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ここが変だよ比較文化論コミュの「日本人は集団主義・欧米人は個人主義」は本当か

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 「日本人は集団主義・欧米人は個人主義」というのが、日本人論のお約束である。アメリカ人は誇りを持って自らを個人主義と定義したがるし、ヨーロッパ人は自分たちはアメリカ人ほど個人主義的ではないと定義づけるようだ。オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステーデは、50か国でIBM従業員の調査を行い、個人主義度についてアメリカ1位、日本22位と発表した。

 (1) 日本人の意外な個人主義
 日本人の伝統的趣味は盆栽、囲碁・将棋、和歌・俳句、書道、華道など、個人で行うものが多い。尺八、三味線、演歌・民謡・浪曲などの伝統音楽も個人演奏であり、オーケストラ・合唱などポリフォニー重視の西洋音楽とは対照的である。欧米人の代表的余暇活動であるライオンズクラブ、ロータリークラブ、キワニスクラブ、ボーイスカウト、教会活動なども公共性・社交性を重視しており、欧米で「パーティー・ジョーク集」のような書籍が売れるのも、彼らが社交性を重視している証左といえる。社交性がなく、休日家にいてビデオを見ているような人は「カウチポテト」「ナード」などと言われ蔑まれるが、日本が世界に冠たる漫画大国である理由は、一人で漫画に読みふけることが許されているからだ。
 日本の伝統的スポーツである相撲、柔道、剣道、空手などもいずれも個人競技である。野球は日本で普及した数少ない団体競技だが、国産ではない。欧米で生まれたスポーツは、特に球技はサッカー、ラグビー、バスケットボール、バレーボールなど団体競技が多い。
 日本人が好むカードゲームは、七並べ・ババ抜き・神経衰弱のようなもので、一般にチルドレンズ・ゲームと言われているものである。これらは多人数であっても、各個人による個人戦であって団体戦ではない。
 これに対し、イギリス人が最も好むカードゲームはブリッジである。4人でプレーし、向かい合う2人は互いに味方で、イギリスでは2組の夫婦で行うことが多い。最も大きいコントラクトを成立させた人がデクレアラー(親)となり、その向かいの人はダミーとなる。ダミーは手札を全て公開し、デクレアラーの指示に従ってカードを切る(ダミーは自分の手札しか見えないが、デクレアラーは双方の手札が見えている)。ところが日本人はトランプの団体競技に違和感を抱くようで、ブリッジを人に教えると必ずきかれる質問がある。それは「ダミーはデクレアラーの指示に反してもいいのか」である。自分か味方のどちらでもトリックを取ればいいので、味方のカードが強い場合は、自分はわざと負けて味方に勝たせるのが常道だが、それが苦痛なのか切り札を切ったりする。明治20年に出版された桜井酔士著「西洋遊戯かるた使用法」では、ブリッジについて、チームが勝つため味方に協力しなければならないことがくどいほど説明されている。
 ブリッジがイギリスで愛好されている理由は、夫婦でプレーするとき、妻がデクレアラーになってダミーの夫に指図するのが快感だからと思うのは、うがち過ぎだろうか。日本でブリッジが受け容れられないのは、チームプレーに慣れていないせいもあるが、夫婦ではなく友達同士のプレーになると、先輩でもない友達の指示に従わなければならないことに抵抗があるせいかもしれない。

 (2) 自己主張する日本人?:カラオケ
 昭和50年代に流行したカラオケは、「シャイで自己主張しない」という日本人観とは全く合致しない。発明者の井上大佑は、今日のカラオケの隆盛を想定していなかったようで、特許を申請しなかった。だが酒の席では羽目をはずしていいというお約束があり、ストレス発散にもなるカラオケはバーやスナックなどから普及し始めた。もし特許を取得していたら、年間100億円の特許権収入が得られたと考えられている。
 カラオケは、それを行う時点ですでに仲間同士で集っている。日本では校則が私生活にまで及ぶなど、公の規制が私生活にまで浸透していることがあるが、公の規制が及ばないプライベートな領域になると、日本人は途端に自己主張し始めるようだ。
今日ではカラオケは、自己陶酔や自己主張が主流となり、井上は「人類に忍耐と寛容を教えた」功績によりイグ・ノーベル賞を贈られた。1978年度の新入社員は「カラオケ型」と命名されたが、その意味は「伴奏ばかりで他と音程合わず」だそうだ。余談だが、ジャイアンはカラオケが普及する前からエコーをかけて独唱していた。

 (3) 自己主張する日本人?:ブログ
 人口1億3千万人(2%)、ネット人口5367万人(7%)に過ぎない日本人だが、世界のブログに占める日本語の割合は何と37%にものぼり、英語の36%を凌いで世界一である(左図参照)。ブログの数は、プロバイダーがどれほど無料でブログ・スペースを提供しているか、パソコン購入・ネット接続料の支払い能力があるかという条件にも影響されるが、日本が世界に冠たるブログ大国であることは事実であり、日本人が自己主張しないというのは嘘である。
 ネット上では匿名が許されており、ここでも集団の規制がなくなると自己主張を始める日本人の姿がある。2006年度の新入社員は「ブログ型」と命名されたが、その意味は「表面上は従順だがさまざまな思いを秘め、時にインターネット上の日記を通じ大胆な自己主張をする」だそうだ。普段は奥歯に物が挟まったような物言いをする日本人が、匿名サイトになると途端にタガがはずれて過激な発言をしたりするのは、外国人が見たら意外に思うかも知れない。

 (4) 山岸俊男の実験
 「日本人は集団主義・欧米人は個人主義」の通説に対し、山岸俊男は興味深い実験を行った。日本人とアメリカ人のグループに、個室の中で指定されたアルファベット3文字を選び出す作業を行わせ、グループ全体の成績に応じて、メンバーに等額の報酬を与えた。ところが誰かが怠けていても、他のメンバーが頑張れば報酬をもらえるので、これに不満のある者はグループを離脱し個人で作業してもよいと言うと、日本人の方がアメリカ人より個人で作業するケースが多かったのである。
 山岸はさらに上述の実験を、非協力的なメンバーへの罰金ありと罰金なしのルールで行った。罰金なしからありに変えたとき、アメリカ人より日本人の方が協力度が高くなった(中図参照)。ここから山岸は、日本人の集団主義とは、日本人の性質に根付いているのではなく、相互監視・相互規制の社会システムと深い関係があり、見知らぬ者同士が個室で作業する場合は協力的にならないと結論づけた。

 (5) 「日本人は集団主義」はなぜ伝播したか
 「日本人は集団主義」の通説は、戦後間もなく出版されたアメリカの人類学者ルース・ベネディクトの「菊と刀」によって広まったと考えられている。この本は、日本が無残な敗戦へと突き進んでいった原因を究明することを主眼として書かれている。なおベネディクトは日本に滞在したことはなく、日本語を学んだこともなかった。
 アメリカ人は、自分たちを誇って「個人主義」というレッテルを使うことが多いが、交戦相手国の日本人には、その対極にある「集団主義」というレッテルを使った。それは、異質で理解しがたいものに対するオリエンタリズムであり、日本異質論の嚆矢とも言えるものであった。
 そして同じ時期、日本人も敗戦への反省から戦勝国アメリカに学ぶ必要を感じ、個が確立された文化や、規律が外部ではなく個人の内面にあるいわゆる「罪文化」を、自国文化よりすぐれたものと考えた。だが軍事的・経済的に追いつめられれば全体主義に陥るのは、ドイツ・イタリアの例を見るまでもなく、洋の東西を問わない。日本人は、戦時中の隣組、ラジオ体操、大政翼賛会などを回想し、自分たちは確かに集団主義的だったとしてこの言説を受け容れたのだ。
 保守派の間で聞かれる「GHQが日本の伝統と集団主義を破壊するため、個人主義を植え付けた」という言説もまた、前提・結論ともに誤りである。生徒が学校と対決する学校紛擾は、明治期だけで255件も報告されている。1920年から40年まで年間3200件の小作争議があり、江戸時代には1600件の一揆が起きている。日本人は決して、集団の前に一方的に個を犠牲にしてきたわけではない。
 日本人の集団主義については、その原因を農耕に求める言説と、封建制に求める言説がある。前者については、農耕が集団主義の原因なら集団主義は弥生時代に形成されたことになるし、そもそもヨーロッパ人も農耕を営んでいるので誤りである。後者については、終身雇用の起源が江戸期の武家にあるという前提が誤りで、実際には高度成長期に始まったものである。また欧米は終身雇用「制」ではないが、年齢と勤続年数が正比例の関係にあり、日本と欧米に差が見られない(右図参照)。なお護送船団方式や繁多な規制など、日本に特徴的な政府指導経済は、戦時中に始まったものが続いているものであり、その意味では全体主義と深い関わりがある。

 (6) グルーピングとパトロネージュ:博愛か権威か
 「鬼畜米英」から「戦後民主主義のバス」にいともたやすく乗り換えた日本人は、イデオロギーに頓着せず、利にさとく、組織の中では権力に服従するが、ひとたび組織を離れプライベートな領域に入ると、命令系統のない世界では驚くほど他者に無関心で、個人主義者ぶりを発揮する。日本人が重んじているのは博愛(横の関係)ではなく権威(縦の関係)であり、過労死するまで働くのも、滅私奉公ではなく制裁への恐怖が真の動機であろう。
 真の論点は「個人主義か集団主義か」ではなく、「博愛か権威か」ではないのか。環境運動など市民運動が日本で拡大しないのは、グルーピングされていない不特定多数の集団内では、恩恵を施す相手が目に見えず面識もなく、パトロネージュ(山岸の言う「内集団ひいき」)が効果を発揮しないからではないだろうか。

コメント(16)

 1塁にランナーがいるとき、攻撃側が企図するのはバントか盗塁である。日本野球では、投手はクイックモーションで投げ、投げた後はバントの守備に備える。
 昔巨人のサンチェ投手が、投手コーチから「ランナーがいるときはクイックモーションで投げろ」と要求されたとき、「盗塁されるのは捕手がヘボだからで、オレに要求するな」と言ったため、山倉捕手を激怒させたことがあった。サンチェはチーム内で孤立し、その年解雇されることになった。
 メジャーリーグでは、バント処理は一・三塁手の責任で、盗塁阻止は捕手の責任と分担されている。投手はバントを阻止するため、速い球を投げればいいのだ。そのためには、投げた後左投手は勢い余って三塁側に向き直ってもよい。バントされた場合は一・三塁手と捕手の責任となり、投手は守備を免除されているのである。
 アメリカの人口は日本の3倍近くあるほか、カナダや中南米からも人材が集まるので、その競技人口は4倍近くになるだろう。メジャーリーグでは、打撃と守備の両方がずば抜けていないとレギュラーにはなれない。メジャーの捕手は、座ったままでも二塁に送球できるので、投手はクイックモーションで投げる必要はないのである。
 だが日本野球の場合は、打撃はいいが守備に難点のある人でもレギュラーになることがある。このような欠陥を補完するため、チームプレーがことさらに重視される。盗塁阻止は投手と捕手が協力し、バント処理は一塁手・三塁手・捕手のほか投手も参加する。投手は投げ終わった後、正面を向いていなければならない。
 サンチェは、守備の下手な野手が一軍にいて、互いにカバーし合っているという日本野球を最後まで理解しようとしなかった。協調性と柔軟性を極度に欠いた性格は「怪人」と呼ばれ、数々のエピソードを残している。15年もアメリカにいて英語はほとんど話せず、巨人時代にも日本語は全く覚えようとせず、スペイン語通訳としてマルカーノを雇っていた。

 メジャーリーグにはかつて、ジム・アボットという右手のない投手がいた。投手は球種を隠すため、投げるときはグラブを持たなければならないが、アボットは右手首と右脇にグラブを挟んで投げ、投げた後は左手にグラブをはめた(アボット・スイッチ)。捕球後はグラブをはずし、球を左手で投げた。
 コンビネーションプレーが重んじられる日本野球では、守備に難点のある選手は避けられるだろう。一・三塁手が下手な場合はなおさらである。だがメジャーリーグでは、投手は速い球を投げられさえすればよく、守備は一塁手・三塁手・捕手が担当するので、右手のない人でも投手が勤まったようだ。
 記録を見る限りでは、アボットは他の投手より守備成績は良かったようだ。1993年9月4日にはノーヒットノーランを達成している。相手チームは9回になると、ランナーを出すためピッチャー前のセーフティバントを試みた。客席からは大ブーイングの嵐だったが、アボットは3人ともアウトに仕留めている。
 アボットは右手でバットを握れないため、エンゼルス、ヤンキース、ホワイトソックスと、DH制のあるアメリカン・リーグでプレーしたが、1999年ナショナルリーグのブリュワーズに移籍し、初めて打席に立つことになった。打者としては21打数2安打3打点の記録を残している。

 これらのエピソードは、日本とアメリカのスタイルの違いから来るものであって、「日本の方が集団主義」「アメリカの方が障害者に優しい」という話とはもとより関係はない。ただ、個人主義社会の方が障害者に寛容ということは、言えるかもしれない。


アボットの選手時代:http://www.nicovideo.jp/watch/sm1958451
(4)の山岸俊男氏の指摘が客観的で正鵠を得ているように思います。

拙著で分析しえたことと表向きは同じ結論ですが、

日本人組織は顔の見える集団内では「組織的強制」に従順に従う傾向が
極めて強いが、「強制力」がなくなる環境では欧米人以上に個人主義
(利己主義)をさらけ出す行動をとる、というものです。

これを私は(欧米人的エゴイズムと区別する形で)「日本人的エゴイズム」と
命名し、その特徴を「権威主義」「経験至上主義」「相対主義」に分類しています。
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

日本社会において一定の集団的強制力がないところでは個人はバラバラであり、
烏合の衆のごときです。ブログでも個々が勝手に放言していますが、
自発的な協働志向があまりありません。
だからかえって日本人は、自発的な協力や一致団結は困難で不得手です。

欧米人から見て「幼稚」と映るのは、自分の判断に基づいて自主的に行動したり
協働しようとする能力が欠如しているか不慣れである、という日本人の一面を
指摘したものと考えます。
>2
>日本社会において一定の集団的強制力がないところでは個人はバラバラであり、烏合の衆のごときです。
>だからかえって日本人は、自発的な協力や一致団結は困難で不得手です。

日本人が本当に集団主義なら、世界に影響を与える地球温暖化問題などには敏感なはずです。しかしながら、「地球人」としてのメンバーシップは特権的に許可されたものではなく、初めからあるものであり、何もしなくても剥奪されることがありません。日本人が帰属意識を強く持つものは、国家や大学や会社です。誰でも入れる公立中学の学歴は問題にされませんが、難関私立中学なら強い帰属意識を持つことでしょう。日本人が地球に帰属意識を持たないのは、集団が大きすぎて差別性がないからでしょうか。難関大学は入れる人と入れない人がいますが、地球は全員が入っているので、パトロネージュが効かないことに関係あるかも知れません。
日本人がエコロジーに興味を持たないのも、規模が大きすぎてパトロネージュが効かないせいでしょうか。会社などもっと小さな集団を、エコロジー活動に尽力した場合に利益還元するようにすれば、効果があるかも知れません。
>3

「集団主義」(さらに「集団」)の規模や定義が必要かと思います。
「集団」の形成の仕方についても、自発的な形成集団(サークル)か、
既成の強制的な集団(極端にはカルト集団など)によって異なります。

日本と欧米とでは主流となる集団の組織構造自体や組織論自体がかなり
異なっています。

別のトピで指摘しましたが、
日本にとっての「公」とはかつては「帰属組織」である「ムラ」であり、
「家族」であり、今では「所属企業」「学校」です。
それ以外は「私的活動」の類です。

西洋の概念では両者とも「私的活動」であり、「公的活動」とはそれを
超えたところにあります。ボランティア、NGO、政府、地域活動など。

こうした帰属集団を超えたレベルの「集団」については、
日本人はほとんど帰属意識を持っていません。
今の日本人は国家への帰属意識すら希薄かもしれません。
集団が大きすぎるというより、生活環境や教育的に「公共性」の観念が
刷り込まれていないし、体験的に自覚できていないからでしょう。
政治教育、社会教育、宗教教育も日本では希薄です。

日本人のエコロジー意識については「自然」概念の違いから説明しなければ
ならないのですが、日本人にとっての「自然」=「外部環境」とは周囲に
落ちている石ころや街中を闊歩しているハトのような存在で、それ自体
日常意識の対象外という扱いです。
西洋文化が「自然」を「人間」に敵対させ、コントロールすべき対象として
扱った伝統とは正反対です。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=87326&id=44436279
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshikunpat/60230349.html
●よしくんぱっと
たぶん、米国人からみれば、日本人は「互いを認め合うことができない人びと」という風に見えるでしょう。日本人からみると、日本人は互いを認め合うコミュニケーションをしていて、米国人はしていないように見える。米国人からみると、米国人は互いを認め合うコミュニケーションをしていて、日本人はしていないように見える。
なぜかと考えまして、次のように屁理屈をこねてみました。
日本人→相手に合わせて自分を変える
   →相手を認める態度
(米国人から見ると…
   →自分に合わせることを相手に期待する
   →相手を認めない態度)
米国人→相手の違いを認める
   →相手を認める態度
(日本人から見ると…
   →相手に合わせない
   →相手を認めない態度)
で、日米双方が、自分の方が偉いと思っている(笑)。


●Terra
米国では、リーダーシップが重要で
日本では、ボトムアップを重視するのではないでしょうか
リーダシップでは、状況を作りだすことを重視し
ボトムアップでは、状況に適応することを重視します
価値や権威がすでに確立されていれば、ボトムアップは有効です
価値や権威に合わせて適応することが求められるからです
出る杭を打ったり、権威主義になるのは、これで説明できます
================================

ボトムアップを重視する日本人の方が、集団の構成員を尊重していると表現することもできます。日本人が真に重視しているのはむしろ、個人と個人の間にある人間関係であって、決して「集団」などではない、日本人は組織論もリーダーシップ論も意に介さない「超個人主義」ではないかという気もします。
●街並み・景観の保護について
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=87326&id=41411784

12 May
イギリスもイタリアも景観を保持されてますが、実際に住んでみると、見た目を優先して機能や利便性を犠牲にしていることが多いのにびっくりです。景観を保持するためのコストも莫大。日本の機能性を重視した家やオフィスビル、学校に慣れちゃってるので、どうもこの景観重視の考え方に慣れません・・・・
景観重視なので、窓には網戸がなかったり、壁の中に断熱材さえ入れない家が多数。太陽光発電なんてどこもつけてない。口では環境環境と言っているけど、本当に環境のことを考慮しているのは日本の家です。
役所による規制は大変です。もう物凄く細かくてうるさくて、家を一軒建てるのに交渉に偉い時間がかかります。地域住民が団結して訴えてくることも。その交渉に費やす費用は相当なので、新築を立てるのにはうんとお金がかかります。景観保持のために雇用されている役人の多いこと。日本だったらみんな怒っているだろうし、景観のために行政の金をこんなに突っ込むことは考えられないです。
2番目。家の改築、改造など自由にするのは殆ど不可能。自分の欲しい物も取り付けられないんです。日本の方が個人主義というか自由。
新築は高いので庶民が買うのは1930年代、40年代、50年代に急遽立てられた中古の家。古い急作りの家なので直すところ沢山。21世紀ですから日本では一般的になってる太陽熱発電はつけたいし、衛星放送見たいし、雨でも洗濯物が干せるベランダも欲しい。
しか〜し、アンテナなどつけると、すぐに近所の住民から「周辺住宅の資産価値が落ちるから取れ」「誰の許可を取りましたか」という匿名の手紙が届きます。そんな所まで見てるの?とびっくり。庭に温室の部品を置いておいても、監視が大好きな住民から注意のお手紙が来るほどです・・・車庫のデザインや壁の色にまで文句が。ああ、恐ろしい。
敵は役所だけではなく近所の小市民。
ちょっといじると文句がどっから来るか分からないので、窓枠を簡単に変えるわけにも行かないし、自分の好きな色に家を塗り替えることすらできない。自由なんてありません。レンガ作りの家なら周囲にあわせてレンガにしなくちゃいけません。その改築費用ったら莫大ですよ。
その家に改築費用があるか等々なんて近所の人々は考慮しません。自分の家の価値が上がるか下がるかしか興味がない。外人が住むと、やれ庭の手入れが悪い、どこを直してないと色々言われます。日本の一戸建てやマンションの方が気楽で良かった。
イギリスもイタリアも、昔の建物をどこでも使いまわしてます。でも、昔の建物がどれも機能的なわけじゃないです。特に電気配線や配水管の引きなおしなど本当に大変。全部ぶっ壊して新しく立て直したほうが良い。そう思っている人もいます。でもコストが高いのでぶっ壊せないんです。新しい建物が建っている地域は、ナチスに空襲された地域が多いです。
オフィスビルや学校だって使いまわしのボロ建物。床はゆがんでるし、隙間風が入ってきます。石作りだから冬は寒くて大変。ぱっとみはいいけど、使いにくくて不便です。壁は崩れてくるし、埃は舞うし、カビも生えます。私なんか日本とアメリカでずっと新しい建物に囲まれて暮らしてきたから、不便で嫌だなあとしか思わないですよ。日本の人の多くもガマンできないと思います。
日本の昔の建物などそのままで住んだら、床はギシギシ、冬は寒いで実は大変。老舗旅館などに泊まると良くわかります(涙)そういう不便さにガマンして住みたい、使いたい、という人が少ないのでしょうね。それに耐震や耐火処理するのも大変。お金持ちじゃないと無理でしょうね。たまに遊びにいくのはいいですが。
コンビニやスーパー、大型店舗など作るのだって色々規制があるから無理です。だからイギリスもイタリアも町の真ん中は過疎化しています。みんな郊外のショッピングモールに買い物にいってしまう。
今や歴史的な景観の保存された街の真ん中に住めるのは、代々資産を持ってる金持ちとか、金融で設けた人や、小金持ちの外国人ばかりです。コンビニなどないから不便だし、買い物はすべて高い高い小売店舗で済まさないとならないのでお金持ちしか住めない。観光地でも歴史的な街は、人が閑散としています。地域の人にガマンしてもらって景観を優先した結果がこれです。
超革新的な建築や町つくりはNG。色々実験できる日本とかアメリカ、カナダの方は面白いと思います。


15 ささ
私は以前大学の講義で、欧米は自分の家の外側、つまり公の場に面している部分はプライベートエリアではなくパブリックエリアと認識していると聞きました。そして日本では、敷地内をプライベートエリアと認識していると。
May さんの意見は自己矛盾していますね。

>オフィスビルや学校だって使いまわしのボロ建物。床はゆがんでるし、隙間風が入ってきます。石作りだから冬は寒くて大変。ぱっとみはいいけど、使いにくくて不便です。壁は崩れてくるし、埃は舞うし、カビも生えます。

こんなボロボロの旧家が景観保存地区の中に多いと言っているのに、

>今や歴史的な景観の保存された街の真ん中に住めるのは、代々資産を持ってる
>金持ちとか、金融で設けた人や、小金持ちの外国人ばかりです。 

と書いています。
本当に実際の街並みや住民を観察しているのでしょうか?

以上はいったいどの地区を指しているのかわかりませんが、
イタリアでもイギリスでも都心の旧市街地区の汚いアパルトマンに住んでいる
のはサラリーマンか低所得者層が多いです。

景観重視はそれなりに「町の公共性」を維持する、つまり個人が平等に我慢
することで観光地の維持や環境保護に大きく貢献している。
だからアメリカや日本のように無差別に巨大ビルやレストラン、コンビニを
立ち並べてエネルギーを無駄に消費することなく、都心のヒートアイランドも
抑えられているわけです。

それらを総括すると、いったいどちらが多額のコストを費やしているのか
わからなくなります。常識的に判断すればボロ家屋でも住み続けているほうが
新築費がかからないためコスト安です。

あとは気候の違いです。日本に欧米のような石造りやレンガ造りの家を立てれば
当然すぐにカビて、風通しも最悪、もっと劣悪な環境になり住めなくなります。

日本でも同じ理由で奈良や京都などの景観地区ではうるさい決まりやルールが
結構あります。たとえば私の住んでいる奈良の地域では4階建て以上の建造物は
立てられないし、景観を壊すビルは建築禁止になっています。

便利さという観点でいうと不自由を感じるのは当然でしょう。
ただ便利さの結果、環境破壊やエネルギー無駄遣いが発生しているわけで、
持続可能な社会という観点からみれば日本やアメリカは短期破滅型の
無駄遣い生活をエスカレートしています。こんなぜいたくを続けていたら
エネルギーが直に枯渇するでしょう。
そのせいで途上国の多くの人々が貧困に陥っているのも知らず。

昔の日本家屋、200年持続する木造家屋のほうがよほど長期持続型の
建築を維持していました。今の日本はそれも平気で破壊しています。
Terra さんの意見に対して:

>米国では、リーダーシップが重要で
>日本では、ボトムアップを重視するのではないでしょうか

リーダーシップ=トップダウンではありません。
下からのリーダーシップというのも存在しますしね。

一方で日本の組織は「リーダーシップ」がなく、その代わりに
暗黙のトップダウンや慣習(不文律)が支配する社会です。

見せかけは下意上達のように見えながら、実は少数のトップが
上意下達で動かしている。あるいは官僚制のようにそれぞれの
部局のリーダーが部下に物を言わせない体制を敷いて複数で
独裁している、といった按配です。

ですからそんな単純な二分法では対比できません。

>リーダシップでは、状況を作りだすことを重視し
>ボトムアップでは、状況に適応することを重視します

これもおかしな対比です。
ボトムアップの民主主義は自らの手で新たな状況を作り出すことを
めざします。
リーダーシップは上からの主導で新たな状況を作り出すことをめざす
点では一致しています。

>価値や権威がすでに確立されていれば、ボトムアップは有効です

価値や権威が確立されていれば、トップダウンが有効なのでは?

>価値や権威に合わせて適応することが求められるからです
>出る杭を打ったり、権威主義になるのは、これで説明できます

カリスマ型の社会、封建型社会がこれに相当します。
以上はボトムアップ型の民主主義社会の対極に位置づけられます。
マックス=ウェーバーの『支配の社会学』でも参考にご一読ください。 
ミュージシャンのGACKTが、フランスのレストランで人種差別されたことが話題になっている。
http://www.madameriri.com/2015/07/07/gackt-discrimination-in-france/
上のブログでマダムリリーは、「すぐに人種差別と結びつけるのは浅慮」と述べているが、挙げている5つの項目がどれもみな別の種類の差別であり、かつ中国人への偏見をあらわにしている点で論外だろう。
滝川クリステルは「おもてなし」を流行らせたが、店員が心からのおもてなしをしていると考えるのはそれこそ浅慮だろう。マダムリリーはブログで「日本人の”責任感”は世界的に見ても特異」として、日本人は「店員一人ひとりが店の顔であるという教育を受けている」が、職場を離れると社会福祉などには無関心だと指摘している。日本人は山岸俊男の言う「内集団ひいき」に関心があり、見知らぬ不特定多数への親切にあまり関心がないのではないだろうか。日本でリベラルが流行らない理由も、そこに関係あるかもしれない。
http://www.madameriri.com/?p=17501
「店員一人ひとりが店の顔である」という社員教育には、もしも店員に人種偏見があったとしても、その人が自分を捨てて会社の利益のために客に奉仕するという利点はあるかもしれない。
「お客様は神様」という言葉に象徴されるように、客を大事にする商業文化は、江戸時代に商人の身分が低かったことが影響しているようだ。
独りをターゲットにバワハラ排除虐める行動動詞であるべきものがさもそれが当然かのようにイジメと名称で呼ぶところは責任回避 集団側の論理だあるが故 集団的なんだと思う。
けりど自分は常に排除される側の個人主義なので 他の日本人達に馴染めない。
https://www.madameriri.com/2017/01/28/individualism-in-japan/
マダム・リリーは「日本人は集団主義・欧米人は個人主義」という先入観にとらわれているようだが、「日本人は集団主義ではなく規律主義」という興味深い指摘がある。
また日本人の海外移住者に女性が多い点を挙げ、息苦しい集団主義は日本人の特性ではなく日本女性の特性だという指摘もある。
 「日本は同調圧力が凄い」というのは本当なのか?
                     高野 陽太郎
https://news.yahoo.co.jp/articles/f64adae3c9835d90bdbb77e40b9fead056815071
 2020年、インターネットで「自粛警察」という言葉がはやりました。それをきっかけに、「日本は同調圧力が凄い」という議論が盛り上がりました。「同調圧力」をテーマにした本もベストセラーになっています。
 私のところにも、ある雑誌から「同調圧力」の特集に原稿を書いてほしい、という依頼が舞いこんできました。この特集の「主旨」には、「世界と比べて日本社会における同調圧力は凄まじい」と記されていました。「私が原稿を書くと、企画の主旨と正面衝突してしまいますが……」と申し上げたところ、原稿の依頼は取り下げられました。
 インターネットでも「日本は同調圧力が凄い」と盛んに論じられていますが、はたして、それは本当のことなのでしょうか? 

■根拠はあるのか?
 「日本は同調圧力が凄い」という議論をみると、証拠らしい証拠はあげられていないことがわかります。
 「自粛警察」の例としてよく言われるのは、たとえば、店舗のシャッターに「オミセシメロ」という貼り紙がされたとか、県外ナンバーの車が嫌がらせを受けたとかいった話です。いずれも、日本のエピソードです。しかし、「日本は同調圧力が凄い」と言うためには、当然のことながら、外国と比べてみる必要があります。ところが、その国際比較をしていないのです。
 「日本の自粛警察の例はいくつも思い浮かぶけど、外国の例はひとつも思い浮かばない」かもしれませんが、それは証拠にはなりません。毎日、日本のテレビや日本語のサイトを見ている人なら、日本のエピソードはたくさん目にしても、外国のエピソードは、あまり目にする機会がないでしょう。「記憶に残っているのは、日本のエピソードばかり」ということになっても、不思議はないのです。
 それでも、注意していれば、日本語のサイトでも、外国のエピソードが目にとまることもあります。たとえば、アメリカでは、「コロナは政府の陰謀だ」と信じて、マスクの着用義務を非難していた男性が、新型コロナウィルスに感染し、病床で鼻からチューブを挿入されている動画を公開したところ、「治療を受けるなという脅迫も届いている」そうです(https://finders.me/articles.php? id=2545)。
 「日本は同調圧力が凄い」のなら、「こういうエピソードは、日本のほうが圧倒的に多い」はずですが、はたして、そうなのでしょうか? 
 それを確かめるためには、何が「同調圧力」にあたるのかをきちんと定義した上で、たとえば、日本のサイトとアメリカのサイトを沢山、ランダムに選び、「同調圧力」にあたる言説の数をかぞえてみる必要があります。しかし、巷の論議には、そんな数字が出てくることはありません。ただ日本のエピソードを並べたてているだけです。
 きちんとした比較をせずに日本のことだけを云々するというのは、昔からの日本人論の通弊で、1980年代から批判されつづけてきたのですが、いまだに変わっていないようです。
■「自粛警察」は「同調圧力」の証拠か?
 とはいえ、「自粛警察」があれだけ話題になったのですから、やはり「日本は同調圧力が凄い」と言っていいのではないでしょうか? 
 いや、そう単純に結論することはできません。「自粛警察」が話題になったという事実は、いろいろに解釈できるからです。
 たとえば、日本では「ロックダウン」ができなかったからかもしれません。欧米の多くの国々では、政府が商店に休業を命じたり、市民に外出を禁じたりして、警察官に取り締まらせました。いわゆる「ロックダウン」です。一方、日本の政府には、それほどの強い権限はなかったので、ロックダウンはできませんでした。「だから、市民がたがいに自粛を要求するほかなかったのではないか」という解釈もできるのです。
 それどころか、正反対の解釈だって可能です――「『自粛警察』という言葉までつくって、そろって『同調圧力』を非難するぐらいだから、日本人はよほど『同調圧力』を嫌っているにちがいない」という解釈です。
 じっさい、日本では、企業の「系列」から学校の「制服」や「校則」にいたるまで、「日本人の集団主義」に由来するとみられた「同調圧力」は、しばしば非難の大合唱を浴びてきました。「日本は同調圧力が凄い」という議論も、「同調圧力」にたいする非難ですから、「日本人は『同調圧力』を嫌っている」ことの証拠だと解釈しても、あながち的外れではないわけです。
 「日本は同調圧力が凄い」という説が正しいのかどうかを見きわめるためには、やはり、日本と外国をきちんと比較してみる必要があるのです。

■ウェブ調査の結果は?
 じつは、「同調圧力」については、日本と外国を比較した科学的な研究があります。その研究の結果はどうなっているのでしょうか? 
 大阪大学の三浦麻子教授と慶応大学の平石界教授のグループは、パンデミックが始まってから、コロナ禍に人びとがどう反応しているか、国際比較をするためにウェブ調査をおこないました(三浦麻子他, 2020)。
 この調査では、ウェブを通じて回答者に4つの意見を提示し、それに賛成か反対かを答えてもらいました。4つの意見のうち、「同調圧力」を表しているのは、次の2つです。ひとつは、「非常時には、他の人たちが政府の方針に従っているか、一人ひとりが見張るべきである」という意見。もう一つは、「非常時には、他の人たちを政府の方針に従わせるために、個々人の判断で行動を起こして良い」という意見。
 それぞれの意見に同意するか、しないか、「7」から「1」までの数字で答えてもらいました。もし「日本は同調圧力が凄い」という説が正しいのなら、日本人の答えは「7」に近い大きな数字になるはずです。欧米人の答は「1」に近い小さな数字になるはずです。
 では、じっさいの結果はどうだったのでしょうか? 
 2つの意見にたいする答えの平均値をとって比べてみると、図1のようになりました。予想とは正反対。日本人のほうが小さい数字になったのです。日本人とアメリカ人やイギリス人との差は、統計的に有意でした(つまり、この差が偶然に生じたという可能性は、ほとんどありませんでした)。この図は2回目の調査の結果ですが、1回目の調査でも、結果は同じでした。
 「一人ひとりが見張るべきである」というような意見は、まさしく「自粛警察」の考えかたです。「アメリカ人とイギリス人はこの意見に同意する傾向が強かったのに、日本人はあまり同意しなかった」という結果だったのですから、「日本は同調圧力が凄い」という説を真っ向から否定していることになります。科学的な研究は、この説を支持していないのです。
■日本人は同調しやすい?
 とはいえ、日本人論では、昔から「集団主義的な日本人は、たやすく集団に同調する」と言われてきました。このウェブ調査の結果は、そうした「常識」と矛盾しているように見えます。この矛盾はどう考えればいいのでしょうか? 
 じつは、日本人論のこの「常識」自体が間違っているのです。きちんとした国際比較をしてみると、それがわかります。
 心理学では、同調については、もう何十年も前から、たくさんの実験がおこなわれてきました。そもそもは、アッシュ(Solomon E. Asch)という心理学者がアメリカでおこなった実験が発端でした。
 アッシュは、5人から9人の大学生を実験室に集めて、かんたんな「知覚の実験」をおこないました。大学生たちには、図2のような2枚のパネルを見せます。右側のパネルには3本の線分が描いてありますが、3本のうち、左側のパネルの線分と同じ長さの線分はどれか、その番号を、声に出して答えてもらいます。図2の例では、「2」と答えれば正解です。いろいろな線分について、この判断を18回くり返します。
 じつは、この実験には「しかけ」があります。実験室に集められた大学生のうち、ほんとうの「被験者」は1人だけで、あとはみな「サクラ」なのです。もちろん、ほんとうの被験者は、そのことを知りません。
 サクラは、実験者が決めたとおりの答えをします。18回のうち12回は、サクラは全員、間違った答えをします。図2の場合なら、たとえば、全員が「1」と答えるのです。
 ほんとうの被験者は、かならず最後から2番目に答えるような並びにしてあります。ですから、たとえば8人の大学生がいる場合、ほんとうの被験者は、前の6人が次つぎに「1」と答えるのを聞いてから、自分の答えを言わなければなりません。
 3本の線分は、長さがはっきりと違っているので、「2」が正しい答えだということは一目瞭然です。でも、前の6人はみな「1」と答えました。さあ、どう答えればいいでしょうか? 
 ここで、前の6人とおなじく「1」と答えれば、「集団に同調した」ことになります。「2」と答えれば、「同調しなかった」ことになります。
 サクラが口をそろえて間違った答えをした12回のうち、ほんとうの被験者が同調したのは何回だったか、その割合が「同調率」です。アッシュの研究では、同調率は「37%」でした(Asch, 1956)。
 この数字は、「独立不羈のアメリカ人」というイメージを大きく裏切るものだったので、アッシュの研究はたいへんな評判になりました。

■日本人の同調率は?
 では、日本人の同調率はどうなのでしょうか? 
 「個我の確立していない日本人は、集団のなかで互いにもたれあっているのだから、実験をやってみなくても、結果はみえみえだ」という意見もありました。アッシュの「37%」という数字より、当然、はるかに高い数字になるはずだ、というわけです。
 その「はるかに高い数字」を期待して、日本にやってきたアメリカの心理学者がいました。彼は日本の大学でアッシュと同じ実験をやってみたのですが、出てきた同調率は「25%」でした(Frager, 1970)。期待に反して、アッシュの「37%」よりずっと低い数字だったのです。
 日本では、アッシュと同じ実験は、私自身の実験(Takano & Sogon, 2008)も含めて、全部で5回おこなわれています。出てきた同調率は、18%から27%まで、多少ばらつきはありますが、平均すると「23%」になります。いずれにしても、アッシュの「37%」より低い数字です(『日本人論の危険なあやまち』)。
 もっとも、アメリカでも、アッシュのあと、同じ方法でおこなわれた複数の実験の同調率を平均すると、「25%」になります(Smith & Bond, 1993)。ならば、「同調のしやすさは、日本人もアメリカ人もたいして変わらない」ということになるでしょう(図3)。
 アッシュの実験で同調率が高かった理由については、諸説あります。たとえば、「アッシュが実験をしたとき、アメリカは『赤狩り』の恐怖さめやらぬ時期だったので、同調率が高くなったのではないか」という説。もし、この説が正しいとすれば、「同調しやすさ」は、「国民性」で決まるわけではなく、「そのときどきの社会の風潮に大きく左右される」ということになります。
 ともあれ、ウェブ調査の結果には、何もおかしなところはないわけです。そもそも、日本人は、特に同調しやすい国民ではないのです。
■なぜ「同調圧力」論が受けるのか?
 このように、科学的な研究は、「日本人は同調しやすい」ことも、「同調圧力が強い」ことも、はっきりと否定しています。では、「日本は同調圧力が凄い」という議論がはやるのは、なぜなのでしょうか? 
 ひとつには、良心がとがめないからでしょう。「日本は外国に比べて、ここがこんなに素晴らしい」という議論をすると、「国粋主義っぽく」響くので、「リベラルな知識人」としては、どうしても良心が疼きます。しかし、「日本は同調圧力が凄い」という議論は、日本にたいする批判ですから、良心の疼きは感じなくてすみます。安心して議論ができるのです。
 もっと根本的な理由は、この議論が、「日本人は集団主義的」という日本人論の伝統的な信念に立脚していることでしょう。日本人論は、長年にわたって、「集団主義的な日本人は、自分を犠牲にしてでも集団に同調する国民だ」と説きつづけてきました。おおかたの日本人にとって、この見方は、すでに確固とした信念になっています。
 ですから、「日本は同調圧力が凄い」と言えば、だれもがすぐに同意してくれます。「証拠を示せ」などと言われる心配はありません。気持ちよく弁舌を振うことができるのです。
 しかし、近年の科学的な研究は、「日本人は集団主義的」というこの信念も、事実ではないことを明らかにしています。日本人とアメリカ人を比較した何十もの国際比較研究が、「集団主義」という点では、日本人とアメリカ人のあいだに違いはないことを示しているのです(『「日本人は集団主義的」という幻想』http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52478)。
 「日本人は集団主義的」という信念の元をたどると、明治時代に日本を訪れた、パーシヴァル・ローエルという1人のアメリカ人に行きつきます。この人物は、1年ほど日本に滞在したのち、「日本人には個我がない」と論じる本を書きあげました(『極東の魂』)。この本には、ほかにも、「日本人は子どもの段階にとどまっている」とか、「日本人には天才も鈍才もおらず、みな中間だ」とか、その後の日本人論で繰りかえされることになる幾多の感想が記されています。「日本人は集団主義的」という信念のもとは、個人主義を誇りとするアメリカ人が、その個人主義を裏返して日本人に貼りつけた、負のイメージだったわけです(『日本人論の危険なあやまち』)。
 第二次世界大戦が終わると、アメリカの占領下で、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』が出版され、「集団主義的な日本人」というイメージは、日本人のあいだにも広まって、すっかり定着しました。その『菊と刀』の出版からかぞえても、すでに70有余年。もうそろそろ、アメリカ人が日本人に貼りつけた「集団主義」というイメージからは、自由になっていい頃かもしれません。

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