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安岡正篤コミュの安岡先生の本に艱難辛苦をなめつくせがあり ずっときになっていました。

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何度も書き直していたら こんな時間に

文章が下手なうえ
まとめができず

・・ すべては
春夏秋冬でかたりつくせるのだと

人間社会
のなかがそうであり

自分の精神もそうなのだと

それをおさめるには

心の学問が
必要なのだと感じました。

艱難辛苦をなめつくすことは 自分を鍛えるためでもあり

たえられる
力を養うには 学問(心の)が必要なのだと感じました。

まだまだ 浅い感じ方です。

みなさんは

安岡先生の艱難辛苦をなめつくせ
と、 言う言葉を
どのように
受けとめられましたか?

教えていただけたら幸いです。

コメント(25)

有用な人物はその分試される
試された分だけ他に役立つ人間となるようです。

何に試されるか・・?
自問自答の始まりですね。


http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/

greendoor さん

おはようございます。
教えていただき
ありがとうございます。

今めじろがきました。
無心に焼きイモを
食べています。

わたしも 無心に
色々なことを
少しずつ 学ばせて
いただきたく
これからも よろしくお願い致します。

浅学な小生が、他人から聞いた事を自分の事の様にお話しするのは申し訳御座いませんが、、、


安岡先生の書から学ぶ → 学んだとしても体験せねば體認することはできない
體認せねば、脳のみの学問で終わってしまう
脳【知識】で学ぶのか、心【体】で学ぶのかでは、認識度の差は歴然

学んだこと【知】 を 即 実行する【行】 
実行せねば学んだことにならない

つまり、王陽明先生曰く 知行合一

艱難辛苦も、自分で体験せねば 対岸の火事である  艱難辛苦を味わっている他人の気持ちが理解できぬ

己自身も体験を通して強くなることができるが、その体験を他人に活かすことができる

他人に活かせない己自身の学問は、脳の学問に過ぎぬ



と言うように考えております。
私自身のテーマです。
孟子にある
「天の将(まさ)に是の人に大任を下さんとするや…」(携帯からの打ち込みなので以下略でご勘弁)
で始まる文を思い出します。
励まされる言葉です。
蟻食いパパさん

セバスちゃんさん

教えてくださり
ありがとうございます。

安岡先生の本を
読むたびgreendoor
さんがおっしゃった
自問自答
の嵐です。

ありがとうございました。

以下は少々カタモノですが、知人との応答です


《自他を認識しない自由の放埓から「埓(柵)」の新しいコミュニティー作りが求められるようになりました。
現状は埒外にでたら孤独を味わった、不安になった、人の声が聴きたくなった、そのような状態を、「便利」と「虚構」が作り上げました。

このような時、昔は強いリーダーを求めるようになりましたが、いまは「人」の実像を考慮することなく、加え「個」の単位によって消し去った為に「人格」などという代物の認知すらなく、ただ群行群止する「個人」がコミュニティー(埒)をつくるわけですが、欲望のコントロール如何ではカオスを増幅させることにもなります。

言いたいこと、やりたいことを求める大衆は、言うべきこと、やるべきこと、への必須の前提である自他の確認と観照の術(すべ)を投棄し、選択肢の自由があるようで、総てが他から提示された方法を選択の自由として、まるで屋台のバナナ売りの口上に踊っている状態です。
『はい! 裏も表も生きのいいバナナだよ』と、ひっくり返して納得する手合いです。

恣意的な放縦から収斂へ・・・
だが帰ってきたその枠域はブロイラーのように管理整理したグランドである。たしかに、卵を産む権利と泣き叫ぶ自由はある、しかも錯乱した時と環境を共有するコミニティーには変わりはない》
初めまして

艱難辛苦をなめつくせ

この先には一体何があるのでしょうか?

論理物理学的に考えると
全ての思考・行動は「波動」に収斂されてしまい
「ここには何もないということが有る」という
「陰陽一体混然」とした状態があるだけで
艱難辛苦自体も有るのか無いのかわかりません

実際、私たちが現実だと認識している世界はそれぞれ個別で
「世界」とまことしやかに語られているものは
「大勢の個別の認識の集合体」
であるということが言えると思います

「有る」と思えば「有る」わけで
「無い」と思えば「無い」ということになります

今認識していることは「虚」か「実」か?

艱難辛苦を舐め尽くした後にわかることは
是ではないかな? と考えています

ありがとうございました!
みなさんの
言葉を
何度もよませていただいています。

一つ洒脱に考えて見ましょう。

艱難の「艱」は悩みとか苦しみに理解しますが、「艱難、汝を玉にする」という意味で、そのような経験のもと人物が出来上がるという喩えです。

その艱難も全体の中の一部分として経験することと、個々の内面、つまり内艱として試行錯誤して解脱する場合があります。

しかし現代は事物の観照が衰え、本来の自分に必要な「自分を解く」ことが、難しい、かたぐるしい、と避けて安易な他からのマニュアル情報に向かう傾向にあります。

それとともに、相談所や、易、はたまた弁護士、コンサルタント、はたまたネット検索がその対象になります。

その意味では、食い扶持ビジネスは別として安岡正篤氏に興味や、意志を照らし確認し、意味あるところを自身の特徴に合わせて活学することは有為なる精神として積層できるものです。

冒頭に洒脱としたのは、型にはめたり、力を入れずに観照活学していただきたいと思っているからです。正明さんはよく「父は四柱推命で私を観たが、少々難があると笑っていた。よく考えると難は掛けられる難と、掛ける難があるが、その難の一つに女難があるが、私は難をかけるほうかなぁ・・」と洒脱な難談義をしていました。

艱難辛苦は怠惰にも映る運命論も発生させますが、運は縁を運ぶもの、それは立命するしかない、それには無名で、素朴、純情が肝要です。それには余りにも多くの知識情報に没している現代社会から、一時の風雅を愉しむ情緒に触れることが大切です。

その意味では大いにアソビ、好きで楽しくならなければ、総てが艱難辛苦になります。学問は本来楽しいものです。
それは知識習得のみでは人物は涵養できないということでもあります。
greendoorさん
ありがとうござい
ます。ノートに書きました。
何度も読ませていただきます。
浅はかな 意見ですが

偉人の方々は 艱難辛苦を 命のぎりぎりのところを 
味わった方が 多いんですよね?

大きな 人物になるために 天が 準備するものを
どうやって 乗り越えるか 試されて
自分なりに 答えを見つけて 実践することが・・・

偉人への みちなんでしょうか
真理を見る目を 養うんでしょうか

まあ そこまで いかなくとも 日々の生活の中でも
考えようによっては 艱難辛苦  考えようによっては ピンチはチャンス 
みたいなものは 誰にでも あるしょうけど

4です。
ご承知のこととは思いますが、中途半端な引用だったので一応続きを。

天の将に是の人に大任を降さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓せしめ、其の身を空乏せしめ、行ふところ其の為さんとする所を沸乱せしむ。心を動かし、性を忍ばせ、其の能くせざる所を増益せしむる所以(ゆえん)也。

人恒に過ちて然る後に能く改め、心に困しみ慮りに衡(み)ちて然る後に作(おこ)り、色に徴(あら)はれ声に発して而る後に喩(さと)る。
読ませていただきました。ありがとうございます。

遊び

遊んでいるとき何を 考えていますか?

無心?遊びは
難しいです。

心から楽しむ
難しいです。
何か新しいことを始めたり、
重要な仕事を任せられたりしたとき、
思い通りにいかなくて、
やることなすこと裏目裏目に出て、
いやになって、投げ出したり
三日坊主になることありませんか。
私は、よくある。

ちょっと読んで見て下さい。

 天の将に大任を是の人に降さんとするや、
 先ずその心志を苦しめ、その体膚を餓えしめ、
 その身を空乏にし、行い其の為す所を払乱せしむ。
 心を動かし性を忍ばせ、
 其の能わざる所を増益せしむ所以なり 

てんのまさにたいにんををこのひとにくださんとするや、
まずそのしんしをくるしめ、そのたいふをうえしめ、
そのみをくうぼうにし、
おこないそのなすところをふつらんせしむ。
こころをうごかしせいをしのばせ、
そのあたわざるところをぞうえきせしむゆえんなり。

天がある人物に重大な任務を与えようとする場合には、
必ず先ず、
その人物の精神を苦しめ、
その筋骨を疲れさせ、
肉体を餓えさせ、
生活を窮乏させ、
その行動を、することなすこと失敗ばかりさせて、
その成そうとする意図とくい違うようにさせるものだ。
これは、天がその人に心を発憤させ、
性格を辛抱づよくさせ、
そして今まで出来なかったことも
出来るようにする為の尊い試練である。

孟子

することなすこと上手く行かないのは、
当たり前のことなのでありました・・・

写真は、娘の机の上にあった読み掛けの本です。



http://sky.ap.teacup.com/010310461283/
艱難辛苦をなめつくす---云々
これに対するコメントは、簡単なようで少し時間を要するそんな気が
しますが如何でしょうか。
この問いを発するようになった内的経緯を披露していただければもっと
突っ込んだ意見が出て来ると思います。
はじめまして

ものすごく辛いとき

欽ちゃんこと萩本欽一さんの、意外にもネゲディブな言葉が
私を励ましてくれていました。

「したくない仕事しかこないんです。
 でも道はそこにしかない。」

一見、悲観的にも取れますが、
私はその裏にある強さを感じました。

いやな事があったとしても、
自分自身が嫌になってしまったとしても、
道はそこにしかない。

今ある姿で、今この状況で、
自分らしくコツコツと行っていく事が、
私が歩んでいくべき道なんだと。

そうやって考えていると
不思議と力が湧いてきたように思います。

もう一つ、

今も私を支え続けてくれているものがあります。
側にいる人たちの存在です。

きっと同じように辛い目にあって生きている友人達や、
不出来な自分に連れ添ってくれている妻、

そんな人達の存在が、自分を支え続けてくれています。

私の場合はとても恵まれているのかもしれません。

思ってみると、いい縁も嫌だなと思える縁も含めて
いろんな縁が、私を救ってくれているように思います。
艱難辛苦について
その節はありがとうございました。

8年も経ちますが
忘れそうで忘れなかったです。
その間なんどか
お礼をと入力はするものの手がとまり
止まっておりました。

玉は傷つきやすく
でこぼこで
曇って光を通さない年月がだいぶ続きました。


何か出来そうで
何も成し遂げず
それでも

まだまだです。


先日、浅草寺様へ
参拝してきました。
空気が澄んでいました。


たわいもない
報告とお礼になりましたが


ありがとうございました。

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