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備後の歴史を歩くコミュの東中倉(萩)八幡神社 御調町

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東中倉(萩)八幡神社 尾道市御調町丸門田(まるもんでん)

 萩八幡神社が通称とされているが、『広島県神社誌』には東中倉八幡神社を正式名称として次のように記載されている。「仁治2年(1241)8月17日平朝臣千葉豊後入道直翁が、天下太平、五穀豊穣を祈り創建したと伝えられる。後、文保元年(1317)8月再興、延徳2年(1490)9月再三建立、寛文元年(1661)9月再四建立する。」現地由緒書は寛文以降、明治13年再造と昭和4年改修、昭和60年拝殿改修が追加して載せられていた。

 これらの造営改修記録は平成12年に発行された『御調町の神社と寺院』に「神社所蔵棟札による本殿造営記録は次の通り」として記されている。仁治2年造営の棟札は、その写しが記念碑となって境内に置かれているが、文化財指定はされていないようだ。

 『西備名区』には「社傳云」として「延徳二年千葉豊後入道直翁建立」とある。しかし、延徳二年では千葉豊後入道直翁の時代と合わないため「延徳二年の建立ならば、直翁より十余世の後孫なるべし」と疑問を呈している。『芸藩通志』は「萩八幡宮と称す。文保元年丁巳再造」が記されており、両編纂者とも仁治2年の棟札があることは知らなかったようだ。

 丸山城跡のすぐ北側に鎮座することから、丸山城との関連がありそうだ。『西備名区』「丸山城」の項には「上里周防守實秀 三吉の嫡流。明徳年中(1390-1394)頃に移り城を築くと云」とあり、これだと築城時には、当社はすでに鎮座していたことになる。また『芸藩通志』の「今田村今田氏」の項に「先祖、千葉豊後、関東より来たりて、栗原村に居る。其に豊後、軍功ありて、上里實秀より、今田村及び門田村の内を給す。よりて、今田村に移り、氏をも改む・・・」これらをまとめると、上里實秀の丸山城築城は明徳年中(1390-1394)のこと。千葉豊後が今田村に移ったのは築城の明徳年中以降の事であるから、仁治2年(1241)8月17日千葉豊後入道直翁の建立説は成り立たなくなる。千葉豊後については、時代、備後国への下向、栗原から当地への移住時期など、まったくわからない。『芸藩通志』も千葉豊後のこと「知るべからず」と結んでいる。

 御調に遺された千葉豊後縁の社寺から言えることは、下総から御調郡栗原村に移ってきた。さらに今田に移り、承元2年(1208)に円光寺を、建保4年(1216)に天満宮を建立。そして仁治2年(1241)に萩八幡宮を建てた。その人物は千葉豊後入道直翁である。

 参道入口左側に「萩八幡神社」の石柱が建てられている。石鳥居は安永五丙申年九月吉日と刻字されていた。安永5年は江戸時代中期1776年である。石段中程には随神門が建ち、もう一段上ると昭和60年に改修された拝殿がある。この地には「はね踊り」があるようで、拝殿内に写真が飾られていた。流造の本殿が左右に二棟並ぶ。向かって左側の向拝付き三間社が明治13年に再建された当社本殿で、右側は境内社厳島神社である。こちらは元和9年(1623)の建立の棟札があるようだ。元和9年といえば水野勝成による福山城落成の一年後のことだ。17世紀の神社建立は広島県では備後の数社以外見られず、貴重である。

 ご神木は杉の巨木である。中が空洞になっており、中は炭となり燃やされた痕跡が残る。そばに「萩の宮 守り給ひし大杉の 立木を見よと根の尊さよ」という宮司の歌碑があった。放火されたのであろうか。

 境内の東側に古墳があった。この古墳については未詳であるが、広島県埋蔵文化財包蔵地一覧表によると、丸門田地区には20ヵ所という多くの古墳が数えられた。そしてこの古墳は東中倉1号憤と名付けられており、備考欄に「ほぼ全壊、鉄刀が出土したと伝えられる」と記されていた。

 本殿の建築様式は桁行三間、梁間三間内前方一間分は吹き放たれた外陣となる、備後地方に多い流造である。前方にはさらに一間分向拝が造られる。外陣と向拝は角柱、身舎は円柱。長押を打ち、上は頭貫で固定。柱の上に直接大斗を置き、その上に平三斗、中備は蟇股で桁を受ける。側面も同様であるが、妻飾りは虹梁大瓶束である。縁は三方を巡るが高欄や脇障子は持たない。壁は横板張り、屋根は銅板葺きである。

写真
左:石鳥居
中:随神門
右:拝殿

地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E133.7.3.529N34.29.51.192&ZM=9

コメント(3)

東中倉(萩)八幡神社

写真
右:本殿
中:厳島神社
右:ご神木
東中倉(萩)八幡神社

写真
左:仁治2年(1241)の棟札祈念碑
中:丸山城趾
右:古墳(東中倉1号憤)

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