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廃村コミュの北海道・道東の廃村

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●私が確認した北海道・道東の「学校跡を有する廃村」(学校の所在は昭和34年,高度過疎集落26ヶ所,冬季無人集落1ヶ所を含む)は73ヶ所です。
 ※ 道東=十勝・釧路・根室・網走の4支庁
 ※ '05年9月11日初版作成,'06年5月18日更新
 ※ へき地校の数 =547校

・北海道・道東は,都道府県(北海道は4分割)の中で最も面積が大きく(3万1016k?:H.17,北方領土を除く,北海道全体の約40%),へき地校の数(547校)は突出しています。
・支庁別では,網走管内が45ヶ所(北海道最大)なのに対して,根室管内はゼロであり,偏在しています。また,網走管内紋別市の11ヶ所は,市町村レベル(平成の大合併以前)では全国最大数です。
・道東・釧路管内阿寒町の雄別炭鉱,音別町の尺別炭鉱(ともに昭和45年閉山),網走管内紋別市鴻之舞(代表的な鉱物は金,昭和48年閉山)は,全国屈指の規模の鉱山系廃村(ゴーストタウン)です。
・道東には22校のへき地5級校がありましたが,足寄町富士見,斜里町岩尾別,滝上町拓雄は廃村に,標茶町上久著路・阿歴内共和は高度過疎集落となり,厚岸町小島(道東唯一の離島部の集落)は冬季無人集落になりました。なお,新得町トムラウシには,北海道本土部唯一のへき地5級校が存続しています(H.17)。
・戦後の開拓集落の廃村として,大樹町光地園,足寄町富士見,斜里町岩尾別(戦前からの開拓農家もあり),遠軽町弥生,滝上町拓雄などがあります。また,林業関係の廃村として上士幌町三股があります。
・ダム関係の廃村としては,置戸町常上=鹿ノ子ダム(昭和58年竣工)があります。
・網走市美岬,斜里町真鯉・岩尾別は,離島以外では珍しい海のそばの廃村です。

コメント(91)

>K.Tさん
 確かに、美加登も影が薄い廃校廃村ですね。
 農山村の廃村は、実は廃村という現象のメインなのですが、
 鉱山とかダムとか、何かはっきりしたもののほうに目が行きがちです。
 農山村の廃村というくくりを実感したのは、この1月、
 京都精華大学で、廃村の講義をすることになって出かけた新幹線の中でした。
 この道は奥が深いです(^_^;)

 ●美加登(Mikado) 中川郡池田町
   美加登小学校 へき地等級3級、児童数15名(S.34)、
   昭和41年閉校
 滝上町の上雄柏です。私が5歳まで住んでいた雄柏から数キロ奥地に学校がありました。現役校の時に一度行ったことがあります。現在の荒れ様はさみしい限りです。けっこう人家跡は残っています。学校はかなり崩れていますが、まだ形が分かります。釣り人の家はバスの転回場所の横にあります。バス会社の住宅だったのかもしれません。

画像
左:駅逓跡
 駅逓後は店屋兼旅籠だったそうです

中:釣り人の家
 釣り人の宿泊ようだったようで、現在も使えそうです。バスの転回場所の横です。

右:上雄柏小中学校跡
 校舎、校門、記念碑があります
>K・Tさん
 上雄柏の情報、ありがとうございます。
 中雄柏〜上雄柏〜拓雄の線は、存在感がありますね。
 特に拓雄って、何かよく話題になる気がするのですが、
 「いかにもへき地5級」というへき地感の強さからなのでしょうか。
 リストを見直したら、雄柏・上雄柏・拓雄は、3つとも
 中学校も併設されていたのですね。
 どうも、中学校併設は存在感を強くするようです。

 ●上雄柏(Kamiyuuhaku) 紋別郡滝上町
   上雄柏小学校 へき地等級2級、児童数61名(S.34)、
   昭和50年閉校
   上雄柏中学校 へき地等級2級、児童数27名(S.34)、
   昭和47年閉校

 上雄柏、駅逓跡、学校跡とも、よい味わいが出ています。
 紋別市から滝上町あたりは、いつかゆっくり旅をして、
 その道の雰囲気に浸りたいものです(^_^;)
 浦幌町の浦幌炭鉱跡です。大正8年にケナシ炭鉱を開発、馬車軌道で浦幌駅まで運んでいたようです。その後、双運、太平が開発、市街地が形成されました。昭和29年に閉山しますが、音別町の尺別に尺浦通洞で通じていたので、閉山後も住民はそちらに通勤していたようです。学校は昭和30年代前半に閉校になっていますが、住民は昭和40年代までいたそうです。

画像
左:病院跡
 土台と煉瓦の壁の一部が残っています。

中:保存されている炭住
 夏場は草木に覆われますが春先はよく見えます。ぼろぼろです。

右:尺浦通洞
 ここから5キロほど離れた尺別炭鉱まで軌道がありました。

 学校跡の写真もあったはずですが、見つかりません。確か卒業生が訪問した記念碑があったはずです。
>K・Tさん
 浦幌炭山の情報、ありがとうございます。

 炭鉱の閉山(昭和29年)から小中学校の分校の閉校、集落の無人化(昭和42年)まで
 時間差があるので、なぜかなと思っていたのですが、
 尺別炭鉱まで通洞を経て通っていたというと、「なるほど」と思えますね。

 しかし、北海道の炭鉱跡に詳しい244さんのWebで見てみたら、
 「閉山の翌年、通洞を管理する問題より尺別に職員は移住する」と記されています。
   http://jiko-hokkai.hp.infoseek.co.jp/urahorokou.html
 なかなか、謎の多い炭鉱集落跡です。

 ●浦幌炭山(Urahoro-tanzan) 十勝郡浦幌町
   上常室小学校炭鉱分校(常室小学校炭鉱分校)
   へき地等級4級、児童数29名(S.34)、
   昭和42年閉校
   常室中学校炭鉱分校 へき地等級4級、児童数8名(S.34)、
   昭和42年閉校
   #浦幌高校の分校の閉校は、昭和30年のようです。
>HEYANEKOさま
 244さんのHPでは閉校が昭和32年になってますね。他の文献では昭和42年とのことです。
 郷土史「とかぷち」でも通洞により閉山の翌30年には職員、物品を運び終えたとありました。しかし、町史か当地の案内板かに通勤していたと書かれた物があったはずです。でないと10年以上人が住んでいた説明がつきません。文献を現在、探しています。
上記ページの作者です。
一応、浦幌のページ作る際、参考にしたものは浦幌町史、地名辞典だと思います。

ページ作成のため、メモったノートを見ると、残念ながら32年浦浦幌炭砿小中学校廃校、常室小学校?分校として42年まで残ると、ウェブに載せた点しか書いていません。
もしかすると、職場(実家)の本棚にページ作成の際にコピーした浦幌町史の一部があるかもしれません。が、旅に出るので(準備で)ちょっと探す時間がありません。
>ふよさま
 分校として42年まであった可能性はあります。私も資料を集めたのが4〜5年前で記憶がはっきりしません。この炭鉱、専用軌道の建設、蒸気機関車の存在と謎だらけです。蒸気機関車はどこから来たか知りませんがあったのは間違いないようですが。最後は風呂屋で使ったとか・・・
小中学校の分校の閉校が昭和42年というのは、間違いなさそうです。
「とかち学び舎物語」Webでは、昭和42年7月31日廃校となっていますね。
  http://tueno.web.fc2.com/manabiya/34.html

炭鉱の閉山=集落の消滅ではない例で、よく似ているところとして
胆振管内旧穂別町の新登川があります。
新登川炭鉱は昭和29年閉山(くしくも浦幌炭鉱と同じ)、
新登川小学校の廃校は昭和45年です。
新登川の場合、閉山後は山村として細々と残ったようですが、
浦幌炭山の場合は、どうなんでしょう。
#尺浦洞門を使っての通勤の線は、管理を考えても薄いと思うのですが・・・

浦幌町史、国会図書館にあるようです。
>浦幌町史 / 浦幌町史編さん委員会. -- 浦幌町, 1971.3
この本は未見なので、今度足を運ぶ機会にはチェックしようと思います。
新登川の学校跡と、
3枚目学校後近くの商店跡
2002年撮影

現在集落としては1、2軒の民家がありますが、冬も定住しているかはわかりません。
このエリアには、石勝線の信号所があります。
またこの地域へは、現在高速道路の建設のため一般人はいけないようです。
昨夕,国会図書館に行けたので,「浦幌町史」を見てきました。
学校に関する章立てはなく,浦幌炭鉱の盛衰という形での記述でした。

ふよさんがWebに書かれている情報以外には,ほとんど目新しいものは
ありませんでしたが,
「昭和32年4月,湧別炭鉱尺別鉱業所露頭炭採掘の開始」という
記述がありました。
浦幌炭鉱が廃鉱になってから,昭和42年頃までは,
尺別鉱業所(組織)の露天掘りが,浦幌炭山のエリアで行われていたのかも
しれません。

改めて炭鉱分校(小学校)の児童数を見てみると,
S.34=29名,S.35=24名,S.36=42名,S.37=68名,S.38=37名,
S.39=55名,S.40=54名,S.41=24名,S.42=21名(各年4月)と
わりあい多くの数がいたことがわかります。
#参考に,新登側小学校の児童数を見てみると,
#S.34=29名,S.35=31名,S.36=29名,S.37=22名,S.38=18名,
#S.39=19名,S.40=19名,S.41=21名,S.42=21名(各年4月)です。

あと,上常室小学校炭鉱分校が常室小学校に移管されたのは
昭和37年4月とのことで,この年にも「新たに露天掘りが行われる」
との記述がありました。
#くしくも児童数のピークと一致しています。
 新しい廃集落です。足寄町の阿寒湖近くの硫黄山小学校跡と集落跡です。林道と作業道があり行くことはできます。学校跡と思われる平坦な場所があります。その先には精錬所があった急斜面があります。その奥は沈殿池の後のようです。凄く整備されていて驚きでした。

画像
左:平坦地
 この辺りに学校があったと思われます。写真にはありませんが、後方の山の形が町史にあった山と同じ風景でした。

中:巨大物体
 中の床部分はタイルです。風呂にしては深すぎます

右:この斜面に精錬所があったようです。

>K・Tさん
 阿寒鉱山の情報、ありがとうございます。

 硫黄鉱山というと、松尾、小串が有名ですが、
 私は松尾はまだ行ったことがありません。
 #アスピーテラインから遠目に見たことはあるのですが・・・
 松尾でも、中和のための施設が稼働しているとのこと。
 硫黄鉱山は、その辺が厄介そうですが、
 小串にある稼働中の施設といえば、御地蔵堂だけのような・・・

 ●阿寒鉱山(Akan-kouzan) 足寄郡足寄町
   阿寒硫黄鉱山小学校(茂足寄小学校硫黄鉱山分校)
   へき地等級4級、児童数22名(S.34)、
   昭和40年休校、昭和43年閉校
 鴻之舞小学校跡です。道の横にグラウンドがあり、南に校舎跡があります。校舎の中程に急な廊下跡があります。私の一族は一時期鴻之舞に住んでいました。小学校の急な廊下は話に聞いたことがあり、実際に見ると感慨深いものでした。

左:校舎の様子
 煙突跡がすごい状態です。

中:傾斜廊下
 かなりきつい傾斜です。

右:土台跡
 生徒数がかなりすごかったようですが
>K・Tさん
 鴻之舞小学校跡の情報、ありがとうございます。

 鴻之舞というと、前のバイク(KATANAの750)に乗っていた頃に
 訪ねたことがあります。
 探索はしたのですが、写真は1枚も撮っていません(^^)
 今はデジカメで気軽に撮ることができますが、
 銀塩だけの頃は、たいへんだったなあ…とシミジミ。

 学校の規模は、児童数千人台ということで、相当に大きいです。
 「廃校廃村リスト」の中で、単独での最大規模の学校は
 長崎県崎戸町の昭和小学校です(2,720名(S.34))。
 複数の学校があった炭鉱町では、北炭夕張が最大です
 (夕張第二、福住、丁未の3小学校の計で4,601名(S.34))。
 2番目が東美唄、3番目が鹿島・・・と北海道が強いです。
 数えたら、鴻之舞は9番目でしたが、金属鉱山町では最大でした。

 ●鴻之舞(Kounomai) 紋別市
   鴻之舞小学校
   へき地等級1級、児童数1171名(S.34)、
   昭和48年閉校
 いよいよ真打、滝上町の拓雄地区です。今年秋、探索しました。私の父はオートバイで廃校後の校舎に行ったそうです。橋を渡ってすぐ、橋と比べ高さは変わらなかったはずということです。しかし、すぐに上りなのでオートバイだと高台に行った可能性もあります。

画像
左 スーパーマップ
 1、9、10は空中写真で確認できる建物跡です。1のみあります。
 12がペペロ大橋、4までの赤いラインが旧道です。
 2が新道から旧道入口、7が地区中心の道の分岐
 4がペペロナイ川の橋(一部倒壊で不通)
 5が学校があったと思われる場所
 6傾斜地の削った平坦地、グラウンド跡と思われる場所

中 唯一見ることができる廃屋

右 旧道と新道の分岐、12のペペロ大橋手前

動画
学校跡と思われるマップ5を徒歩で探索しました。

<video src="5322814:4dd7b804a51fb7792cd9303f0718f90b">

 
 続きです。地図の3付近から4の橋(一部倒壊で通行止め)に進み、右折、5方向に車を向けました。父親の記憶では橋のすぐ先に校舎があったとのことですが、40年前にバイクで案内の人のバイクについて行ったので、川沿いでも高台の下なのかはっきりしません。高台中腹にグラウンド跡と思われる窪地があります。校舎はその横か川沿いの平坦地と思われます。

画像
左:円形のコンクリート
 地図の9付近の道沿いにあった物です。30年前は奥に建物跡があったようですが、植林された木々の下枝が伐採され見通しはききましたが、建物はありませんでした。

中:地図8付近
 川沿いの橋から南の平坦地、住宅があったとするとここでしょうか?

右:高台中腹の窪み
 地図6地点、町史に傾斜地をならしグラウンドにした様子があり、ここと思われます。校舎が写真奥にあった可能性もあります。

動画:地図3付近から4の橋手前、右折し5方向に向きました

<video src="5322757:07968f80fe485fdca216bc9db533ae5e">

>K・Tさん
 拓雄の情報、ありがとうございます。

 私の手元の5万図(立牛 S.31、白滝 S.37)では、拓雄の文マークは
 確認できなかったのですが、
 オシラネップ川とペペロナイ川の合流点あたりにあったんですね。

 ●拓雄(Takuyuu) 紋別郡滝上町
   拓雄小学校 へき地等級5級、児童数51名(S.34)、
   昭和43年閉校
   拓雄中学校 へき地等級5級、児童数6名(S.34)、
   昭和43年閉校

 動画を見ましたが、その様子はほとんどわかりませんでした。
 痕跡が薄い廃村は、現地を訪ねなければ
 その醍醐味はわからないようですね(^^;)
 拓雄は地図の2付近で6年ほど前に熊がいたので、現在でも緊張します。旧道方向は分かっていたのですが、なかなか進む勇気はありませんでした。
 拓雄は昭和42年の秋には最後の六戸が集団離農し正式な廃校、集落の解散は昭和43年春ですが、その前に無人になったようです。父親の話ではバイクで橋を渡りすぐに校舎があったとのことですが、歩いて行ったのではないので急な下りの後、上ったので川沿いの平地と思った可能性もあります。
 昭和44年ころ町内見学のバス旅行でここを通った時、父親からここが学校だと母親が聞いた場所は高台とのことでした。運動場跡と思われる場所付近に校舎はあった可能性もありますが、いかんせん場所が狭い。当時の写真でもないと実態は分からないかもしれません。私もそのバス旅行に行ったはずですが、洛陽の滝と白亜の滝、浮島以外、まったく記憶にありません。3歳前くらいのはずですので、無理もないか・・・
>K・Tさん
 北海道の場合、ヒグマが居るので、
 山中の廃村探索はたいへんそうですね。
 やはり、複数の方で行かれることが多いのでしょうか。

 「廃村(3)」では、エリアを関東・甲信越・東海に絞りましたが
 「熊に注意」の看板は数回見かけたものの、
 出会った動物は、サルとシカくらいでした。
 鶴居村の暁峰です。鶴居村市街地から下久著路鶴声に続く道を進むと途中に廃棄物処理工場のような建物があります。そこに南東と北西に延びる砂利道があります。北西は牧場跡があり、南東にも牧場と思われる跡地があります。人家跡は南東に一軒あるだけですが、サイロ跡は2か所あります。30軒ほど炭焼きと牧場で生活する人家があったそうですが、現在無人です。学校跡も分かりませんが道の交差、工場の向かいに広い空き地があり、そこが学校の可能性があります。
 この集落は朝5時から仕事をはじめ、夜8時には眠り、娯楽は酒を飲む程度で博打はやらない勤勉な集落だったそうです。暁峰という地名は鶴居村市街地からこの峰から日の出が見えるところから付けられた名前のようです。

 今回は中心部を通る道の北西方向です。
画像
左:北西方向
 入口は鬱蒼としていますが、その先は牧場跡に道が続きます

中:サイロ跡
 唯一の建物跡です。この場所から北に人家跡があるようですがこの時は発見できませんでした。

右:牧場跡
 雑草が多くあまり使われている様子はありません。
>K・Tさん
 鶴居村暁峰、いいですね〜(^_^.)
 分校の所在でいうと、昭和35年から44年ですから、9年間だったんです。
 今もサイロ跡が残っているとは…
 北海道(道東)、おそるべしです。
 鶴居村暁峰地区の南側です。ひたすら砂利道が続き、タールの剥げた電柱が並んでいます。畑跡なのか牧草地なのか草地が続いています。ところどころ人家跡があります。
 夏草や 開拓人が 夢の跡 
という感じです



>K.Tさん
 暁峰の追加情報、どうもです。
 鶴居村は、平成4年の夏にバイクで走りましたが、天気が悪かったせいもあり
 これという記憶が残っていません。
 しかし今から思うと、行っておいてよかったと思えるところです。
 これから行けそうな感じがあまりしない地域ですから…(^^.)
 お久しぶりです。廃村はまだいくつも探索しているのですが、どこに画像を保存したか見つけるのが大変でアップが遅くなりました。
 今回は紋別市上鴻之舞です。鴻之舞金山の更に奥地に集落があり、学校もありました。鴻之舞は住友鉱山の会社の町のようなん物でギャンブルなど風紀は厳しく、遠軽に続く道を境に上鴻之舞となり歓楽街があったそうです。
 現在はなにか建物がたくさんあったかな?という感じの土地が続きますが草木が茂っています。
 学校は鴻之舞から5〜6キロあるでしょうか、予想よりかなり奥地にあり、逆に上鴻之舞が予想よりかなり大きな集落だったということでしょう。

画像:上鴻之舞小中学校跡
 土台がしっかり残り、記念碑もあります。横に汚水処理施設があります。
>K・Tさん
 お久しぶりです。道東の春の様子はいかがでしょうか。
 上鴻之舞に歓楽街があったというのは、初耳です。
 鴻之舞の鉱山街は大きかったので、実在していても不思議ではありませんが、
 現状を考えると夢のような話ですね(^_^;)

 ●上鴻之舞(Kamikounomai) 紋別市
   上鴻之舞小学校 へき地等級1級、児童数61名(S.34)、
   昭和43年閉校

 閉校時期は、鴻之舞金山の閉山(昭和48年)の5年前ですが、
 この間、上鴻之舞の集落は存続していたのでしょうか。
 調べると、面白そうです。
 こんにちは、画像を集めるのに苦労しました。数回行ったので、良い画像がバラバラです。
 雄武町の北隆鉱山(金山)跡です。小学校入学1年前から小学生時代の7年間住んでいました。当時から金山があったとは聞いていましたが。訪れたのは10年ほど前からです。
 初めて行った時は精錬所は草木で見当たらず、遥か奥まで行き退散、一昨年、実際に行くことができました。実際に見ると感慨深いものです。

画像
左:北隆地区の案内板
 鉱山が現役時代の様子です。赤い丸が精錬所です。

中:精錬所方向付近に残る橋台跡
 軌道跡で一番目立つ痕跡です。この先に築堤跡が残っています。

右:精錬所跡
 この急斜面に精錬所の建物があります。
>K.Tさま
 北隆鉱山のお知らせ、ありがとうございます。
 北隆鉱山の閉山は、昭和16年とのこと。
 しかし、きたたびさんのところでも見ましたが、
 いろいろ残っているようですね。

 piroさんのWebを見ると、GWは活発に
 探索されたのですね。
 北海道チームは、多くの仲間が居るのが
 うらやましいところです。
 こんにちは、ネタはまだまだありますが、画像が見つかりません(^^;
2005年以前の画像はどこ行った・・・・
 とりあえず、紋別市の上古潭をアップします。うえんこたん(アイヌ語で悪い:集落)という不吉な意味です。昔、この地に住んでいた人が病気か何かで集団で死んだとか、住むのには適さない環境とか考えられます。
 大正9年に立牛尋常小学校上古潭特別教授場が開校、昭和45年に廃校となっています。現在、学校跡には記念碑があり、神社跡に金属の屋根が残っていますが人家跡は皆無です。
 鴻之舞から立牛に道ができ、この付近もけっこう車が通ります。立牛川流域の上立牛、中立牛、上古潭、立牛の学校はすべて廃校、上立牛、上古潭は無人地帯です。

画像
左、中 学校跡

右 神社跡
>K.Tさま
 上古潭のお知らせ、ありがとうございます。
 「うえんこたん」って、普通ならどう読んでも「かみこたん」ですよね(^^)
 幌加内町の雨煙別のように、雨煙古潭とすればまた雰囲気が違っていたかも…
 #雨煙別は、アイヌ語では「悪い川」になるんですね〜

 ●上古潭(Uenkotan) 紋別市
   上古潭小学校、へき地等級2級、児童数27名(S.34)
   昭和45年閉校
 お久しぶりです。なかなか無人地帯には行き当たりませんでしたが、少しずつ整理していきます。
 今回は釧路支庁管内浜中町の三番沢です。ここは空中写真では昭和53年ころにはすでにほとんど廃屋にななっていて、人の住む人家はわずかだったようです。最後まで住んでいた人は平成までいたかもしれません。
 この集落には神社と学校があったようです。学校は空中写真でそれらしき建物を見つけましたが、神社は場所が不明でした。今回の探索で学校のすぐ横に神社らしき建物を見つけました。

画像
左:霧多布湿原センター方向から続く道
 道は荒れまくりで、車の腹を擦りました

中:地区の入口
 カーナビでは途中から道がないので事前に地図と空中写真で道と川を簡単に書いた紙を元に位置を確認しました

右:潰れた建物の屋根
 この建物は最後まで人が住んでいたと思われます
続きです。

左:地区にある施設
 造林関係の施設と思われる場所があり、人が通ってきているようです。入口に旗があります。

中:人家跡
 地区の中心部、道の南にあった人家跡です。壁が倒壊したと思われる木片の列、タイルと、この樽と思われる円形に並んだ木片がありました。

右:地区の西にある建物
 学校跡のすぐ横の小高い場所にある建物、構造から神社と思われます
 学校跡と神社跡です。校舎跡にはコンクリート片がたくさんありますが校舎関係とは思えない側溝につかわれていたコの時型でした。脇に柱ではなく標柱がありましたが、文字はありませんでした。
 神社は作りが丈夫だったのでしょう。前のめりに倒れてますがかなり原形をとどめています。

画像
左:標柱
 学校の標柱だったのかもしれませんが文字は読めません

中:倒壊した建物
 前のめりに倒れてますが作りはしっかりしています。

右:内部
 房のある紐があり、神社と思われます
 最後です
左:学校付近
 振り返った様子です。北から南を見た様子です。松の木辺りが学校のあった場所のようです。

右:帰り道
 来たときほど荒れてはいません。ここを訪れるなら西からの道を進めします。
>K・Tさん
 お久しぶりです。お元気でしょうか。

 釧路・浜中町三番沢というと、住宅地図から推定した離村時期は平成5年頃です。
 しかし、画像を見る限りでは、ずいぶん荒れた雰囲気ですね…
 小学校の閉校は昭和47年なので、高度成長期に一気にさびれて、
 後は数戸が細々と残っていただけのような感じがします。

 道東というと、網走・雄武町の中幌内、上幌内ぐらいしか、
 しっかり回った廃村はありません。
 近々、十勝・釧路あたりの廃村にも、足を延ばせたらいいなと思うこの頃です。


左:校門
 校門に残っていた拓雄中学校の表札、校門は二つあったはずですが一つしかありませんでした。

中:廃校、集落跡の記念碑
 集落を通っていた道の脇にあります。急な場所ですがここにも入口があったようです。木製の校門がここもひとつしかありませんでした。

右:煙突と土台
 グラウンド跡の奥に一段高い場所がありそこに土台と倒壊した煙突がありました。煙突は15年ほど前に訪問した方の話では煙突が立っていたそうです。
 上に続き滝上町拓雄です。

左:学校跡
 途中で道が分岐し学校方向に続いています。校門が片方だけ見えます。

中:道の横から見た高台にある記念碑と校門
 校門は片方のみです。かなり急な斜面なので階段があったのかもしれません。

右:校舎跡からみた様子
 グラウンドは意外と広かったようです。予想ではこの半分ほどでした
>K・Tさん
 拓雄小中学校跡、到達とのこと、おめでとうございます(^_^)
 何度かのリベンジを経て到達された喜びが感じられます。

 へき地5級校ということで、私も早い時期から、その存在は知っていたのですが、
 学校跡の様子の画像を目にするのは今回が初めてです。

 学校跡の草が刈られているみたいに穏やかなのは、
 雪が融けて間もない季節(5月末)だからでなのでしょうか。
 拓雄の学校跡は特にグラウンドは湿地状態でした。草木が伸びていないのは時期的にだと思います。しかし、校舎の方は木が伐採された感じがします。毎年ではないと思いますが跡地の整備をしているか、それとも道路か橋の工事に跡地を使ったと思われます。

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