一九世紀ヨーロッパの反ユダヤ主義という暗雲が映し出されているのです。
だがワーグナー伝記執筆というのは大変な仕事です。
参照すべき本が無数に在り、それぞれの伝記の記述が違っているのでそこからどれが事実かを見究めていかねばなりません。

 さて第三の御質問、私の最も好きな曲を強いて言うなら、「ニーベルングの指環」ということになります。

 

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