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真田昌幸コミュの客人衆佐々木二郎から見た真田昌幸

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 承禎の次子二郎高定は、本次左京進、辻和泉守、伊賀者勘助、それに昨年末に義昭の使者として甲斐武田に派遣された武田五郎信景、大和阿波路守孝宗、使僧上福院らと諏訪上原城にいが、残存の一千騎を引き連れて戻った勝頼軍に合流して新府城に入った。
 信玄は、在世中、府中(甲府市)周辺には防御施設を構築しなかった。しかし、その武田もやがて始まろうとする信長の総攻撃に備えて、躑躅ケ崎館より約四里先の釜無川右岸の地に新城を着手した。城は七里ケ台の上に構築され、実質的な縄張りは重臣の真田安房守昌幸が行った。一年近い年月と労力とを投じて完成を急がせた新府城である。だが、僅か数カ月で織田軍が侵攻してきたため未完成のまま放置されていた。仕方なく勝頼は評定を開いた。その席で十六歳の御曹司信勝が意中を吐露する。
「お父上は古府中のお城は堀一重の屋敷構えであると不足に思われ、これを法性院信玄公のお考え違いとし、長坂長閑、跡部大炊之介、秋山摂津守、典厩信豊などの人々と信玄公を悪しざまに言われ、この城を構えられたのです。いまになって未完成であるからとここを捨て、古府中に戻られるのは武門の者の名折れではありませぬか。すでに何処にも籠もるべきところはありませぬ。寄る辺なき山野をさすらい逃るるよりも未完の新府城にて、御旗、楯無の鎧を焼き、この場に尋常にご切腹なさるべきかと存じまするが…」
 その声には勝頼側近に対して、敗戦の責任を問う響きがあった。
聞いている高定も信勝のそういう思いは充分に理解出来た。勝頼は高定らの客人衆に対しても誠実でやさしかった。だが、その優しさに勝頼側近は甘えた。
 天正元年九月、客人衆となって以来、ずっと勝頼の側にいる高定は、近頃では勝頼側近に人材はいないと思うようになっていた。ほとんどの家臣が己の栄達と保身に汲々としていて、勝頼のために身を捨てて忠義を尽くそうと心底覚悟している者が少ない。このことが、今回の敗因であると高定は思った。辛辣な信勝の発言に、評定の場は悲しく静まり返るばかりである。
「どうかお屋形様には、上州吾妻に御籠りなさいまするように願い上げまする。わが沼田城は小城ではござりますが、越後上杉、相模北条の角遂の的たる要衝にござります。両者を操れば、十分に武田家再興の基盤足りうる場所と確信いたします」
 しばしあって口を開いたのは、真田昌幸であった。自分が縄張りした新府城が完成を見ないうちに、武田滅亡の危機に直面し、十分に責任を感じているらしい。すると、間髪を入れず声が飛んだ。
「それはなりませぬ。この城を出られるとあらば、是非とも我が岩殿城へお越し下さりますように。命をかけて一族領民でお屋形様をお守りいたしまする」
 言ったのは側近で佞姦(ねいかん)と評判の小山田信茂である。今まで、勝頼は信茂以外の進言を悉(ことごと)く退けていた。
それを見越したように、
「恐れながら真田家は一徳斎幸隆以来、わずか三代にわたり召し使われた家筋にござります。真田沼田にお籠もりあるより、ご譜代の小山田兵衛が申し出た群内岩殿へのご籠城になされては…」
佞臣の一人長坂長閑が勝頼に阿諛(あゆ)した。
高定はまたかと思った。今までにこのような場面は幾度となく経験したことがあった。おおかたの予想どおり、勝頼は、一途に兵衛信茂の忠誠を信じ、それに従う意を述べた。
「それではこれより所領に立ち返り、お迎えの仕度を整え、ふたたび参じますので、その間、一先ず古府中へご避退くださりませ」
 信茂は平伏すると、深々と頭を下げ、せかれるように退席していった。十人にも満たぬ評定であったから、信茂が退散すると、絶望を押し包むその場の寂寥は深まるばかりであった。
 翌早暁(そうぎょう)、未完の新府城に火をかけた勝頼主従、女房衆も含めて六百余騎は古府中へ向けて退却していった。撤退するにあたり勝頼は高定を呼び、今日に至る参陣を労った。
「長い間の参陣、ご苦労でござった。そなたは近江の太守、将軍家にはよしなに伝えてもらいたい。千載一遇の機会あらば、そなたには是非とも信長を倒してほしい…。幸姫を幸せにな…。生きながらえればおそらく武田の血筋を伝える唯一の人となるでござろう…。さらばじゃ」
 これが高定の見た勝頼の最後の姿である。
退却していく敗軍の殿(しんがり)は真田昌幸であった。武田一筋に仕えた昌幸は馬上から高定に黙礼して去っていったが、毅然とした後ろ姿は、二度と勝頼の佞臣どもとは共に戦わぬことを表明していた。勝頼の衰亡に直面し、かつて恩顧を受けた信玄への報恩を志したが佞臣どもの壁を打ち破ることは出来なかった。彼は沼田に帰るにちがいない。勝頼はまた一人勇者を失ったと思った。
高定は憔悴して去っていく敗軍の一団を視界から消え去るまで見送った。
「殿、我等もそろそろ出立いたしませぬと…」
 辻和泉守が高定を促したのはどこからともなく人肉の焼き焦げる匂いが発ちはじめたからである。出立の前、長坂長閑らの側近は、人質として新府城に止めおかれていた近隣領主の妻子数十人を惨殺していたのである。
「恵林寺に戻る」
 乗馬した二郎高定は辻和泉守、本次左京進、久内、鹿之助、勘介ら五人の従卒をしたがえ、五郎信景、大和孝宗、上福院らと牧の荘へ馬を駆った。
 
「馬上の姫君」風一 http://nnr2.netnovel.org/rank17/html/

コメント(1)

トピックの趣旨が分かりませんが…忌憚なく。

真田昌幸は、史実では武田勝頼滅亡以前に、北條氏と内通していたことが残された書状から明らかになっています。武田一筋というのはどうかと思います…真田昌幸のトピックでなんですが…w
長坂釣閑斎は、春日虎綱と仲が非常に悪かったことで佞臣として軍鑑などには描かれてしまっていますが、武田晴信の乳兄で信頼も厚く、武田信虎の代から活躍があり、信濃侵攻戦ではけっこうな活躍をしていますよ。でなければ一時的とはいえ諏訪郡代も任せられませんよ。最期の最期まで武田勝頼とともに運命をともにしたともいいますしね。

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