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廃村コミュの島根県の廃村

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といっても、そんなネタを持ち合わせているわけがない(^^;

酷道コミュで廃村の話題が出ていました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=219786&comment_count=94
93番目。

”某サイト”ってどこだ?

コメント(24)

皆様、ご無沙汰しております。
↓”某サイト”らしです
http://nagao.road.jp/kokuken/R488-1.htm

島根、広島は新幹線で通過した程度ですので感覚的にも地理的にも分かりません。
また紹介されている”旧広見小学校”についても情報が少ないようです。
出張で関西に出かけていまして,反応が遅くなりました(^^)

>のら猫さん
 島根県の廃村ですか・・・ いやいや。
 この唐突なノリは楽しいですね〜(^_^;)
 私は,益田市高島以外に知らなかったので,早速調べてみました。

 広見(Hiromi) 広見小学校 美濃郡匹見町
へき地等級2級 児童数31名,閉校年不明
(自治体名,へき地等級,児童数は昭和34年)。

 匹見町は,10年以上前にバイクで走ったことがあります。
 三葛には行きましたが,広見には行きませんでした。
 ずいぶん山の深い町でしたね〜

>zinzinさん
 島根県には新幹線は通っていませんよん(^^;)

 中国地方は全般に情報が少ないので,こんな感じの投稿は
 大歓迎です(^_^;)
遅れ馳せなのですが,島根県の調査がほぼ終わりましたので,お知らせします。

===

●私が確認した島根県の「学校跡を有する廃村」(学校の所在は昭和34年,高度過疎集落を含む)は7ヶ所です。
 ※ '05年10月29日初版作成
 ※ へき地校の数 =113校

・島根県は出雲,石見,隠岐の3旧国にわかれますが,廃村は石見の西部(県西部)に偏在しています。
・島根県内には離島のへき地5級校がひとつありました(益田市高島)。高島は,昭和50年に分校の閉校とともに廃村となりました。
・最大規模の廃村は匹見町赤谷です(児童数56名)。往時の匹見町には,日本最南の冬季分校がありました(元組小学校臼木谷冬季分校,へき地等級2級,児童数20名)。
・開拓集落の廃村,鉱山関係の廃村,ダム関係の廃村は見当たりません。
益田市長沢町の真砂小学校西長沢分校です。
(地形図の表示位置にあります)

この周辺では、
・秋冷(シュウレイ)が完全に無人(明治以降で、17戸ほどの記録もあるが、時期が不明)になっています、
・西長沢(14〜5戸、同上)は現在4〜5戸が残っています。

?分校前の辻を下流側から
?辻前の地蔵小屋
?小橋の手前から見る分校跡

見にくいのですが、橋のたもとから、緩やかな勾配の石段が石垣の上に向かって伸びています。他の学校跡とは多少雰囲気が違うようでひっかかっていたのですが、どうやら敷地は庄屋屋敷跡のようです。
今は杉林と竹藪。奥に材木片らしき物がありました(H14頃)が、校舎との関係は不明です。
>おきのくにさま
 お待ちしていました(^_^)
 西長沢分校、地形図を見てあれこれ想像するのもいいですが、
 やはり写真をみると、また想像力がはたらきますね〜(^^)
 #真砂小学校西長沢分校、へき地討等級1級、児童数 11名 (S.34)、
 #昭和45年閉校。  

 首都圏からはとても遠い島根県の廃村、
 また、ときどき情報をばお知らせくださいまし(^_^;)
旧美濃郡美都町(ミトチョウ)大字都茂(ツモ)の都茂小学校大久保分校です。
(旧地形図の位置からは南に200mほど、県道172号美都匹見線沿いです)

ここは、「大鳥の出合い」といわれる場所で、山の上の集落・大鳥方面からの道が益田川沿いの道に合流する辻です。

写真?益田川の上流側から。学校跡には石碑が二つ建っている。前が県道。
写真?同下流側から(写真右手が益田川)。学校跡から県道を挟んで桜の木が続いている。

手前の石碑には「林道竣工記念碑」と書かれ、昭和30年頃のものと思われます。昭和20年代末頃、ここからすぐ下流に洪水調節用のダムが建設されましたが、その工事用道路として林道が開設されたことを記念しているようです。この林道はのち県道に昇格しました。

奥のは「木魂碑」、昭和50年に何人もの方が喜寿を記念して建てられたようです。このあたりは林業で生計を立てていたから、こういう碑銘にしたのでしょうか。


分校は昭和30年代にここに移転してきますが、学校跡には「木魂碑」が建っていますから、校舎は昭和40年代には解体してしまったのでしょうか。
当時ここらはこの林道以外にクルマが通える道路がなかったようですから、それが校地選定の理由のひとつかもしれません。
ちなみに旧校舎はこの山のずっと上の谷間にあったようですが、今は山林になっていて簡単には近づけません。

校区だった周辺の小集落群はすべて無人となっています。
分校の名前にもなっている大久保は、「大久保広兼石州和紙資料館」の広兼家の屋号「大久保」が転じて地名になったもののようです。
大久保=大窪で、大きく凹んだ土地、という意味から、平地の無さを想像してみてください。
益田市長沢町の真砂小学校笹田原分校です。
(旧地形図の表示位置にあります)

上記の西長沢分校からは、西に山ひとつ越えたところで、写真は平成15年夏くらいです。

写真中央のつぶれた建物跡が校舎の屋根です。赤いトタン板葺きだったようです。
閉校後は集会所として使われていましたが、それでさえもこんな状態になっていますから、過疎化、廃村化が急激に進んだのではないかと思わせます。

西長沢に比べると緩やかな谷間で、田の跡も多く見られ、写真左手奥には、まだしっかりした(ような)空き家がありました。

この当時、1戸が残っていました。
美濃郡匹見町大字道川(現・益田市匹見町道川)の赤谷小学校です。
(ほぼ旧地形図の表示位置付近です)

?下流側から見る校地跡。左側に1本立つイチョウの木のところに門柱が残っています。
?県道脇に残る校門の門柱。その後ろに崩れているのは、校舎が見あたらないのになぜかそれだけ残って立っていた学校の玄関です。それも平成15年頃には倒壊してしまっていました。
?赤谷は、わずかながらところどころにきれいな家も残って田畑も耕作されています。もっとも住人たちは、昭和40年代末に町が国道近くに用意した共同住宅に移り住んでいて、実質的には空き家状態、農地も通い耕作です。

>おきのくにさま
 大久保、笹田原、赤谷の情報、ありがとうございます(^_^;)
 3つの廃村の定形の情報をアップします。

●大久保休(Ookuboyasumi) 都茂小学校大久保分校
  美濃郡美都町(益田市)
  へき地等級1級、児童数24名(S.34)、昭和39年閉校
●笹田原(Sasatahara) 真砂小学校笹田原分校
  益田市
  へき地等級1級、児童数15名(S.34)、昭和44年閉校
●赤谷(Akadani) 赤谷小学校
  美濃郡匹見町(益田市)
  へき地等級2級、児童数56名(S.34)、昭和49年閉校

おきのくにさんの解説では、大久保(Ookubo)と休(Yasumi)は
別の集落とのことなのですが、
地形図に大久保休と記されていることと、名前のインパクトの強さから
ここでは大久保休を採用させてくださいまし(^^)

あと、おきのくにさんからの情報により、戸数4戸の高度過疎集落と
判定した益田市岩倉ですが、
「益田市 岩倉分校」の検索で、仰天な情報が手に入りました(^_^)
  http://r.gnavi.co.jp/k495103/

場所は大阪ということで、来週の大阪出張の折、
是非出かけてこようと思います(^_^;)
定形の情報も、アップしておきますね(^_^)

●岩倉(Iwakura) 豊川小学校岩倉分校
  益田市
  へき地等級1級、児童数38名(S.34)、閉校は昭和53年以降

「益田市誌」(S.53)、検索では閉校年がわかりませんでした。
ご存知でしたら、是非お知らせくださいまし(^^)
ほぼ3週間ぶりのmixiですが、今回は準廃村(そんな区分はないのですが)ともいうべき参考情報です。

上でHEYANEKOさんが触れていらっしゃる「日本最南の冬季分校」という旧美濃郡匹見町大字道川(現・益田市)の元組小学校臼木谷冬季分校です。
(旧地形図の表示位置です)

?R191を下流側から見た分校跡地。左から1本目と2本目の電柱の間の草むらです。
?国道からの進入路。クルマを回転させるほどの平場以外は全くの草むら。
?国道から見える潰れかけた廃屋。

臼木谷は、上(カミ)、中(ナカ)、下(シモ)の3地区に分かれていました。
分校跡地は、臼木谷中の一番下流寄り付近、「臼木谷墓参会館」に渡る橋(?中央付近)よりわずか上手にありました。地元の方に尋ねてやっとわかりました。
冬季分校の通学範囲は臼木谷上、中の両地区で、下地区は本校に通っていたそうです。下地区でも雪は相当積もるのでしょうが、「"中"から先はもっと深い」のだそうです。

三八豪雪以後、臼木谷は多くの住人が転出してたくさんの廃屋が残っていたようですが、昭和50年頃から国道の改良工事が始まり、ほとんどが解体されました。
校地や校舎は、この時工事にかかっておらず(事業関係者の話)残っていたようです。
その校舎も、「維持費がかかる」(地元の話)〜集会所にしていたということか?〜ために解体(時期不明)してしまったそうです。

現在、上、中地区に常住は1戸、冬に下山が1戸、週末だけ帰ってくることがあるのが2戸です。


●豊川小学校岩倉分校
  昭和61年3月閉校
  現存校舎は昭和48年築
講堂は、記載情報がなかったのか記録していません。
>おきのくにさま
 情報、ありがとうございます。
 
どうもです。
臼木谷=日本最南端の冬季分校は、私的には面白い発見でした(^_^;)
匹見のあたりって、感覚よりもずいぶん南にあるんです。
このところ、おきのくにさんのレポートのおかげで、はっきりとしてきました(^_^)
道の改修があると、雰囲気が変わってしまいますね…
木々の間にわずかに見える廃屋は、何とも寂し気です。

●臼木谷(Usukidani) 元組小学校臼木谷冬季分校
  美濃郡匹見町(益田市)
  へき地等級2級、児童数38名(S.34)、閉校年不明

あと、岩倉分校の閉校年、どうもです。
碑を見る分では「昭和六十○年」という感じで、詳細がわからなかったんですよ(^^)
これで安心して、「居酒屋六年四組」にも行けます(^_^;)
益田市の鎌手小学校・同中学校の高島分校です。

昭和50年に本土へ集団移住して廃村、廃校となりました。

個人的には離島巡りも好きなため、高島には惹かれるところが多かったのですが、平成15年9月、職場の同僚5人で、島出身の方が運行する瀬渡し船で高島に渡してもらうことになりました。
島が空っぽになってすでに28年が経ち、古い写真と比較して、いったいどんな状態になっているのかと興味深いところでした。

益田市大浜漁港を出港して約20分ほど、港とも呼びにくい高島港、コンクリート構造物の横の岩場に上陸しました。(写真?)
港から山の上に伸びる道をたどると、まもなく急傾斜の石段が現れ、ほとんど日も通らない雑木林の中、周りに家などの残骸が見えはじめます。(写真?)
それでもまだ道が歩ける状態で残っているのは、灯台と釣り人のおかげなのでしょうか。
ただ、家として満足に残っているものはなく、半壊が1〜2軒で、他はほぼ倒壊していました。
それに比べると学校はよく残っていて、一部ひさしが崩れていたりしますがまだしっかりしたもので、腐りかけた床板に気をつけながら校舎内を歩くことができました。(写真?)
校舎周りは、ここも全くの雑木林となっていて、校庭跡(と思われる)へは1歩も踏み込めるような状態ではありませんでした。

高島の風土・歴史などは以下に詳しいです。
昭和50年頃に作成された高校地理の郷土学習資料が転載されています。

http://sekisei.kir.jp/island76/index.html
>おきのくにさま
 高島は、私としては島根県で最初に見つけた「学校跡を有する廃村」です。
 島は目立ちますし、「SHIMADAS」があるので、見当をつけやすいんです(^_^;)
 #廃村も「HAISONDAS」があればなあ…と思っているうち、
 #自分でこんなコミュの運営をすることになったわけですが…(^^)

●高島(Takashima) 鎌手小学校高島分校
  益田市
  へき地等級5級、児童数19名(S.34)、昭和50年閉校

 どうしても、行ったことがある無人島で、少し似ている八丈小島と
 比較してしまうわけですが、何卒ご了承をば(^^)
 八丈小島でも、学校跡がいちばん最後まで残っていました。
 #今は宇津木、鳥打ともに、その学校跡も崩れてしまいましたが…

 港は、宇津木よりも立派で、鳥打よりもシンプルな感じです。
 上陸のときには、舳先から岸壁に飛び移るのでしょうか?
 木々の茂りかたは、八丈小島よりも濃い感じがします。
 
 いつか山陰の廃村にも行きたいと思いますので、
 その折は、高島にも足を運びたいものです。
高島は定住者がいなくなったとはいえ、海釣りのポイントとしてたくさん釣客が渡ってくるようです。
(もっとも釣客は、目当てのポイントに直接瀬渡しですけど)

八丈小島の現状はどうなのでしょう。
普段からも人が渡るような場所なのでしょうか。


高島へは瀬渡し船で渡してもらいましたから、
着岸地点は、(やはりというか)岩場でした。
わざわざ、わずかに岸壁をはずして・・・。(新しい岸壁と舳先の高さが合わなかったからなのでしょうが)

船の舳先よりも岩場はすこし低くて、飛び降りたような・・・、足下を心配したような記憶があります。
なるほど、たしかにそうですね

瀬渡しについては、認識不足のうえに、想像力の欠如でした(^^;)

印象的だったことだけ、記憶を肥大化させてしまい、上のような短絡的な書き方をしてしまいました(汗)

何事もなるべく冷静に観よう、とか思っているんですが・・・、なかなか難しいですね
>おきのくにさん
 高島の情報、ありがとうございます。
 確かに、小さな船だと岩場に飛び降りるのが楽そうですね(^_^.)
 そう思うと、岸壁は防波堤のように見えます。

 八丈小島も、宇津木・鳥打とも岩場に飛び降りました。
 訪ねる人の9割以上は釣り人だと思います。
 六畳間ぐらいの広さの岩(小島からいくらか離れています)に瀬渡しでつけてもらって、
 釣りをする方がいるのには驚きました(^^)
10月1日(金)、Webの月例の更新で、
「廃村(5)」に、島根県のデータをアップしました。
  http://heyaneko.web.fc2.com/ghl-33.html

鳥取県に続き、おきのくにさんの画像の拝借なので、
ここでの画像のアップはありません(^^)
平成23年4月23日(土)、
旧上殿駅(広島県安芸太田町)でおきのくに(たまだれ)さんと待ち合わせて、
前々から是非とも訪ねたかった、廃村広見(島根県益田市)に行くことができました(^_^)

広見の特徴のひとつは、複数の屋敷跡の石碑があることです。
おきのくにさんは何度か訪ねているのですが、
見つけた石碑は目立つ場所にある大きな碑(甲佐家の碑)1つだけ(画像1)。
何でも全部で6つあるそうです。

2つ目(久留須家の碑)は、甲佐家の碑からやや下手、
広見小学校跡のやや上手で、わりあい簡単に見つけることができました(画像2)。
でも、ちょっと草が茂ると、見つけることは困難だと思います。

その後、広見小学校跡の校舎を、なめるように観察して、
笹藪を漕いで、門柱を掘り起こして、校舎とセットの写真を撮って
小学校跡から1km以上、じわじわと下手に進みました。

「これから先には屋敷はないでしょう」という私の声に
「いやー、まだあるかも・・・」というおきのくにさんの声を受けて、
しぶとく探した結果、
3つ目(飛石家の碑)を見つけることができました(^_^)(画像3)
半分見つけたということで、穏やかな気分で広見を後にしたふたりでした(^^)

広見に残る往時からの建物は、
小学校跡の校舎・体育館・教員住宅(?)だけでしたが、
石碑のおかげで、予想よりも大きな集落だったことがわかりました。

廃村全県制覇、今回島根県に足を運んで
残り6県(広島・鳥取・佐賀・大分・宮崎・鹿児島)になりました(^_^;)
広見といえば、「広見小学校跡しかない」というほど
存在感のある学校跡です。
国道488号線広島県旧吉和村中津谷−島根県旧匹見町裏匹見峡の
25kmほどの酷な道中、視界に入る建物は学校跡が唯一です。

平成20年2月、スノーボーダー達の遭難事故で
避難場所として2晩を過ごした場所として、
ニュースにもなりました。

● 広見(Hiromi) 広見小学校 美濃郡匹見町
へき地等級2級 児童数31名,明治17年開校、昭和45年閉校。
(自治体名,へき地等級,児童数は昭和34年)。

児童数の推移を見ると、三八豪雪の影響を受けて
過疎化が進んだことがわかります。
最終年度(昭和45年度)の児童数は、わずか2名でした。
広見集落も、昭和45年12月に閉村となりました。

 画像1:広見小学校跡の校舎(裏手)
     国道からアプローチしやすいので、定番の撮影ポイントです。
     4月下旬というのに、結構雪が残っています。

 画像2:広見小学校跡の校舎(表側)
     今頃(5月中旬)だと、
     これだけはっきり見ることはできないことでしょう・・・

 画像3:広見小学校跡の門柱+校舎
     本校ということもあり、
     かなり大きな学校だったことがわかります。
本日(5/1(火))、Webの月例の更新で、
「全県制覇への道?(関西以西)」に、昨年4月に訪ねた
島根県旧匹見町広見のレポートをアップしました。
  http://heyaneko.web.fc2.com/zsw14.html

画像は広見に唯一残る往時の建物、旧広見小学校です。
ちなみに学校跡には、校舎は残っていましたが、
石碑は見当たりませんでした。
日原町滝谷の滝谷分校跡情報を参考までに掲載します。

写真1;平成14年に見かけた校舎を撮影するため、翌平成15年に再度訪問したら、取り壊された跡に工事用道路がつくられていた。教員住宅は残っていた。

写真2;校地寄付を記念した石碑。大正7年建立。

写真3;平成19年の教員住宅跡。荒廃が進んでいる。

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