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お城めぐりしよう!コミュの石碑(城祉碑)部

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初のトピ立て失礼します。出羽国出身武蔵国在住の寿司太郎と申します。

このコミュでの情報は大変勉強になり、既に私のライフワークになっている『お城めぐり』にとても役立っています。さて、いろんなトピを拝見しているのですが、『石碑(城祉碑)』専門のトピはまだ無いのでは?という事で、新たに立てさせて頂きたく思いました。私にとっての『石碑(城祉碑)』はお城を訪れた『証』です。最近は『日本100名城スタンプラリー』など便利な本も発刊されていますが、本当にマイナーなお城(城跡)は石碑(案内看板)だけという事も多いですよね?是非皆さんと一緒に石碑に関する(それ以外でも)情報交換が出来たら…と考えております。写真のアップが基本となりそうですが、どうぞ宜しくお願い致します。


★写真左=上野国名胡桃城祉・・・無念!鈴木主水重則殿!!?。秀吉の小田原征伐の起因となった運命の城です。

★写真中=越後国本与板城祉・・・何故か本丸敷地内に2つも石碑が…。地元の人も現地をあまり知らずちょっと迷いました。

★写真右=岩代国神指城跡・・・幻の城跡。石碑はありませんでしたが欅の大木が目印となっていました。訪れた時には辺り一面霧がかかって、浮かび上がった城跡が神秘なものに見えました。

コメント(814)

久徳城(きゅうとくじょう) 平城 土塁と堀が残っています。
滋賀県犬上郡多賀町久徳
城主は近江中原氏の支流である多賀氏の分れの久徳氏。
永禄3年(1560年)浅井氏によって攻められ久徳城は落城し、城主であった久徳実時をはじめ二百余名が討死したという。
元亀元年(1570年)久徳左近兵衛は織田信長に降り、堀秀村や羽柴秀吉の配下となった。本能寺の変では明智光秀に与して改易となったが、後に秀吉から三千石の旧領が与えられたという。
加茂城(構居) 英賀城の出城(平城)案内板のみ
兵庫県姫路市飾磨区加茂
北脇城(構居) 平屋敷城 案内板のみ 西法寺
兵庫県高砂市北浜町北脇
大塩氏によって築城
大塩氏は藤原茂景・景元が、山名氏の播磨侵攻に対して赤松則祐に従って武功を挙げ、大塩荘を賜り、のちに大塩氏を称し
天正6年(1578年)大塩次郎左衛門とその子小六は別所氏に従って三木城に籠城して討死
宮川陣屋 陣屋  
長浜市宮司町
元禄十一年(1698)、上野国吉井藩から堀田正休が1万石で入封し、陣屋を構えた。
最後の藩主正養は出羽亀田藩主岩城隆喜の子で堀田家に養子に入り、戊辰戦争では他の近江の小藩同様彦根藩の影響を強く受けて、新政府軍側に立った。
金剛寺城 平館城 案内板のみ 近くの神社に湧水が有ります。
近江八幡市金剛寺町
金剛寺は佐々木荘で、六角頼綱(佐々木家第4代当主)の時からこの地に別館を設けていたという。頼綱を金田殿と称した。
応仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興金剛寺城(安土・慈恩寺)されます。
延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。
宇尾城(大宇城) 石碑(神社の左奥方向の梅林の中に有ります) 
滋賀県彦根市宇尾町190
宇尾町はかつて「大宇」とも呼ばれ、河瀬一族である大宇大和守高秀と秀則の2代が居城したところです。高秀は、一時期、隣村の甘呂に居住していたようですが、後に当地に城館を移して、大宇と名乗りを改めたといいます。
(再訪問)岩脇館 館城
 米原市岩脇町 (旧坂田郡近江町岩脇) 
現在公民館で遺構はありません、写真1、2は隣接する神社です。
再訪問で説明碑は発見しましたが岩脇山の西麓にあると言う「岩脇氏」墓石は見つからづ。
新庄城 平館城 案内板のみ <高島七頭>
高島市新旭町新庄
元々は清水山城の出城として築城されたようですが、築城時期などは定かではない。高島氏一族の新庄実秀が居城した。永正年間には浅見俊孝、永禄年間には多胡久秀・定信が城主であった。元亀四年(1573年)に織田信長は多胡宗右衛門に本知を安堵したとあるようです。 新庄城は、佐々木越中氏が城主であった清水山城の出城と伝えられ、戦国時代には浅見氏や多胡氏が城主であったと伝えられています。
近江 小脇館
滋賀県東近江市小脇町
佐々木氏の館
建久元年(1190年)上洛した源頼朝が鎌倉にもどる途中に小脇宿に一泊しており、これが佐々木定綱館とも考えられている。
嘉禎4年(1238年)四代将軍頼経が上洛の帰途、佐々木信綱の小脇館で宿泊している。
同じ源氏ですから。
近江 大森陣屋 石碑のみ
滋賀県東近江市大森町
東北の名門最上家の一族で元和8年(1622年)最上騒動によって改易となり、近江国大森の地に一万石で再封された。寛永8年(1631年)義俊が没すると義智が家督を相続するが、幼小であったことから所領を半減され五千石となり、これによって大名ではなく以後交代寄合の旗本となった。以後代々続いて明治に至る。
南1kmには六角氏の家臣の大森城があります。
越前 舟寄館(ふなよせやかた) 平館城 
福井県坂井市丸岡町舟寄 日東シンコーの工場内、門を入って右角(守衛さんの許可を貰う事)
加賀の一向一揆に対抗する為、朝倉義景の家臣黒坂備中守景久に館を構えさせ坂井郡東部一帯を治めたそうです。
越前 青蓮華館 平館城 石碑のみ
福井県坂井市春江町正蓮花
天正元年4月(1573年)に越前に侵攻した織田信長によって滅ぼされた朝倉氏の庶流、勝蓮華氏によって築城
越前 石丸城 平城
福井県福井市石盛
新田義貞のお城見たいです。
越前 金津城 溝江館 
福井県あわら市大溝1
西に在る堀江館の堀江氏が秘かに一向一揆と結んで朝倉氏に背くとの風説が広まり、朝倉方が本陣を置いたのがこの溝江館でその後、織田方の物に
越前 松岡陣屋
福井県吉田郡永平寺町松岡葵1
越前福井藩の分藩 5万石の陣屋
河岸段丘の上に位置しています。
越前 真柄館
福井県越前市真柄町下真柄
大太刀を振り回して戦場を駆け巡った豪傑で、元亀元年(1570年)姉川合戦で嫡子十郎太郎隆基とともに討死した真柄勘助の館
村の英雄だった見たいです。
☆ 朝倉氏攻略の先陣、柴田勝家の城
越前 柴田城
福井県鯖江市
単郭の四方土塁のお城見たいです。
写真3は土塁の一部です。
本隊の織田信長は鯖江市中心部の越前 龍門寺城から一乗谷へ進軍したそうです。
須賀村陣屋
兵庫県宍粟市山崎町須賀沢
城主:服部六左衛門
延宝7年(1679年)、宍粟藩取り潰し後、郡内の一部を代官服部六左衛門が支配しました。
須賀代官は、この辺の天領-須賀、三谷、中野、上ノ、皆河等からの上納米をとりしきり一般行政に当り但馬の生野代官の支配下にあったそうです。
浜御殿(宍粟市) 山崎城の本田氏の1万石の御殿
宍粟市市役所の北東
石碑のみかと思っていたのですが更に北に行けば石垣も残っているみたいで
写真3はニッポン城巡りさんからの写真です。

須賀村陣屋のコメント入れ忘れたのですが
戦前まで周囲の塀と時代劇の奉行所のお白洲(おしらす)の建物が残っていたそうです。
(地元の方からの情報)
阿波 七条城 平城 (石碑のみ)
徳島県板野郡上板町七條
七条氏の城、城主七条兼仲は、天正10年(1582年)中富川の合戦で討死

六条城 平城
徳島県板野郡上板町六條
三好何右衛門を城主とする(遺構無し)

下六条城が板東紀伊守を城主とする。(遺構無し)

五条城 平城
徳島県阿波市吉野町五条字本郷
城主は小笠原氏の高志下野守清之で清之の子、高志右近清久は天正10年(1582年)中富川の合戦で討死(遺構無し)
相模 荒井城
神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴字城口(荒井城址公園)
現状タダの公園ですけど近くの浜から源頼朝一行が東京湾を渡り千葉に渡った浜があります。
写真 公園入り口、園内、出港の浜

石碑も公園手前100m位の交差点に地味にあります。
摂津 芥川城(平城)
大阪府高槻市殿町8

石碑のみ個人宅です。
大和 田原本陣屋
奈良県磯城郡田原本町(田原本町役場)
町役場のPに説明版のみ
大和 唐院城  元々は四方水堀の平城(一部二重堀)→ 民家と荒れ地
奈良県磯城郡川西町唐院(島の山古墳と言う前方後円墳の南西)

『国民郷土記』に仲村長右衛門の唐院山城が記されているそうです。
写真 北堀跡 現状道路ですけど地図で見ると変型形の如何にもお堀の跡
   南堀跡
   南東にあった説明版
大和 今井城 平城
奈良県五條市今井町
石碑しかありません。写真間違った訳でも(小山三箇城)
 下野国足利城〔足利市指定史跡〕です。
 足利城については以下を御参照下さい。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984173469&owner_id=250900
鳥取県倉吉市の打吹城跡
本丸跡に有る石碑です。
>>[804]

ここも、2泊して、そのうちの1日使ってみました。
>>[807]
 私は四泊して君津市内を細かい所まで回ってみました。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984592807&owner_id=250900
>>[774]
遠目にはお墓と勘違いしてスルーしてしまいそうですね。
これは探す難易度高そう。
>>[810]
普通、道路わきにあるものじゃないですか?
畑の真ん中って、訪問販売員、介護ヘルパー、郵便配達員に聞いても解らなくて、訪問販売の方は一緒に探して下さったりあせあせ(飛び散る汗)
なんとかそれらしき物を遠目に確認するも辿り着く道が無い
地図をよくよく拡大すると、細い畦道が繋がってて
集落をくるっと回って辿り着いた感じで
たかが集落内の石碑でこれほど苦戦するとはがまん顔
今でも鮮明にメモリーされています。リボン
愛知県小牧市
楽田城址

長閑な町の小学校の前にあります。
北方警備の会津藩士の墓
根室半島と知床半島の間の野付半島の中間にあります。トドワラと言う景勝地です。

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