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女性の側から見たジェンダーコミュの差別について

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元のコミュで私が退会したあと「差別と区別」について話題になっていましたが。
皆さんはどう思われますか?
私はあちらでは発言できないので、こちらで私見を述べさせていただきます。

区別は事実として存在する。男性は戸籍上も肉体的にも男性だし、女性も同じ(性同一性障害などの人は除く)
今の医学では「男性」に子どもは産めないし、授乳もできない。
だから「一切の区別をするな」というのは、生物である以上無理だろう。

しかし、その生物学上の区別を超えた面で「性差があるのは事実」と言ってしまうのは、「差別」であると思う。
男性女性である前に「人間」であって、対等の機会が与えられるべきではないだろうか。
大切なのはこの「機会」ということ。それをどう活かすかは個人の問題。
私があちらやここで問題にしたいのは「男性だから、女性だから」と選択肢の数が違ってしまうことなのである。

それから、権利には同じく義務も伴うということ。
あちらでもでていたが確かに「女性ということに過剰に甘えている人」も存在する。彼女たちは、男性と同じ機会を与えてほしい、その機会を無駄にしないように力を尽くしたいと考える同性の足を引っ張る存在だと思う。
もちろん、肉体上の区別はあるわけで「生理休暇」(私は一度も取ったことはありませんが)や「女性専用車両」を頭から否定するものではない。しかし、その権利に必要以上に甘えることは、結局「弱者」という保護を手に入れる一方で「戦力として期待される」という働くものの喜びを放棄することにもなりかねない。
この点は、女性や弱者といわれる側も考えなくてはならないと思う。義務は果たさず、権利だけ手に入れようとしても、それは無理というものだ。

話題はそれるが、差別そのものについて。
あちらでも述べたが、私は学歴や地域差別と、性差別、民族差別は等しく語るべきでないと思う。
なぜなら、前者は自分の努力で克服できること、後者はどんなに努力してもどうしようもないことだからだ。

努力でどうにもならないことで、差別したり非難したりすることはあってはならないと思うのだが。

コメント(10)

学歴差別や地域差別が自分の努力で克服できるものとは思いません。「足りなければ自分の努力で埋めればいい」というのは、学歴や地域という表面的なもので判断してしまう人を増やしかねません。それって現行の女性差別と同じで、「傾向に従え」と言ってるようなものです。

その他の部分については全く同感です。
>かじかさん
早速のご意見ありがとうございます。
そうですね、性差別と同じく、「有利な側」にはわからないのかもしれません@学歴差別、地域差別

でも、性や民族は絶対的に変えられませんが(性転換手術などはあまりに特殊事例です)学歴や住居は変えることが可能である、そういう意味ではまったくイコールではないと思うのです。
例えば、他のサイトですが夫やその親族、周囲の人に比べて自分の学歴が低いことで卑屈になっている人に、「学歴が全てとは思わないが、自分がそこにこだわるのなら今からでも大学にはいりなおせばよい。今の時代は努力次第で道はいくらでも開けているのだから」というアドヴァイスが多数寄せられていたのを見たことがあります。
私も同感でしたね。石原東京都知事の奥様も若くして結婚したためいかれなかった大学に、子育て終了後入りなおして無事卒業したと思いました。
大卒では入れない宝塚に中卒や高校中退で入った人たちが退団後大検を取って大学に進学している例もたくさん知っています。
彼女たち(偶然ですが私が知っているのは全て女性です)が経済的な面も含めて恵まれているのは事実ですが、並々ならぬ意志と努力があったことも否定できません。

もちろん学歴差別や地域差別をあっていいものと肯定しているわけではありません。しかし、後天的にはほぼ100%変えることのできない性や民族と同一視はできないと言いたいのです。

個人的には、家庭の事情があったり、何か信念があったりして高卒を選んだのではなく、ただ勉強や努力をしたくなかったから、つまり目先の安楽を求めて大学に行かなかった人より、少なくとも大学入試のための努力があったという面で、大卒者の方が優遇されても仕方ないと思う気持ちはあります。
え、学歴って努力の有無で差がついてくるものですか? 最初から大学に行くことだけ目指してる人の間だけならまだそういう側面がありますけど、「頑張った分は報われるべき」という思想は危険ですらあると思います。だから大学は学ぶ人のための存在にならないんですし、社会に出てから大学に入った人の評価が低いんです。
高校や大学に行ってどうだったかは個人の資質の一つとして評価されるべきです。
出版界を中心に根強い地域差別、都市集中を促す日本社会の顔合わせ主義も、改善されて当然です。
にゃんさんのおっしゃっていることは分からないでもないんですが。
確かに学歴は努力の有無だけで差がつくわけではないですよね。
地頭も含め、家庭環境の影響は大きいです。特に親の経済力の差は無視できませんね。
私はあちらでも言われたように、生徒など関わりのある人たちが首都圏の高収入層に限られており、自分自身も娘もいわゆる高学歴層に入るから、地方や貧困層の苦しさが理解できないのかもしれません。

それでも、学歴は努力で克服できる面がわずかでもあると考え、「学歴がない」ことを全ての免罪符にしている人はやはり甘えているのだと思えてならないのです。

繰り返しますが、学歴が全てだとは考えておりません。
学歴に代わる何かを持っている人はそれはそれで立派だし、ポリシーをもって学歴を無視するのならそれでいいと思います。
ただ「差別だ」と騒ぎ立てるのなら、手はないわけではないのに、と思ってしまうのです。

これから久々の家庭教師です(前半は塾の夏期講習でした)
しばらく留守にします。
にゃんさんは「学歴は努力の結果」という考え方と、学歴がないことを免罪符にしてることへの批判とを、ごっちゃにされてるような気がします。
私も長いこと運輸会社にいましたので、免罪符がわりにしてる人々のことはやはり腹が立ちます。それでいて、学歴が上なんだからリーダー格になれよ、という依存思想。そういうのは個人の資質で決めろよ、といいたくなります。でも、だからといって「努力したんだからオマエらとは違うんだ」という考え方が許されるかというと、それは違うと思います。彼らもまた別種の努力をしてきたのかもしれません(だとすると学歴で判断することがいかに無意味か分かります)し、私にかなわないことだってあります。
すいません。「私にかなわないこと」ではなく、「私にはかなわないこと」でした。一文字のミスで意味が百八十度変わってしまいますね。
>かじかさん
レスが遅れて申し訳ありません。
「学歴は努力の成果」という考え方と、学歴がないことを免罪符にしていることへの批判は、対極にあるものではないので、両立することに矛盾はないと思います。
私はどちらの考えも持っていますが、それは「ごっちゃにしている」ではなく、「AもBも」だと思っていますがいかがでしょうか?

どちらにしても「その人なりの最大限の努力をしているかどうか」が鍵のような気がしますが。
自分なりに一生懸命やっている人は拘りがなく、見下すことも卑屈になることもどちらもないのでしょうね。

一方、なりあがりといわれる人たちや、芸能人、スポーツ選手など、学歴がなくても特殊技能で高名となり高収入を得ている人たちがこぞって自分の子どもたちに高い学歴をつけようと私学に通わせている姿は興味深いものがあります。
彼らのほうが、高学歴層の一般大衆である人たちより、学歴の重みを痛感しているのかもしれません。
つまり、特殊技能がない場合は、頼るものは学歴しかない、と。
あのね、にゃんさん。

>それでも、学歴は努力で克服できる面がわずかでもあると
>考え、「学歴がない」ことを全ての免罪符にしている人は
>やはり甘えているのだと思えてならないのです。

4でのこのご発言を見て、ああ、にゃんさんはごっちゃにされてるなーと思うんですよ。
確かに「AもBも」というケースはあり得ますが、どんな集合だってあり得るでしょう。「AでないかつB」を勝手に「AかつB」としてはいけませんから。

努力は必ずしも報われないというのが私の考え方です。むろん、努力しない分だけ可能性は遠のきますから、努力が不必要とは申しませんが(「人事を尽くして天命を待つ」は好きな言葉です)、だからといって「必ず」報われるとするのも危険ではないかと。

 人間、いろんな側面があるもんですが、取り得がないから学歴に頼るというのも変な話です。そういう人に限って、人を客観的かつ多面的に評価する社会に変えようという努力は、全くしていないものです。
 最近、別に遊んで暮らそうとしていないのに就職できないとか、就職できないことはないけれど自分に合わないものを選ばざるを得ないというケースが増えてきたといわれます。であれば、いい加減な人物評価しかしない企業が多いくせに前向きに就職できないような社会から、憲法25条程度の扶助を受けることは、当然の権利だとすら私には思えます。そう実感できない人は、現状での人物評価のいい加減さや、不器用な人が自分に合わないことを強いられることのデメリットについて、よほど認識が甘いのだろうと思っております。甘いわりに、学歴に安易に頼るというズル賢さだけはすぐにはたらく、というわけですね。
>かじかさん
そうですね、批判を覚悟で言えば私の根本的な考え方は「努力の有無で克服できることを、努力が足りないために達成できなかった場合、差別されても仕方ない面もある」ということです。

努力は必ずしも報われるものではないと私も思いますが、まったく努力しないのとはやはり結果は違うと思います。一見努力も何もなしに美味しい果実を手に入れているように見える人も、一部の生まれながらに恵まれている人を除いて、見えないところでの努力はしているのだと思いますよ。まさに「優雅に水面を動いている白鳥は、水面下では必死に足を動かしている」ですね。

>最近、別に遊んで暮らそうとしていないのに就職できないとか、就職できないことはないけれど自分に合わないものを選ばざるを得ないというケースが増えてきたといわれます。
この部分については、それが嫌だからニートになるなどと言う人は、私は甘いと言わざるを得ません。
誰だって好きなことだけして生きていかれるわけではないんですよ。嫌なこと、辛いことはたくさんあるんです。それでもみんな生きるために折り合いをつけてるんですね。
そういう我慢が足りない人が最近増えているのが問題だと思います。これは子育てが悪いと私は思うのです。戦前戦中に過剰な我慢を強いられた反動か「我慢は悪いこと」とばかりに、好きなことしかしないでいい、と子どもに教える親が多すぎる。私は「学校は我慢を学ぶところでもある」と思いますから。無人島で一人暮らしするわけではないのですからね。誰もが自分の我だけ押し通したいと思っては、集団生活が成り立たないでしょう。

嫌なこと、辛いこともしなければならない、という面では、あちらのコミュにも関連しますが、教師という職業は恵まれていると思います。その「恵まれている」という事実を認識していない人が多いですね。自分の日記には書きましたが「教員採用には一定期間の民間での勤務、それもできれば肉体労働やサービス業などの勤務経験を条件とする」ことを求めます。

不器用な人が自分に合わないことを強いられるデメリット、これは甘えだと私は思います。くりかえしますが、誰だって程度の差はあれ、自分にあわないことを強いられているのではないでしょうか?ニートやフリーターの言訳でしかないと思うのですが。
>誰だって程度の差はあれ、自分にあわないことを強いられているのではないでしょうか?

それは全くその通りです。でも、機敏に動けない人が集配の仕事を毎日やるとしたらどうでしょう? それは、単に「嫌いなことはしたくない」話とは根本的に違うことです。
 そんなことをするよりも、自分に合った仕事に転職するほうが、よほど前向きではないでしょうか。そりゃ、仕事しないより仕事したほうが社会にとってもいいに決まってますから、時間限定(実労8時間)までならいい、と似合わない職業に就くのもアリです。しかし、残念ながら「8時間をこえて働かせてはならない」という労働基準法上の原則(例外もありますが、1日8時間基準ということには変わらない)なんて、日本では単なるタテマエでしょう?
 にゃんさんだって、やる気のない同僚がいたら、「お前、こんなところで働いてないで、よそで働いてくれよ」と思うんじゃないでしょうか。もしかするとそれが本人にとっても幸せなことかもしれません。にもかかわらず、それを単なる「嫌いなことはしたくない」とごっちゃにする人は後を絶たず、自分の周囲にさえそういう人がいなければ、というNINBY的考え方をする人は多いと思うんですよ。じゃ、行き場のない人は死んでも構わないんですかね? もしそうお思いなら、一刻も早く憲法25条の改正運動を始められることをお薦めします。
 私だったらそんなやり方より、「健康で文化的な最低限度の生活は保障するから、働いてる者よりは稼いでくれるなよな」としますね。そうやって離職しやすくしたほうが、職場にやる気のある人しか残らない確率が高くなりますし(そのほうがか「労働って苦もあるけど楽しいこともある」と思いやすいし)、現状で最低賃金が生活保護より安いのは厚生労働省が長年(少なくとも10年は)放ったらかしにしてきた問題ですから。
(なお、「単に好きなことしかしない」ことについては私も親の責任が大きいと思います。)

 ともかく、集団とか努力とかいう言葉がことさら美化されている現状は、私には納得できないですね。いつまでもそんなものが美化されてるから、いつまで経っても自立した個なんて育たないんですよ。
 元のコミュで私は最近、「子どものパロール」というフレネ教育のトピをつくりましたけど、フレネでは個人個人が同一空間でめいめい勝手に学んでます。で、時には学んだ内容を発表する場があるので、例えば一台の印刷機をクラス全員が使わないといけなくなります。そのとき、印刷機を使いたいと思った順に使うのが自然でしょうから、並んだ人順というルールが出来上がっていくんですよね。
 これに対して、ルールを教師の指示で済まそうというのが、いまの教育のやり方でしょうね。教師がいくら必要性に触れたとしても、子どもが必要性に駆られて作ったルールのほうが説得力があるのは、いうまでもないことです。緊急時とかはまた別でしょうけれど。

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