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廃村コミュの静岡県の廃村

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●私が確認した静岡県の「学校跡を有する廃村」(学校の所在は昭和34年,高度過疎集落を含む)は6ヶ所です。
 ※ '05年7月31日初版作成
 ※ へき地校の数 =79校

・静岡県は温暖な県ということで,「廃村」は6ヶ所で,そのほとんどは少数戸が残る高度過疎集落です。すべて遠州・天竜川流域にあり,特に水窪町が4ヶ所と集中しています。水窪町に「廃村」が多いのは,それほど傾斜が急ではない山の中腹に小集落が多くあるからと思われます。
・静岡県内にはへき地4級校の分校が3つ(春野町小俣京丸,水窪町大嵐,門桁)ありましたが,小俣京丸と大嵐は「廃村」となりました。門桁分校はその後門桁小学校として平成13年まで存続しました。なお,大嵐分校は,飯田線の大嵐駅とは関係のない,水窪町北部にあります。
・児童数から見た最大規模の「廃村」は,水窪町峠です(大地分校,児童数 93名)が,この分校はいくつかの小集落が校区となっており,うち,両久頭,小又,瀬戸尻は水窪ダムに沈みました。分校がある峠,周囲の下田,根,戸中は高度過疎集落の様子です。
・静岡県内には,大仁鉱山(主要鉱物は金),峰之沢鉱山(主要鉱物は銅)などの鉱山がありましたが,鉱山関係の廃村はありません。

コメント(21)

6つの「学校跡を有する廃村」のひとつ,水窪町門谷について,
門谷分校で検索すると,こんなページが出てきました。

http://www.ne.jp/asahi/drshin/website/sanennanshin/kadotani_bunko1.html

何かすごそうなところです(^_^;)
謎のアイドルは,浅田美代子さんではないかと思うのですが・・・(^^;)
ちなみに門谷は,住宅地図では2戸の高度過疎集落です。
旧水窪町門桁は仕事で水窪町から春野町へ抜ける時に通ったことが何度かあります。水窪町の市街からは峠を越えるため隔絶した雰囲気のある場所ですがやはり水窪町への道路がメインで春野町に向かう道路は谷間をすり抜けていく様な険しいものでした。集落を縫う道路の周りにわずかな茶畑が広がっていた記憶があります。

平成13年まで学校があったとのことですが今はあの峠を越えて通う児童がいるのでしょうか。
高度過疎集落という範疇には当てはまりませんが廃校の話題をひとつ。
榛原郡中川根町には現在学校が3校ありますがかつては各集落毎と言っていいくらい学校がありました。1枚目、2枚目の写真は地名小学校の跡です。地名には中学校の跡もあるのですがそちらはさらに郷愁の溢れる場所です。3枚目の写真は久野脇小学校の跡で門柱が残っています。
>きたたびさん
 門桁,中川根の情報,ありがとうございます(^_^;)
 門桁は,すごい山の中にして,結構大きな集落ですよね。
 学校が閉校になったということは,
 一般的には児童がいなくなったということなのですが,
 もしも児童がいたとすれば,スクールバスが出ているはずです。

 手元の中川根町の小学校の資料(昭和34年)には,10校の本校と
 1校の分校が掲載されています。
 へき地等級でいうと,久保尾小学校が2級で,いちばん高いです。
・水窪町水窪小学校門谷分校=へき地2級校,1クラス,教員数1名,児童数12名。
・中川根町久保尾小学校   =へき地2級校,4クラス,教員数6名,児童数105名。
(昭和34年現在)

この手の資料を見ていると,ほんと40年前には,山村にもたくさんの子供が
いたんだなあ…と思うことしきりです。
>HEYANEKO様
久保尾は先日どうしても気になり行ってきたところです。取りあえず幹線道路を往復しただけなのですが山の中腹にかなり大きな集落があることに驚かされました。学校の跡は気が付きませんでしたが今度じっくり歩いてみようと思います。それにしても久保尾の小学校に100人いたとは今ではとても想像もつきません。中川根町には小学校が3校あるのですが中央小学校の新1年生は9人、町全体でも新1年生は30人程度とのことです。
水窪小学校門谷分校へ行ってきました。
門谷の村は無人ではなく、1家族だけいらっしゃるようです
分校はお堂の上にあり、道路からはまったく見えません。
お堂の裏手、林の中にあることもあり、人為的な破壊は殆どありませんがあちこち腐ってきています。
学校前には校庭と呼ぶには小さすぎる広場があったようですが、現在は竹、木、草でスペースは何もありませんでした。

現在一家族だけ居る方はお茶を栽培しているようでした。
当日は山の手入れをしているとの事で、一族総出で作業中でした。※確認して以内のですが、若い家族は住んでいないようです

水窪市街地から上っていく途中に”大津峠”があるのですが、
そこには公衆電話があります。
門谷にも電気は通っているようです。
>zinzinさま
 門谷分校,行かれましたか!
 うーん,オススメはしたものの,行かれたとなるとうらやましかったり…(^^;)
 水窪には,「学校跡を有する廃村」(高度過疎集落を含む)が
 全部で4つありますので,めぐってみるのもよいかもしれません。
 #残りのひとつは有本です。
5月中旬(11日〜14日)、「廃村へ出かけて学校跡に泊まろう」
3泊4日ツーリングで、静岡・遠州へ出かけました。
訪ねた廃村の定形の情報は、次の通りです。

●小俣(Omata) 石切小学校小俣分校
  周智郡春野町(浜松市天竜区)
  へき地等級4級、児童数13名(S.34)、昭和41年閉校
●河内浦(Kawachiura) 水窪小学校河内浦分校
  磐田郡水窪町(浜松市天竜区)
  へき地等級1級、児童数26名(S.34)、
  昭和44年休校、昭和45年閉校
●門谷(Kadotani) 水窪小学校門谷分校
  磐田郡水窪町(浜松市天竜区)
  へき地等級2級、児童数12名(S.34)、
  昭和44年休校、昭和45年閉校

○写真1 小俣分校の校舎跡
  ※ 5/12(土)朝7時頃
  小俣は春野町の中心から約28km(石切経由)もある山の中。
  小俣の手前5kmほどの林道入口には閉ざされたゲートがあり、
  クルマではそこから先は歩いて行かなければいけません。
  #バイクだったので、助かりました(^_^)
  小俣は現在無住の地ですが、往時の校舎がしっかり残っています。
  ただし、スギが植えられているため、周囲はとても暗いです。
  朝日が上がってすぐのこの画像は、最大限の明るさを
  引き出すことができたように思います(^_^;)
  1日目(5/11(金))は、小俣の手前約12km、
  石切小学校跡の校舎(石切バンガロー)に泊まりました。

○写真2 河内浦分校の敷地に残されたすべり台
  ※ 5/12(土)昼12時半頃
  河内浦は水窪市街からもほど近い(約6km)高度過疎集落(4戸)で
  閉まっていましたが、食事処もあります。
  学校跡は住居のない川の谷間近くにあり、
  地域の方に所在を尋ねなかったら、わからなかったことでしょう。
  朝日が上がってすぐのこの画像は、最大限の明るさを
  建物はありませんでしたが、すべり台、ブランコ、ストーブなどが
  残されており、往時の雰囲気を想像するには十分でした(^_^)

○写真3 門谷分校の校舎跡
  ※ 5/12(土)昼2時40分頃
  門谷は水窪市街から天竜川林道で約16km、すごい山の中です。
  人気はありましたが、住宅地図では1戸なので、集落跡として
  取り扱っています。
  林道を走っていて門谷に着いて、
  「このあたりかな?」と祠が見えた箇所のカーブでバイクを停めて、
  祠の脇を山手に上がっていったところに分校跡がありました(^_^)
  ネット上でレポートを見ていたとはいえ、
  「よく鼻が利くようになったもんだ」と思いました(^_^;)
本日、月例(7月1日)の更新で
HEYANEKO's Web「学校跡を有する廃村」の
No.17「遠州編」をアップしました。
 http://www.din.or.jp/~heyaneko/

取り上げた廃村は、浜松市天竜区(旧春野町)小俣京丸,(旧水窪町)河内浦、
門谷です。
サブタイトルは「廃村に出かけて学校跡へ泊まろう」ですが、
小俣京丸や門谷の分校跡でキャンプをしたわけではありません(^_^;)
その他、過疎集落として、天竜区(旧春野町)石切,(旧水窪町)門桁にも
足を運んでいます。

画像は石切と門桁の学校跡です。
1泊目が石切の学校跡(石切バンガロー和田)でした。
1枚目が2001年8月、2枚目が今回(2007年5月)です。
門桁の学校跡は、へき地4級の深い山の中とは思えないほど立派です。
居心地でいうと、上に挙げた5つの学校跡の中では、ダントツで良かったです(^_^)
ご無沙汰です

HPにて拝見させていただきました
天竜川沿いの廃校めぐり、面白かったようで、なによりです

天竜川というかR152沿いは延々と対向1車線が延々と続きます
信号は少ないのですが、道がよくないし、迂回路も少ないので
時代の進みが遅いのかもしれません

門谷分校、わかりにくいようで、わかりやすい位置だったと思います。最初は通過してしまい、佐久間ダム近くまで行ってしまいました(笑) 最初は”それっぽいところだな”と思いましたが、お堂の向かいのお宅の方が親戚一同で作業をしていた為、「もっと奥だろう」という思い込みがまずかったです。
結局、そのお宅の方に尋ねたところ、「この奥だよ」といわれ、あっさりたどり着いたというオチでした。

時間が取れれば当方もまた再訪したい地域です
「分校の今昔」第3弾、水窪町水窪小学校門谷分校です。

左は「水窪町史・下巻」(1983)からの引用で、撮影時期は不明ですが、
元と記されているので、1970年〜1983年の間のものと思われます。
#明治12年開校、昭和44年休校、昭和45年閉校
「昭和34年に伊勢湾台風で半壊」とあるので、今の校舎はその後すぐに建てられたものではないかと推測されます。

右はこの5月、訪ねたときの分校跡です。
雰囲気はほとんど変わりませんね。
「入口の屋根の壁面に灰皿が打ちつけてある」とは、視力1.5のkeikoさん(私の嫁はん)が見つけたことなのですが、
今から思うと、「本当に灰皿なのかな」とも思います。
行かれたときには、是非チェックしてみてください(^_^;)
 >zinzinさんはじめ心当たりの方
>「入口の屋根の壁面に灰皿が打ちつけてある」

手元にある写真で確認しました。
はっきりわかる写真が無いのですが、ポコポコヘッド(島木 譲二)で使うような灰皿と思われます。
よ〜く見ると、灰皿の端にタバコを置く溝みたいなものが見えます。
林の中ではっきり見えないと言うこともありますが、私の中ではおっしゃる通り、”灰皿”にしか見えません

機会があれば確認したいところですね

仮に灰皿として、「なんで?」という謎は残りますが。。。
>zinzinさん
 門谷分校跡の灰皿の謎、ヒントは元門谷分校の写真にあると思います。
 もともと飾り屋根になっていて、灰皿の位置には紋章があります。
 何かの事情で飾りと紋章がなくなって、代わりに灰皿が打ちつけられた
 というのが私の予想ですか…
 さてさて、その実情は…(^_^.)
浜松市天竜区旧龍山村、旧水窪町に2泊3日のツーリングに行きました。
1月に宿泊があるツーリングに出かけたのは、バイク歴20年強にして初めてです(^_^.)
とりあえず、画像は水窪小学校大地分校跡(廃村名は峠)です。

●峠(Touge) 水窪小学校大地分校
  磐田郡水窪町(浜松市天竜区)
  へき地等級2級、児童数93名(S.34)、
  昭和45年休校、昭和53年閉校
本日、月例(5月1日)の更新で
「学校跡を有する廃村」のNo.25「冬の遠州編」をアップしました。
 http://www.din.or.jp/~heyaneko/index.html

取り上げた廃村は、浜松市天竜区の新開、有本、大嵐、峠です。
「熱中時間」の流れもこれで一段落です。

新開、有本には、4月末に再訪しました。
冬と春、ロケと単独ということで、印象が変わるかなとも思いましたが、
大きな変化はなかったです。
熱中時間ロケは、うまくできたほうではないかと思います。

画像は、TVでは登場しなかった大嵐分校跡の建物です。
やや変則的になったのですが、月例(6月1日)の更新で
「学校跡を有する廃村」のNo.26「列島横断 廃校廃村をめぐる旅(1)」を
アップしました。
 http://www.din.or.jp/~heyaneko/index.html

取り上げた廃村は、No.25に引き続き、浜松市天竜区の新開、有本です。
「列島横断 廃校廃村をめぐる旅」では、静岡県磐田市の天竜川河口から
新潟県糸魚川市の姫川河口まで、途中、20ヶ所ほどの廃校廃村をめぐりながら
旅をします。
姫川河口への到着予定は、旅では8月中、
レポートのアップでは12月1日までで、7分割となります。
昨日終わった第二陣の旅で、(5)まで駒を進めることができました(^_^)

画像は、静岡県磐田市の天竜川河口と、長野県茅野市の天竜川釜口水門です。
いきなり諏訪湖の湖面より2mほど低くなるんですね。
ご無沙汰しています

昨年の9月でしたが 天竜区の廃校巡り行ってきました。
下調べせず ふらっと行ったので沢山は回れませんでした。
帰って調べてみると 大嵐 有本があることがわかり 今年リベンジです

写真? 
佐久間市上平山小学校

写真?
羽ヶ庄小学校(分校?)

写真?
門桁小学校
>ギソさん
 天竜区の廃校廃村(7ヶ所)は、広範囲に分布しているので、
 一気に回るのはなかなか困難です。
 私は、おおまかには2系統に分けて回りました。
 【小俣京丸・河内浦・門谷】
   http://heyaneko.web.fc2.com/gh17.html
 【新開・有本・大嵐・峠】
   http://heyaneko.web.fc2.com/gh25.html

 どれもそれぞれに個性が強い、味のある廃村でした。
 有本・大嵐、出かけられたら、どんな様子だったか
 是非お知らせくださいまし…
11/22(木)から25(日)まで、3泊4日で関西に戻っていました。
埼玉への帰り道、静岡県の掛川で途中下車して、森町の廃村 中塚に立ち寄りました。

中塚には、クルマを置いてから10分弱山道を歩いて上らなければ行くことができません。
中塚にあった分校は、吉川小学校(のち天方小学校)嵯塚分校。
分校には、中塚からさらに10分弱山道を歩いて上らなければ行くことができません。

嵯塚は、佐賀野と中塚の一字ずつを取った合成名と思われます。
中塚に1軒残る家の方のお話しによると、
ほぼ山上にある分校から佐賀野までは、谷まで下って、それから山を上って、
歩いて約1時間かかったとのこと。
佐賀野へ向かう道は地形図(新・旧)には記されていなかったのですが、
この謎は解くことができました。

今は、佐賀野に向かう道は、山に還っていると思われます。
また、佐賀野と中塚を直接結ぶ車道はなく、佐賀野には行けませんでした。

画像は、階段から見上げた嵯塚分校跡で、背中の方向が中塚集落跡です。

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