ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

風景/場所と心的地図コミュのアウシュヴィッツ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
2005年の夏、ワルシャワにて元アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきました。
 アウシュヴィッツという名はナチスが市の名前を変更したため、現在は元の名の「オシフィエンチム(Oswiecim)」に戻されています。現地ではアウシュヴィッツという言葉は使いません。使ってはいけないという暗黙の了解があります。元はポーランド政治犯を収容するために設立されましたが、最終的には史上最悪の虐殺収容所として歴史に名を刻みました。以後の史実は省きます。
 30年ほど前はこの地に訪れる人達は遺族の方々が主で、その他でここをにくる人はほとんどいなかったようです。しかし現在では収容所の前には巨大な駐車場のなかで観光バスがひしめき合っています。そう、観光地化されているのです。
 展示室はかなり充実しており、一部屋を髪の毛で埋めた展示や当時を伝えるような生々しい道具類。 第一収容所全部で約30棟ほどあり、時間をかけて歩くには体力がいります。
 この場所にきて一番に感じたことは、本当に伝わるべき風景はもうここにはないのではないか、ということでした。この場所には色んな国から若者も含めて見学に来ています。そこでの彼らの表情は極めて無邪気で、いかに今日の記念を残すかで頭がいっぱいのようにもみえました。ガス室内で抹殺された人体を焼却する錆びた装置を興味の対象とし、そこにシャッターを押しあてる外国の青年達。ここには眼で見ることのほかに、音を聞くこと、声を聞くこと、匂いを感じること、またこの手で触れることさえも出来るはずなのに。風景はフィルターを介した伝達物として、目的を収める事を目的とした光景が何度も僕の前を覆いました。

ここでの我々は、最後まで記念を約束された「お客」でしかなかった気がします。

コメント(2)

この現代における「アウシュヴィッツの位置づけ」に関して、詩人・平出隆氏による重要な視点を含んだエッセイに出会ったので載せておきます。社会での位置づけのみならずボイスやカバコフを挙げて現代美術との接点を見出そうともされています。



【アウシュヴィッツで見たものは、見えなかったものでもある。あそこは、いまでは「博物館」だ。大虐殺の現場であって、しかももう「現場」ではない。センターの建物ではインフォメーションが提供され、資料や記念品が売られている。レストランやカフェもある。決まった時間に映画が上映され、ガイドツアーが出る。ドイツのギムナジウムからの見学がふえている、と聞いた。見学ばかりか、生徒たちに奉仕活動をさせるドイツの学校があるとも聞いた。
 アウシュヴィッツが「博物館」であるという意味は、社会的な定義によってもそうだが、それだけの意味ではない。博物館とはどういうものか、記念、収蔵、展示とはどういうことかを、あの場所自体が、そのことの不可能さを露呈させることによって定義しているのではないか、そんなふうに思われるのだ。
 たとえば、犠牲者の残した衣服の山、靴の山、最低限の身のまわりのものを詰めてもってきたトランクの山、人々の遺体から削ぎ取られた頭髪の山、眼鏡の山、義手義足の山の展示を見て歩いていると、一瞬、既視感に襲われた。たとえば、ベルリンならよく行われる、廃された建物を利用した展覧会で、ヨーゼフ・ボイスやイリヤ・カバコフらの、現代美術の作品を見て歩いているような錯覚にとらわれるのだった。これはしかし、単純な倒錯ではなさそうだった。アウシュヴィッツがあれらの作品を、アウシュヴィッツ以後の芸術として性格づけてしまったのだ、ともいえるからである。芸術作品が帯びようと求める真実をいとも厳然と帯びているこれらのものを前にしては、こちらの倒錯感そのものが倒錯しているというべきだろう。】


平出隆『ベルリンの瞬間』302頁、2002年、集英社

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

風景/場所と心的地図 更新情報

風景/場所と心的地図のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング