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生き残れ。〜災害に備えよう〜コミュの【画像リポート】宮城・震災から8ヶ月

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管理人です。2011年11月5〜6日、宮城県の仙台海岸部、松島、東松島、石巻、女川方面へ、東日本大震災の被害・復旧状況調査に行って来ました。

震災から8ヶ月が経過し、既にメディアにもあまり乗らなくなった被災地の状況を、写真と動画でお伝えしたいと思います。簡潔に言えば、津波被災地はやっと瓦礫の撤去が終わりかけていて、復旧・復興はこれから、という段階です。目に見える部分だけでもいまだ手付かずのことが非常に多く、被災者と地域の長い長い戦いは、まだ始まったばかりなのだということを実感しました。

あまりにも多数の命だけでなく、想像を絶する数の“日常”が破壊された現実があることを、このレポートから感じ取っていただければと思います。

本来であれば【東日本大震災関連】トピにアップすべきなのですが、画像、動画リンクがたくさんありますので、別トピを立てます。コメント、ご感想なども自由にお書きください。

このトピは、大半が管理人のレポート+画像、動画で、調査の順を追って構成されていますので、最初から続けてご覧ください。

なお、この調査は防災士として実施し、調査行動中は常に防災士の制服を着用して行いました。また、仙台市内、松島、東松島では、仙台在住の方に案内をお願いしました。この場を借りてお礼申し上げます。


■追記■
本文中にリンクしたyoutube動画が視聴不可能になっておりましたので、80〜83番記事に改めてすべての動画へのリンクを作成いたしました。大変申し訳ありませんが、そちかからご覧いただきますようお願いします。

コメント(84)

【仙台市・荒浜】

続いて、仙台市の海沿いにある住宅地、荒浜地区へ向かいます。この地区は、地元の方の表現では「なんでこんな海沿いに住宅街?」というくらい、堤防の内側に、普通の住宅街が広がっています。全く平坦な土地で、堤防を超えた津波は、少し内陸を走る「仙台東部道路」の土盛りまで到達しました。そこまでの間には、高層建築と呼べるものは「荒浜小学校」くらいしか無かったのです。

■画像1・堤防近くの運河沿いから、荒浜地区を望む。既にかなり暗くなっていますが、建物も見えなければ、明かりも全く見えません。ここが住宅地だったとはとても信じられない状況です。画面中央が、荒浜小学校です。

■画像2・同じ場所から、別方向(南側)。とにかく何も残っていません。テレビでは、仙台東部道路の土盛りまで押し寄せる津波の空撮映像が、繰り返し流されましたが、それが荒浜地区です。

【仙台市・荒浜】

■画像1・堤防近くの建物は、強い水流に晒されたせいもあるでしょう。通常の二階建て相当の高さの屋根うえまで、水をかぶったようです。屋根が抜け、流木がひっかかっています。

■画像2・その隣にも何か構造物があったようですが、完全に消滅しています。

【仙台市・荒浜】

■画像1・荒浜小学校の校舎。ニ階以上は、水の直撃は受けていないようです。しかし床上にまで冠水した可能性があります。この地区で確実に安全な建物は、ここだけでした。

■画像2・隣の体育館を見ると、一階の天井付近に相当する高さ以上にまで、水や瓦礫による損傷が見られます。
【仙台市・荒浜】

■画像1・堤防沿いの流出地。奥に見える堤防が、幅50m以上に渡って決壊し、仮補修されているのがわかります。堤防の決壊により、この場所には強烈な水流が集中しました。一見、川か沼地のように見えるこの場所は、「普通に地面だった」場所だそうです。津波の強大なエネルギーが、地面を深く掘り返してしまったのです。

■画像2・同じ場所から少し内陸方向にカメラを振ってみても、まるで川か沼です。暗くなってしまって良くわかりませんでしたが、かなり内陸までこんな状態になっていました。

※両画像は、明るく見えるように加工しました。
【仙台市・荒浜】

■画像1・荒浜小学校近くの用水路には、コンクリート製の小屋が転がったままになっています。

■画像2・用水路の水門。画面手前からの強烈な水流と瓦礫の流れが、頑丈な昇降装置をへし折っています。それにも増して注目していただきたいのは、背景です。住宅街だったこの街に、8ヶ月経ったいまでも、明かりはほとんど戻っていません。背景には信号と車のライトしか見えない、ほとんど無人の場所のままなのです。
仙台市荒浜地区を、地図やストリートビューで見てください。住宅がずらりと並ぶ、広大な住宅街でした。しかし震災から8ヶ月経った今も、そこは明かりひとつ灯らない街、いや更地なのです。

掲載した写真は、少し内陸の破壊された建物から、堤防方向を写したものです。既にすっかり日は落ちていますが、ご覧の通りの暗闇です。

この後、閖上(ゆりあげ)地区、名取市を通り、仙台空港まで行きました。既に真っ暗なので写真撮影はしませんでしたが、津波被害を受けた沿道の家々や商店には、未だにあまり明かりが灯っていないのです。ここだけでも数千、数万の暮らしが破壊され、未だ落ち着き先さえわからない人達がどれだけいるというのでしょうか。延々と続く暗い街を走りながら、目に見えない被害の大きさに、文字通り暗澹たる気持ちになりました。

ここまでは、仙台在住のMさんに案内をしていただきました。地元の方のご案内が無ければ、ここまで細かいところまで見ることが出来なかったと思います。改めて、お礼申し上げます。

明日は、石巻市と女川町へ向かいます。
【石巻市・中瀬】

翌日は、ひとりで石巻市と女川町へ行きました。こちらの様子は、youtube動画も合わせて、ご覧いただきたいと思います。

三陸自動車道を降りて石巻市内に入ると、津波が到達していない郊外は、当然ながらごく普通の活気ある街です。しかし、海に近い中心部に近づくにつれて、津波の痕跡が目立つようになり、だんだん人気が無くなって行きます。

そんな中心部を抜けて、旧北上川の河口にある、中瀬地区へ向かいました。ここは文字通り旧北上川のいわゆる「中州」で、両岸どちらへも、橋を渡らなければ行くことができません。そこに、石巻出身の漫画家、故・石ノ森章太郎先生を記念した「石ノ森萬画館」がありますが、ここも深く冠水し、ずっと休館状態です。まず、石ノ森萬画館からのレポートをご覧ください。youtube動画です。

なお、ビデオの中では「石ノ森章太郎美術館」と言っていますが、「石ノ森萬画館」が正しい名前です。気温は10℃を割り込む、北風が冷たい日でした。



■画像1・石ノ森萬画館全景。

■画像2・仮面ライダー1号、藤岡弘、氏のメッセージがある、エントランスに打ち付けられた板。
【石巻市・中瀬】

■画像1・中瀬から海の方向を望む。海全体が、水位を6〜7mも上げて、川を遡って来たのです。その時ここにいたら、逃げ場は全くありません。水は両岸の堤防も楽に超えて、街を襲いました。

■画像2・川の上流方向を望む。左に見える石ノ森萬画館の白いドームの下まで完全に水没しました。右奥に見える橋も、水と瓦礫が超えて行ったのです。

【石巻市・中瀬】

■画像1・中瀬に、傷ついた自由の女神が、ぽつんと立っています。これは「中瀬マリンパーク」のシンボルとして、船の航行の安全と、公園を訪れる人の安全を見守るために建てられたものだそうです。

■画像2・しかし、周囲の地物はすべて押し流され、何も残っていません。何も無い更地のまん中で、自由の女神はずっと、海を見つめています。

【石巻市・中瀬】

■画像1・萬画館の向かいに建物の土台が残り、そこに石造りの猫が置かれて、祭壇がしつらえられていました。その猫も自体も、津波によるものなのでしょう。一部が割れています。ストリートビューで見るとここはアパートだったようですが、土台だけを残して、すべて流されています。そして、ぬいぐるみが供えられていましたので、ここで子供が亡くなったようです。ものすごく怖くて、苦しかったろうなと思うと、胸が痛くなります。

■画像2・今まで私が行った場所だけでも、何百、何千もの命が失われたと思うと、ただ、やりきれません。失われた命のためにただ、祈ってあげてください。
【石巻市・港湾部】

次に、石巻港周辺へ行って見ました。そこでも、8ヶ月経った今も、次へ向かって動き出せない現実を目の当たりにしました。あれから、本当にそんなに時間が経ったのか、信じられないような思いに捉われます。

■画像1・パチンコ店も、瓦礫の撤去が終わった状態のまま。ほぼ二階の高さにまで水が上がったと思われます。

■画像2・この建物は医院だったようです。まだほとんど、あの日のままです。
【石巻市・港湾部】

■画像1・港湾部では、既に新築された倉庫なども散見されましたが、こんな状態の建物も数多くあります。それでも、少しずつ撤去作業が始まっているようです。

■画像2・今やっと、「復興」への第一歩が動き始めた、そのような段階です。これから長い長い戦いが続きます。
【石巻市・港湾部】

■画像1・石巻漁港は少しずつ機能が回復してきているようですが、激しい地盤沈下によって、桟橋がほとんど水没しています。道路部分には、土砂を盛ってかさ上げしている状態です。

■画像2・沈下の酷さがおわかりいただけると思います。道路標識をご覧ください。水が溜まっているのが、かつては道路だった場所です。ほとんど海面下にまで沈下してしまいました。
石巻市は、津波の波高が高くなりやすいリアス式地形ではありません。しかし今震災では、震央の場所が思わぬ影響を生み出しました。

震央は牡鹿半島の東方沖ですが、震央から同心円状に広がる津波と、一旦牡鹿半島東岸にぶつかって、回折現象によって半島西側に回り込んだ波が合成され、波高とエネルギーを増して牡鹿半島の西側付け根、つまり東松島市から石巻市に襲い掛かったのです。

震災から8ヶ月。ニュースでは避難所がすべて閉鎖されたとか、○○が再開されたということばかり流れますが、被災者個人レベルの暮らしにおける闘いは、まさにこれからなのです。現地を見ると、「まだ何も始まっていない」という印象さえ受けます。やっと「応急処置」が終わっただけで。

次は、女川町へ向かいます。
【女川町】

今回最後の訪問地は、リアス式の入り江の奥にある街、女川町です。この街に押し寄せる津波の映像や破壊されつくした市街の様子は、テレビでも何度も流されましたし、ネット上にもたくさんの映像があります。その街の8ヵ月後を、見て来ました。

まず最初に、街外れの船着場からの映像をご覧ください。youtube動画です。

http://www.youtube.com/watch?v=lfagjOLh5ZM

■追補
53番記事の、石巻市・石ノ森萬画館の動画URLを貼り忘れていましたので、こちらに貼っておきます。
携帯電話からアクセスされている方は、こちからからご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=lfagjOLh5ZM
【女川町】

■画像1・女川町の南側の高台を走る、国道398号線バイパスから見下ろした、女川市街地跡です。谷間に集中した津波は、海抜30m以上の高さにまで遡上しました。画面左高台にある女川町立病院前にあった車が流されているのを、別の映像で確認しました。画像には、津波が遡上したと思われる最大高さを赤線で示しました。これはもう津波というより、ダム湖に沈んだ街という感覚に近いものがあります。しかも水没しただけでなく、海全体がほぼこの高さで押し寄せて来たのです。

■画像2・画像1の撮影位置から、数歩引いた場所からです。この場所は、対岸の女川町立病院よりも少し低いと思われますが、足元のガードレールが、ご覧の通り引き波の瓦礫で海側になぎ倒されています。この高さにまで、大量の水と瓦礫が遡って来たのです。

【女川町】

■画像1・完膚無きまでに、根こそぎ破壊された女川の街。8ヶ月後の今、ほぼ全体の瓦礫の撤去がやっと終わった状況で、建物の基礎などは、まだそのまま残されています。震災後に新しく建造された建物は、ひとつもありません。住民は、再びこの街に住むかどうかという、厳しい決断を迫られてもいるのです。

■画像2・同じ位置から、海と反対側の方面を望む。赤い線は、対面の斜面を津波が遡上したと思われる高さです。青い線は、こちら側の斜面を遡上したと思われる高さです。私の立っていたこんな高い場所であっても、生き残ることは全く不可能だったと思われます。この遡上高さがどのくらいのものであるのかは、後ほど動画でご確認いただきたいと思います。
【女川町】

■画像1・街外れの電柱に引っかかったままの漁船。海面からの高さは10m以上あり、震災後の地盤
沈下を考慮すると、当時の海面からは12m近くなります。この場所へ至る道は大きく崩落しており、撤去に行くこともできない状態です。

■画像2・市街地からは外れた、女川湾沿いに立つ家。二階の窓の下に水の痕跡が見えますが、良く見ると二階の窓の上にも、うっすらと跡がついています。やはり海面からは楽に10m以上あります。

【女川町】

■画像1・新たな津波避難所の看板が設けられた、高台の神社への階段。鳥居の下から三分の一の場所に冠水の痕跡があり、画面右の茂みの中に、ほぼ同じ高さまで船が流されていることから、その位置まで水が来たのでしょう。今回の津波は数百年〜千年に一度レベルのものと思われますが、記録に残っているような5〜6mレベルの津波なら、鳥居より高い位置に逃げれば安全だった思われます。古い鳥居は、長年に渡る経験則によって建てる位置が決められ、無言でそれを伝えている、そんな気がしてきます。

■画像2・倒壊した家への入口に、あり合わせの封筒に書いた、こんな立て看板がありました。地元の子供たちから、動物救援ボランティアに向けてのメッセージなのでしょう。その優しい心にほっとする反面、犬猫を飼える状態では無い、仮設住宅などの暮らしが垣間見えるようで、子供たちにしても苦渋の選択だったはずです。普通は家の敷地無いに入らない私も、この時は入って見ましたが、猫たちはみつかりませんでした。もう誰かが保護したのでしょうか。

【女川町】

■画像1・海沿いに建つ、まだ新しい水産加工工場。建物上部の窓の上に、水の痕跡があるのがわかりますでしょうか。海面からの高さは、優に12mはあります。私が立っている位置は、深い水底になっていたのです。そしてこの建物の屋上にまで、打ち上げられた瓦礫が見えました。

■画像2・画像1の建物内部の惨状。ある程度片付けられているものの、まだ生ものも少し残っているのでしょう。すさまじい腐臭が鼻を突きます。
【女川町】

■画像1・海沿いに建つ三階建ての建物は、三階の窓までが濁流で破れ、中二階の屋根には、打ち上げられた瓦礫が残っています。周囲の状況からしても、建物全体が完全に水没したと思われます。この建物に避難ひした人もいるかと思うと、言葉を失います。

■画像2・女川湾の一番奥、港のすぐ近くでは、4階建ての建物が、根こそぎ横倒しになっていました。津波のエネルギーが最も集中する入り江の最奥部にあって、山側に倒れていることから、ほとんど水圧だけで転倒したものと思われます。水深は、4階の途中くらいまで、つまり水面に少し頭を出す程度にまで水没していたはずです。ただ戦慄するしかない、津波のエネルギーです。
【女川町】

画像は、女川港近くの一番低い場所から、女川市街跡を見上げたものです。何も無くなってしまいました。無くなったのは建物だけでなく、そこにあった数百、数千の「日常」でもあります。あの日から8ヶ月が過ぎた今も新しい生活の目処がつかず、そしてこの先、いつまた落ち着いた暮らしに戻れるのか、果たしてその日は来るのかわからない人が、被災地全体で何十万人もいるという現実。

この女川町の惨状も、津波で壊滅した何十という街のひとつに過ぎないのです。改めてこの超巨大災害の想像を絶する規模と、本当の復興への遠い道のりを痛感しました。

女川町編の最後に、町の最高地点から、海へ向かって車で降りながら撮影した動画をご覧ください。
開始から2分0秒辺りから、左上に女川町立病院が見えて来ますが、あの高さにまで、車を押し流すほどの水流が遡上したのです。2分13秒頃からは、右手に68番記事の、横倒しになった建物が見えます。
2分55秒頃からは、68番記事の白い建物、4分51秒頃からは、67番記事の水産加工工場が映っています。

http://www.youtube.com/watch?v=mZw4xHcFwK4


私がこれまでに見た被災地は、ごく一部です。しかしそれを見たことで、被災地全体がどれだけ想像を絶する規模なのかという事が、少しだけわかりました。それはとても実感できるレベルでは無い、ということもわかりました。そして、これから続く、被災地の人々の長い長い戦いを、少しずつでも支援して行かなければという思いも、改めて湧き上がって来ました。具体的には、継続的に募金をしたり、被災地の産物を買うくらいしか出来ないでしょうが。

そして防災に関わる人間としては、ふたたびどこかが大災害に襲われた時、少しでも犠牲者を減らすために、たとえ微力でも尽くして行かなければと思いました。今震災でも、死ななくても済んだ人が、あまりにも大勢死んでしまいました。この轍は、決して再び踏んではならないのです。

そのような思いを抱えて、女川の街を離れました。
次回で、最終回です。
【最終回】

ここまで、宮城県内の地震・津波被災地のレポートをお伝えしてきました。内容の大半は、建物や施設の被災状況と、あの日から8ヶ月経った現状を中心にしています。もちろんそれも今回の調査行の大切な目的でしたが、私が最もやりたかったことは、別にありました。

それは、同じ場所に立って考える、ということです。今震災では、おそらく人類史上初めて、様々な被災状況がリアルタイムで流され、映像は今でもその多くを見ることができます。しかしそれら膨大な映像群には、全く欠けているものがあります。それは、犠牲者の目線です。

広大な被災地のあちこちで、多くの人がいろいろな形で命を落としました。自分で実際にその場に立って、その時犠牲者は何を見て、何を考え、どのような行動をし、何ができて、何ができなかったか、それを自分の身体の感覚と、実際の現場の尺度で感じ取りたかったのです。

例えば、「津波が来るなら高台に逃げろ」と言葉で言うのは簡単ですが、避難するのはひとりでは無いのです。街の各所から高台までの距離、見通し、単位時間当たりの避難可能数を決める道路容量、避難場所の収容人数、坂や階段の傾斜などを見ていくと、何百人、何千人もの人が避難するためには、どの段階でどのような判断と行動が必要だったのかのかがわかってきます。しかし最良の行動をしても、最悪の結果にならざるを得ないことも少なくないという、冷酷な現実も見えてきます。

今回、多くの場所で立ち止まりながら、「あの時、自分がここにいたら」という風に考えました。そして多くの場所で戸惑い、恐怖を感じました。人間の力が及ばないことは、あまりにも多いのです。

でもそれを前提として、ひとりでも犠牲者を減らすための対策を考えて行くことで、災害対策は進化して行けるのだとも思います。そのためには、現場の感覚が何より大切だと思います。机上の空論だけで命が救えれば、苦労はしません。



それでは最後に、少し長い動画をご覧いただきたいと思います。これは、国道398号線を女川から石巻に向かいながら、郊外から石巻市中心部まで、約10分に渡ってビデオを回したものです。旧北上川にかかる二つの橋を渡るまでは、車の進行方向左手から津波が押し寄ました。映像に映っている地域はすべて、4mから8m程度まで水没し、押し流された場所です。

8ヶ月後でもあまり手がつけられていない、延々と続く被災建物と建物跡の数を、被災の規模をご覧ください。それでもこれは、総延長500kmに渡る被災地のたったひとつの街の、そのまた何十分の一の部分でしか無いのです。今震災で、どれだけの命と日常が消滅したのか、それを感じてください。

音声は、仙台から放送している東北放送(TBC)ラジオのものです。放送はすっかり“日常”に戻っていますが、それが流れる街のひとつは、未だあの通りなのです。


http://www.youtube.com/watch?v=-xWZLa8a_UY

長いレポートをご覧いただき、ありがとうございました。
復興は、これからです。
お疲れさまでした。辛いなあ。
石ノ森先生のところは、あの漫画館しか残らなかったんですよね。
スタッフやお客さんなどみな上の階に逃げて無事。原稿などの被害も幸い無かったそうです。
しかし周りの家はみな流れてしまった。やっぱり新しい建物に逃げなきゃいけないなあとつくづく。
>71 月兎耳さん

被災現場は、今行ってもその破壊の凄まじさと地域の広大さに、なかなか現実として受け入れるのが難しいくらいの状況です。そして同じ街でも、浸水地域と無事だった地域のギャップに、なんとも戸惑わされます。その差は当たり前なんですけど、なんだかとても不思議な感じで。

萬画館はほとんどノーガードの川の中州にあるんですが、建物自体の損傷はほとんどありません。エントランスのガラス壁が何枚か割れていますが、ちょうど水や瓦礫が来る方向にあるV型の柱が、瓦礫が屋内に突入するのを防いだようです。柱に残った傷が、それを物語っています(画像参照)。ある意味、奇跡的かと。

今回はやはり新しい建物の強度はとても高いという事を痛感しました。災害時に逃げ込むなら、迷わずなるべく新しい建物を選ぶべきですね。

石ノ森萬画館の話をもうひとつ。周りを見ながら、その惨状に気分がかなり落ち込んでしまっていましたが、エントランスの前にあった看板に、いきなり笑わされました。

人間、笑うと気持ちが楽になりますね。これが漫画のチカラなんですね。

画像をどうぞ。標識の部分をよーく見てください(笑)
石巻の話題をひとつ、追加します。これは帰って来てからわかったことです。

石ノ森萬画館の目の前に、実は津波の直撃に耐えて残っていた建物がありました。旧い木造建築なのですが、画面右からの津波の直撃を受けたものの、外壁が破損しただけで、建物自体の骨格は、全く損傷していませんでした(画像)。

この建物は、「旧石巻ハリストス正教会」で、1880年(明治13年)に造られた、現存する木造教会建築としては、日本最古のものだそうです。

この建物は、当初は石巻千石町(現在)という、もう少し内陸に建てられていて、1978年(昭和53年)の宮城県沖地震で被害を受けました。一時は取り壊しの話もあったようですが、多くの市民の要望もあり、文化財として。修復の上で現在の中瀬に移築されたそうです。

それから33年、再び地震と津波という自然の猛威に晒されたわけですが、本当に不思議なくらいに小さな損傷だけで耐え抜いたのです。

昔の恒久的木造建築の頑丈さを今に伝えているだけでなく、きっとこれからは石巻の復興の象徴として、より親しまれるのではないかと思います。現場ではこの建物の価値を知らなかったため、あまり写真も撮っていないのですが、周囲の状況を見るにつけ、この程度の損傷で済んだのは正に驚異的です。

私はキリスト教徒ではありませんが、なんだか「神のご加護」という言葉を思い起こさせられます。
>77 チャップさん

動画の中で私も何度も言っていますけど、現場に立っても、実感としては理解も想像できません。現実が、思考の範疇を超えています。

海沿いの津波映像は多いのですが、それで見られるのはあくまでも海の潮位です。リアス式地形では、内陸に行くにつれて波が押し上げられ、優に30mを超える高度で家を押し流しています。この30m、現場に立つと信じられない高さなんですよ。ましてや低地に立って水の最高到達点を見上げると、そこで感じたことは「理解不能」、この一言です。

その感覚は、写真や動画で伝わるものでは無いのはわかっています。私が今回行ったのも、自分の身体の感覚で見たかったからなんです。

あの場所にいて、水と瓦礫の壁が迫った来たのを見た人たちは、もうほとんどこの世にいない。その事実が、すさまじい恐怖でした。その人たちの「声無き声」を、伝えて行きたいと思います。
雑談トピにも書いたのですが、現在、私のyoutubeアカウントを一旦削除し、修復中です。削除された動画は、再度纏めてリンクを貼りますので、今しばらくお待ちください。
本文中に掲載の動画が視聴不可能になり、大変申し訳ありません。以下に改めて動画リンクをまとめて掲載いたしますので、ご覧ください。

■53番記事掲載分
「石巻・石ノ森萬画館 震災から8ヶ月」

http://www.youtube.com/watch?v=hdJj5evVzIE
■62番記事掲載分
「宮城県女川湾 震災から8ヶ月」

http://www.youtube.com/watch?v=lhlEAdQjSlM
■69番記事掲載分
「宮城県女川町 震災から8ヶ月」

http://www.youtube.com/watch?v=hKLBlhEauLI
■70番記事掲載分
「石巻市街 震災から8ヶ月」

http://www.youtube.com/watch?v=oBB1r8lIlGA
多くの方に見ていただきたいので、上げさせていただきます。このような困難な状況で生きている被災地の人々のことをせめて心に留め、継続的な支援をお願いしたいと思います。

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