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日記ロワイアルコミュの西澤さんのことが忘れられない。

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 西澤さんのことが忘れられない。
 臨時で雇った二歳年下の派遣の女の子だった。初めて事務所に来てくれた日、大雨が降って電車が止まっていた。時間ぎりぎりでやってきた彼女は、
「すみません、タクシー運転手の方も、道に迷ってしまって」。
 その詫びの入れ方が心に美しくて、すると、光の波紋が広がっていくように、その真剣な表情や、ベージュの傘、鬱々とした雨の銀座さえもが、いつもよりも魅力的に見えた。
 僕は女性と仕事をするのがあまり好きではなく、この瞬間を迎えるまで、とても緊張していた。女の人は、身一つで嫁に行き、やがて数か月後には、家庭で一番力を持つ。その本能を職場にまで持ち込み、派遣の身分でも遺憾なく発揮する強者が、たまにとは言わずよくいる。僕はこれまで何度も彼女たちにやられてきた。そういう女の子は学生時代にも、就職してからも、どのグループにも必ず一人はいた。気分の浮き沈みが激しく、自称サバサバ、本性はネチネチ。そのくせ人の気持ちを機微に読み取り権力を掌握するのがうまい。
 なので、銀座の小さな貸事務所で支社を任されたとき、
「若い女の子は決して使うまい」
 と心に決めた。女性の感性が必要な場面では、ハローワークから臨時に採った50代や60代の主婦の方に作業をお願いした。
 しかし、ある時期、ほんとに人手が足らなくて困った。泣きたくなるほど時間も足らなかった。僕は人材派遣をやっている先輩に電話をして、
「パソコンで文字が打てれば誰だっていい」。
 そう注文してから、若い女の子はよしてくれ、と付け加えるのを忘れたことに気が付いた。
「たつやが好きそうな女の子送るからさ」
 それで紹介してくれたのが西澤さんだった。

 西澤さんは、とても頭の良い人だった。会話の端々にそれはよく表れていた。何をどのくらい発注すれば赤がでなくて済むか、と言った問題に僕が悩んでいるときでも、西澤さんに相談すれば、自信をもって一つの答えにたどり着くことが出来た。頭の中がクリアになった。
 また、西澤さんは優しかった。初出勤の翌日にアロエを持ってきてくれた。聞けば、始終左手の甲を掻いている僕の皮膚を見て、とのことである。
 それに、僕が外出先から帰ってくると、すでに先方に先回りして電話をかけてくれていることがよくあった。僕は出向先に「これから向かいますので、あれを用意しておいてください」などという電話をいれることすら心に10万トンの負担がかかるタイプだ。彼女の機転には、とても助けられた。
 しかし、そういうことがあるたびに、僕はとても不安になった。自分を守るための壁がどんどん剥がれ落ちていく。王国に冷たい風が吹き込む。ある人はそれを、自由の風、さわやかな風、と呼ぶのかもしれないけれど、夏が終わった瞬間に冬の訪れを恐怖するようなネガティブ志向の僕は、西澤さんに心を許していく自分が、すごく、怖かった。

 西澤さんは絶対に残業をしなかった。なんらかの理由があるらしいが、踏み込まなかった。
 時計の針が12を差すと、さっと書類を片付け、
「ここまでやったので、続きは、ここからになります」
 と報告をのこし、デスクの上のゴミを片付け、あとを濁さず帰った。
 狭い貸し事務所は、西澤さんが帰った後、さらに狭くなる。寂しさと同時に、妙な自由な気持ちにもなる。とたんに晴れ晴れして、スマホで音楽を流し、沿って歌い、僕は残業に精を出す。そうしていくうちに、西澤さんと会話がしたくなってくる。電話をかけて、軽くてテンポのいい会話をしたくなってくる-出来るわけもなく。
 そんなふうに西澤さんのことを考えていると、人材派遣の先輩から電話がかかってきて、
「西澤ちゃんどう?」
 だとか、
「ちゃんとやってる?」
 などと評価を求めてくる。
 ある日僕は、
「彼女、とても優秀で助かるんですが、どうしても残業ができないって言うんです」
 と愚痴でもなく咎めてほしいわけでもなく、世間話の延長で言った。
「あ、そうなんだ」と軽く先輩は言い、「それならもう一人派遣送ろうか?」。
 それが先輩の商売である。しかし僕からしてもちょうど、もう一人いればな、と思っていたところだった。
「お願いします。残業OKな人を」
 と僕は言い「まかしてー、サンキュー」などと言われ、電話を切り、作業に戻った時に、またしても「若い女の子NGで」と添えることを忘れたことに気が付いた。
 でも、まあいいか。とそのときは考えた。

 西澤さんがわき目も振らずに数字を入力していくExcel。僕は出向先から帰ってくるなり、それをチェックする。そのうちにどこかから電話がかかってきて、また僕は出向かなければならない。利便をはかり、125ccの小さなバイクを経費でリースした。それで、都内ならどこへでも行く。電車よりも早く出向先に到着できる。渋滞を心配する必要もなし。しかし敵は天候である。
 雨が降ったある日、ずぶぬれで貸事務所に帰ると、
「もう遅いかもしれないけれど」
 と西澤さんが合羽を買っていてくれた。「コンビニの合羽じゃだめだと思って、ハンズで、バイク用の合羽を買ってきました。お昼ご飯のついでに」
 僕は「ありがとう」と言ってから、「領収書ある?」というと、「いや、そういうんじゃないんで、いいです」と西澤さんは笑顔で言う。僕は西澤さんへの感謝の気持ちはもちろんのこと、こんな素晴らしい人格はどのように形成されるに至ったのか、と下品にも気になり、会話の流れの中から、西澤さんが四人兄弟の二番目で、今でも兄弟と一緒に住んでいるということを知った。
「親御さんは?」
 と僕は尋ねた。
「北海道にいます」
「北海道から四人兄弟一緒に出てきたの?」
「はじめは兄が、大学入学に伴ってこっちで一人暮らしはじめました。そのあと、兄が就職してから下三人、どばっと」
「どばっと」
 僕は笑った。笑おうと思って笑ったのではなく、笑ってしまったのだった。そういう笑い方は久々だった。
「私を含めた上の三人は、年子なんです」
「すげえな」
 と素直に口をついてしまったのに対して、
「でしょ」
 と西澤さんが初めての無防備。
「一番末っ子はいくつなの?」
「びっくりしますよ」
「いくつ?」
「一番下の弟、まだ小学生なんです」
「親御さん、仲がいいんだね」
 と僕は”含めて”言った。
 やがてまた電話が鳴り、僕は呼ばれて飛び出していく。貸事務所の扉をしめようとしたときに、西澤さんが「合羽持っていってください」。
「ありがとう」
 と僕は言って受け取ったけれど、少しくらいの雨だったら、この合羽は大事にヘルメット入れの中にしまっておこうと思った。何もかもを弾き飛ばせそうな、オレンジ色の合羽だった。


 雨が降らないのなら降らないで、合羽の出番がないことにがっかりした。
 貸事務所の駐輪場にバイクを止め、ヘルメットをはずし、腕時計を見ると、西澤さんの退社時間を十分程過ぎていた。
 僕は急いで事務所に戻ったが、暗証番号を押し扉を開けた瞬間、電気が消えていたので落ち込んでしまった。西澤さんはもう帰っていたのだ。
 するとケイタイが震えた。
「定時であがりました。お先にすみません。お疲れ様でした」
 という西澤さんの報告を期待したが、違った。
「おっすー」
 声は、あの軽々しい人材派遣の先輩。ふわふわ浮かんでいきそうな。
「どうも」
「なんだよ、元気ないな。とにかく、遅くなってすまん、明日からまたもう一人送るから。よろしくな」
「助かります。それそうと、あの、先輩」
「どうした」
「ちなみにどんな子すか」
「まあ、頭もいいし、Excelもパワポも電話応対も問題ない。運転もできる。ってか慶応なんだよ。強いだろ? っつってもまあ中退してるけど」
「へー」
「そんでさ」
「はい」
「俺の元カノだから」
「あ、そうなんすか」
「そう、三年同棲した。んだけど、こないだ別れて、今は友達んとこ住んでるらしい。まあ、そういうわけで金に困ってる子だから、ばんばん残業使ってやってくれよ。…って、俺が言ってた、ってあいつに言わなくていいからな」
「分かりました」
 少し沈黙。間。
「あのさ、お前ってさ」
「はい」
「なんで仕事ってしてんの? 金? 趣味? 生きがい?」
「さー…なんででしょうね」
 水素ガスよりも軽い先輩がそんなことを言うものだから、驚いて言葉につまった。「先輩はなんでですか?」
「俺はね、女」
「女?」
 僕はしかたがなくギシギシ笑った。
「うん。女。だから女の子をお前に送ってやることが、俺としても嬉しいわけ。高校の先輩として」
「それが先輩のかつての恋人でも、ですか?」
「俺はもう、新しい彼女いるからいいんだよ」
 ははは、と先輩が笑うので、僕もギシギシギシ。
 じゃあな、また人足らなかったら連絡しろよな、と先輩は言って電話が切れる。電気もつけずに、空間に沈殿しながら僕は考えた。
 その子。
 あの先輩と三年も暮らしていたというなら、間違いなく菩薩のような女の子なんだろう。だって、僕じゃ、絶対無理。

 自分の椅子の背もたれに手をあて、引く。すると、閉じたノートパソコンの上に、書置きがある。西澤さんの筆跡だ。お先に失礼します。お疲れ様でした。改行があり、この書置きの裏にJリーグのチケットが二枚あります。明日詳しくご説明いたします♪ とある。
 僕はそれを手にした瞬間、大きな買い物の契約書にサインをしたあとのような浮ついた気持ちから、何もかもやる気がなくなって、倉庫に閉じこもり、気持ちを落ち着かせるための背伸びをすると、外から雨音がして、帰る気もなくなり、「ここで朝まで過ごすのも楽しそうだな」と妙なことを思いつき、眠ってやろうと決意した。
「先輩はなんでですか?」
「俺はね、女」
「女?」
「うん。女。だから女の子をお前に派遣してやることが、俺としても嬉しいわけ」
 僕は倉庫に置いたぼろぼろのソファに横臥したまま、あげえうとまらしゃいじゃがあ、と故郷の言葉で嘆いてから、スマホを開き、好きなディズニー短編映画でも視聴しようとクリックしたその瞬間に、彗星のような眠りが隕ちてきて。
 そのまま。


 秋もあけぼの。
 だんだんとビルの輪郭が白くなっていく。順に、ビル、白、水色、紫、紺、黒、月、星。
 眠り浅く、目、覚めてしまった僕は、銀座の夜明けを、貸事務所の窓から観察する。黒いこうもりスーツを来た男たちが、東京駅方面に向かってヨタヨタ歩いていく。または東京駅からこちら、銀座に向かってくる姿。出勤だろう。
 彼らの姿は、よく、意志のない、疲れていて、不幸な姿だと言われる。でもそれは誰と比べた不幸なんだろう。芸能人? 経営者? 就職前の、もしくは就職してない大学生やフリーター? 僕らのようなくたびれた黒スーツが、ある日、手を組み、一斉に「やーめた」と言って、ストライキを起こし、ガラガラの東京駅、渋谷駅、新宿駅、山手線、丸ノ内線、社会をあっと言わせてみたいけれど、それをやる勇気がなくて、親や妻に申し訳なくて、みんな不幸な顔。とはいっても、満員電車の男たちが、みんなニコニコ笑顔だったら-僕はそんな世の中の方が、怖いけれど。社会を知るほど、こんな世界が幸せだったら嘘だと思う。病んでて当たり前。精神病な街。銀座。
 とにかく。
 このセンスのない街はいったいなんなんだろう。不潔で色弱で、どこもかしこも薄く小便のにおいがする。
 セブンでカップ麺を食べ、もう一度寝てみようとして失敗し、そうこうしていると何時間か経過していて、「YouTube:成功哲学講座-金持ち兄さんは長財布を持たない」を映した画面に着信。知らない番号。今日初の派遣さん。先輩の元カノ。慶応中退。道に迷ったという。
「ここは銀座東であって、東銀座じゃないんだけど、どうかな」
「なるほどですね」
 この子ほんとに電話応対大丈夫なのか? と僕は思ってしまった。
 
 会ってみるとよく喋る今風の女の子。ファッションのことはよく分からないけれど、ピンク色で、ふわふわとしたレースがスカートについていて、ビジネスカジュアルから若干領土越えしてしまっているような。ハンモックみたいなまつげ。エレクトリカルパレードみたいな爪。でも仕事ができるならこのくらい範囲内だぜ、と僕は閾値再設定。
 そんな彼女を連れてエレベーターに乗り、
「ごめん、先輩から名前聞くの忘れてたんだけど」
 と、僕。
「そうなんですね。ってか普通、クライアントさんに名前くらい言っておきますよね」
 あはは、と笑う彼女。エレベーターの昇る音。
「そうだね」と僕はギシギシ。そして、「名前は?」。
「ヨウコです」
 下の名前から言うか? と驚く。
「ヨウコさん」
「そうです。ほんとあいつ、私の名前言っておかないだなんて。聞きました? 私たちのこと。付き合ってたんです」
 ああ、なんか、らしいね、聞いてるよ、と僕。エレベーター到着。 
 貸事務所の扉は暗証ロックがかかっている。解除の番号を彼女に教える。
「メモとらなくていいの?」
 と言えば、
「私記憶力ばっちりなんで」
 とヨウコ。顔が近い。
 そうしてようやく扉を開けると、もう西澤さんが出社していて、
「おはようございます」
 と言った瞬間に、
「ヨウコちゃん!」
「西澤さん!」
 二人は同じ派遣会社同士、知り合いだった。

 西澤さんがヨウコに作業内容を説明してくれる。ヨウコは飲み込みが早いらしい。うんうん、頷いている。たまに切り込むようにして、西澤さんに鋭い質問を返すと、西澤さんは、
「えっと、それはなんでしたっけ」
 と僕に尋ねる。
「たぶんこういうことなんじゃないかな」
 と自問自答のヨウコ。そしてそれはほとんどの場合、間違っていなかった。本当に賢い人なのだ。
 昨日までは西澤さんが一人で入力していたデータを、今日からは二人で打ち込むことになったわけで、僕としては溜飲が下がる。二人の強迫的なキーボードの音に耳を澄ませる。
「そういえば、昨日置いておいたJリーグのチケットなんですけど」
 と西澤さん。
「えーJリーグ! 私サッカー超好きー」
 とヨウコ。
「そうそうこのチケット。どうしたの?」
 と僕。
「昨日、私一人のときに、●●通信の方々がいらっしゃって、協賛してるチームから義理で関係者席買ったんだけど席が埋まらなくちゃ顔が立たない、だから、お金取らないんで試合見に行ってくれないか、っておっしゃるんです」
「それで二枚受け取っちゃったんだ?」
「はい」と西澤さん。「勝手にごめんなさい」
「なんで三枚にしなかったの」
 とヨウコが半ば本気のような顔をして言う。
 試合は明日。水曜日。残業しないさせない、と決まっている曜日である。
「西澤さんとヨウコさんと、二人で行って来れば?」
 と僕。
 すると、
「私、ちょっと明日、夜、用事があるんです」
 と西澤さん。
「ああ、レッスン?」
 とヨウコ。
 ええ、まあ、と西澤さんははぐらかす。
 レッスンってなんだろう、と僕は妙に勘ぐる。

 先輩の言う通りヨウコの能力は、今までの派遣さんの中でもダントツ、まるでコンピューターだった。手際がいい。集中力がすごい。質問も簡潔。記憶力もいい。
 定刻前に今日二人が処理した書類の枚数を比べてみると、西澤さんの1,5倍のデータを、ヨウコは入力し終えていた。それでいて、残業もしてくれるというので、お金の面から言えば、もう西澤さんは必要ないのではないかと僕はうっすら思った。
「お疲れ様でした」
 と帰ろうとする西澤さんに、残業を快諾してくれたヨウコが、
「今日もレッスン?」
 と尋ねると、
「うん、えへへ」
 と西澤さんははぐらかし、「お先に失礼します」と閉めた扉から、残り香。
 事務所はヨウコと僕の二人になる。
「西澤さんって、なんのレッスンしてるの?」
 とヨウコに尋ねる。ヨウコは入力の手を止めて、
「あれ、西澤さんから聞いてないんですか」
「あんまりプライベートなことは聞かないようにしてるんだ」
「なにそれ」とヨウコは笑って、「西澤さん、劇団員なんですよ」
「へー」と僕は驚く。「女優か! 知らなかった。どんな演劇やるんだろう」
 僕はミュージカルに明るいので、興味を持った。
「西澤さんの劇団観に行った人が言ってたけど、超つまんないらしいですよ」
「まあ、それは人それぞれだからね感想なんて」
「でもね、お客さんもガラガラ、全然入ってなくって」
「ほう」
「私ネットで調べてみたの、その劇団。そしたらめっちゃ赤字劇団らしいんです」
 ゴッホの生前に売れた絵は、一枚だけ、と言おうとしたけれど、やめておいた。
「俺、逆にその劇団観に行ってみたいな」
 と冗談ではなく言うと、
「あれもしかして、西澤さんのことちょっとお気に入りなんじゃないですか?」
 とヨウコ。
「そういうわけじゃないけど」
「どんな女がタイプですか?」
「堀北真希」即答。
「幸薄そうな顔してる女ってモテますよね。西澤さん、超貧乏なんですよ」
「ねえ、君は西澤さんのことが嫌いなの?」
「そうじゃないけど、面白いんですよ、西澤さん。みんなでいつも西澤さんの話してるんです」
「どうして貧乏だって知ってるの?」
「劇団と派遣だけじゃ食べれないから、風俗でバイトしてるっていう噂あるんですよ」
「噂でしょ?」
「風俗好きですか?」
 とヨウコが訊いてきたけれど、
「こういう話は好きじゃない」
 と僕は言って、西澤さんの入力したデータのチェックに入った。ヨウコのパソコンを叩く音が、テンポを増して怖かった。そういえば、西澤さんには小学生の弟がいる、と言う。なぜその弟はご両親と一緒に暮らしていないのだろう。さまざまな妄想が膨らみ、集中力に悪影響し、ほとんど作業にならなかった。

 翌日、ちょっとしたことがあった。
 僕が出向先から戻ってくると、ヨウコが僕にこう言った。
「昨日のデータってもうチェックし終わってるんですか?」
「終わってるよ。必ずその日に確認して、データをお客さんに送らなくちゃいけないから」
「私と西澤さん、どっちがミス多かったですか? いや、変な意味じゃないんです。私が西澤さんの足引っ張ってたら悪いなぁって思って」
 ヨウコが何かを暗にしめしているのは明らかだった。しかしヨウコの入力したデータは完璧だった。ノーミスでしかも西澤さんよりも処理数が多かった。一方西澤さんはちょいちょい間違いはあったものの、チェックをしている僕が直せばいいくらいのレベルで、ヨウコと比べたら劣るかも知れないけれど、それは全く気にならないくらいの差なのであった。
「二人とも全然ミスなかったよ」
 僕は気遣って言った。
「全然ってことは、ちょっとはあったっていうことですか? あたしですか? 西澤さんですか?」
「お互い、一個とか二個だけミスってた、っていうレベルだから、二人とも気にしなくていい。それより、落ち着いてやろう。二人もいるんだから」
 と僕は言ってから、なんとも居心地の悪い気分になった。ふと西澤さんの方を見ると、何も気にしていないような顔を取り繕って(本当に気にしていないのかもしれない)、画面に集中していた。
 定時になり、西澤さんは帰って行った。
「風俗行くのかも」
 と言ってヨウコが笑った。
 残業のできない水曜日。
 僕はヨウコを誘ってJリーグを見に行った。カズが久々に先発だった。「三浦知良さんにも国民栄誉賞を」という横幕を掲げている少年たちが見えた。僕たち二人も熱心にチームを応援した。
 結局、取引先である●●通信が協賛している”こちら”側チームは負けてしまったけれど、
「いい試合だったね」
 と言いながら、ヨウコと僕は二人、スタジアムを後にした。
 駅まで続く道に沿って、屋台が肩を並べている。
「ビールもうちょっと飲んでいってもいいですか」
 とヨウコが言うので、腰をかけて飲んでいると、池に生息しているのか、一匹のカメが僕の足元にやってきて、くるぶしに噛みつこうとしている。
「かわいい」
 などとヨウコが言う。
 観戦後でテンションの高い少年たちがやってきて、
「このカメ、お兄さんとお姉さんの?」
「違うよ」
 とヨウコ。
「じゃあちょうだい。ペットにしたい!」
「ダーメ」とヨウコは言って、「そのかわり毎日この公園においで。それで毎日このカメと会って、十日たっても飼いたいって思うんだったら、飼ってもいいよ」
 少年たちは「やったー」と言いながら帰っていった。
「ねえ男の子ってさ」とヨウコ。「かわいいよね」
「馬鹿なんだよ」
 と僕。
「あたし昔から女の子って苦手でさ。男の子とばっかり遊んでたんです」
「へえ」
「そんで気づいたら、ビッチな大人になってた」
「笑っていいところ?」
「笑ってください」
 二人とも、酔いがいい具合にまわっていて、別れ難く、どこかもっと良いところで飲みなおそう、ということになり、デパートの屋上でビアガーデンが開かれているのを見つけた。行ってみると、大賑わいだった。ユニフォームを着ているサポーター。カズダンスを踊る上半身裸の団体。入場口で免許証を見せると、二人分の四千円を払い、僕とヨウコは適当な場所に座り、ヨウコはビール、僕はウイスキーを飲んだ。
 酔うと妙な気分になり、自分はヨウコにどう思われているのか確かめたい気持ちが出てくる。しかし先輩の元カノ、という事実が、僕を現実に引き戻す。
「なんかバドガールいっぱいいますね」
 ヨウコに言われて視線を上げると、胸と腿をぎりぎりまで露出させ、ボディラインぴったりのコスチュームを着た女の子達が、ホールを練り歩き、ビールを注いでいる。
「俺もビールを呑もう」
 と僕はバドガール風の女の子に向かって手を上げる。
 一人の女の子がこちらに向かってやってくる。
「あ」
 僕もヨウコも、そして女の子もそう言った。
「あ!」
 肌を露わにして髪をパフェのように盛ったその女の子は、西澤さんだった。

 散々酔って千鳥足のヨウコをタクシーに乗せると、僕は一人、JR線の改札口に向かった。歩きながら、西澤さんのことばかり考えていた。
 するとそこに着信があった。
「おっすー」
 ヨウコと西澤さんを紹介してくれた先輩だ。
「どうも」
「おい、たつや。お前、うちの西澤ちゃんになんかしたろ?」
「どうしたんですか?」
 何かが僕の内側をかすめた。
「西澤ちゃんが急にこう言うんだ。父親が今日突然亡くなったから北海道に帰るんで、明日からいけません、って」
 嘘だ。と僕は思った。
 だけど、それは言わなかった。
「そうなんですか。仕方ないですよね」
「いきなりさっき電話あってさ。でも声の感じから、なんか嘘っぽいんだよね。まあともかく、代わりの女の子要る?」
 考えさせてください、と僕は言った。
「ところで先輩」
「どうした?」
「西澤さんって、いじめられてたりしてませんでした?」
「さあ。よく分かんない。ただ俺のところにはたくさん女の子が登録していて、そりゃ女の子が集まれば、ネチネチしたことの一つや二つ起こるのもしょうがないよ。小学生じゃないんだから、社員が割って入って、『いじめよくない!』ってのも違うだろ?」
「まあ…」
「女ってのはさ、大変なんだよ」
「それは同感です」
「西澤ちゃん可愛いのになぁ。俺マジでヤりたくて、何度か誘ったんだよ」
「ヨウコさんがいるにも関わらず?」
「関係なくね?」
「先輩、僕はなんだか全部分かったような気がします」
「どういうこと?」
「全部先輩のせいっすよ」
 僕は道を引き返してビアガーデンに戻り、入場口でまた二千円を払い、免許証を見せ、西澤さんの姿を探した。彼女は裸の男たちに囲まれているところだった。そこにずかずか入っていき、彼女の手を引く。酔いも手伝って僕は泣きそうになっている。誰もいないスペースに連れていき二人きりになると、西澤さんは、
「ごめんなさい」
 と第一声。
 僕は、「そんなんじゃない」と言い、さらに、
「ヨウコさんを断って、先輩の会社とも縁を切る。君に直接賃金を払うから、明日からも手伝ってくれないか」
 と伝えると、彼女は泣いて仕切りの奥に引き込み、出てこなかった。
 以来、彼女とは会ってない。

コメント(81)

西澤さんが堀北さんに脳内変換されていました。 ドラマみたい。
両方のお気持ちわかります・・・泪。1票しか入れられないのが残念です。
いいものに投票するコミュなわけですが、なんだかそういう次元じゃないなと思いました。

読ませてくださって、ありがとうございます。
ぐうの音も出ないって、この事を言うんですね。

素敵すぎるセンス。

一票
続編も読みたいです!素晴らしい!一票!
すべてが映像で浮かんでくるくらい圧巻の表現力でした。

一票です。

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